クリスの偵察
「クリス、少し場所を変えよう」
人のいない場所へ歩いて移動すると、彼にリンゴを一つ渡した。二人でリンゴを齧りながら話を続けた。
「全員が特務師というわけではない。要所要所に配置されている。それから、正確には『元』特務師だ。執事長とメイド長、あと一番多いのは庭師で、ウラの特務師を一隊丸ごと持ってきている」
ウラの特務師は多くの功を積んでも出世ができるわけでもなく、領地をもらって貴族になれるわけでもない。それではあまりに不憫なため、叔父が第二の人生を褒賞として与えていた。
神薙の屋敷は機密性の高い職場だ。それゆえに、彼らは特務師団の団員一覧から除名されつつ、褒賞として「最後の任務」に就いた者たちだった。
彼らの実質の職業は特務師のままだが、表向きの職業は紛れもなく執事とメイドと庭師で、問題がない限りは生涯リアのもとで働くだろう。
「この間、庭で婚約者殿と庭師長が話しているところを見たが、めちゃくちゃ人の好さそうなヒゲオヤジだったぞ」
「あれが庭師長のヘルマンだ。とある界隈では超が付くほど有名人なのだが、なにせ裏の仕事だから誰にも顔を知られていない」
「あの風貌でウラの特務師とは……気をつけないとコロッと騙されそうだ」
クリスは腕を組んでブルブルと顔を振った。
彼の言うとおり、ヘルマンという庭師長はそこらへんの木こりや釣り人に良くいそうな、のんびりとした風貌のヒゲオヤジだった。
「後から付けた女執事のミストはまだ現役なのだが、アレンが『背中を任せてもいい』とまで言うから、少し無理を言って引き抜いた」
「しかし、特務師団長は書記を欲しがっていなかったか?」
「ややこしいよな。あっちはアレンが欲しいのに、こっちではアレンがミストを寄越せと言っているのだから」
それでもアレンが「どうしてもミストだ」と言えば、きちんと通る。
特務師団の訓練所に通っている彼は、その内外で十分な情報収集をし、本人とも時間をかけて話をしてから提案をしていた。
完璧な人選だった。その証拠にリアとアレンとミストの息はピッタリだった。
「なんて屋敷だ。現役のウラ特務師までいるとはな」
「団員と特務師は協力関係にはあるが、互いに監視し合う関係でもある」
「なるほど」
「で、俺はちょっとミストに嫌われている。睨まれると怖いぞ」
「ふはははっ」
裏側の仕事をする者は親兄弟と縁の薄い苦労人が多い。リアは何も知らず、そんな彼らを家族のように大切にしていた。
給金付き休暇などという驚愕の休日を導入し、誕生日も休みになった。結婚した者には給金付き休暇を一週間も与え、子が生まれそうだと言えば、なんで仕事なんかしているのだ、出産に立ち会え、今すぐ帰れと言って早退させる。子や孫が生まれたと聞けば産衣と菓子を贈った。
彼女は使用人達からほとんど崇拝に近い慕われ方をしている。
「あの屋敷の中は、ある種の異世界だ。リアから平静を保てと言われたら、命がけでもそのように振る舞うだろう」
「そうすると、屋敷の様子を見ても参考にならないのか」
「うむ。あ……いや、待てよ。侍女は別だ。あの二人は多少の訓練は受けているが内面は普通の貴族令嬢だ。リアに同調して一緒に泣いたり笑ったりしていることが多い。侍女長の様子はどうだった?」
俺がそう言うと、クリスはニヤリと右の口角を上げた。
「なるほどな。そうか、今ので納得がいったぞ。侍女長のことなら、これの話をしたほうが早いだろう」
彼は親指を立てて従者の手元を指した。
指されたほうに目をやると、クリスと俺の従者がそれぞれ箱と袋を携えている。
「それはなんだ?」
「聞いて驚け」
彼は嬉しそうにニヤニヤとして、口の端からだらしなく喜びをこぼしている。
「こっちは肉とワイン。しかも凄く良い物だ。そっちにはホウレン草とチーズのパイ料理が入っているそうだ。たしかキッシュとか言っていた。リア様の異世界料理らしいが知っているか?」
俺が首を振ると、彼は「団長様とお二人でどうぞ、だそうだ」と言って片目を閉じた。
他にも俺の好きな酢漬けの野菜や、ゆでた卵をリアの白ソースであえたサラダ、蒸し鶏などを詰めた瓶に加えてパンまで用意されていた。
従者のキースが嬉しそうにメモを差し出した。
「詳しくはこちらに書いてあります。パンはまだ少し温かいですよ」
従者の二人にも揚げた豚肉が挟まったサンドウィッチの差し入れがあるらしく、それも物凄く美味そうだとクリスが言った。
「帰って肉を焼けば、今、巷で話題の『婚約者殿の厨房』だ」
「俺が一緒だと言ったのか?」
「ん? 言ってないぜ?」
「では、なぜ……」
「『お二人で釣りに行かれていたのですよね?』と、侍女長に聞かれた」
「今朝、俺の部下に会ったか?」
「会っていない」
「……どういうことだろう」
「書記が婚約者殿に話したのではないか? 俺が釣ってくると予告する日は絶対にお前が一緒だ。それを知っているのは彼ぐらいだろう?」
「アレンはそんな話ができる状態なのか?」
「今日の昼から普通食に戻ったと言っていた」
「本当に治るのか? あの本に書いてあるように!」
「それは分からないが、侍女長は穏やかだったし、お前がどうしているか聞かれた。つまりそれは婚約者殿が知りたがっているということだ。そればかりかお前の食事を気にかける余裕もある」
クリスは俺の背中をバシッと叩くと、「お前の好物ばかりだ。婚約破棄の心配もなさそうだぞ」と笑った。
俺は震える両手で顔を覆い、これ以上なく深い吐息をついた。
涙が出そうだった。
いつもお読み頂きありがとうございますm(_ _)m




