執着と価値観
リアはたった一人でアレンの世話をしており、他の者が彼の部屋へ近づかないようにしていた。
神薙の予算で大量の料理人用マスクと割烹服、平民向けの安いドレス、白い綿の布などが購入されている。
汚染された部屋に入るための服、いわば鎧だろう。入室するたびに脱いで洗浄しているようだった。
汚染された食器や寝具、そして衣類などは彼女が隣の部屋へ運んで一度洗浄をし、感染の危険度を下げた状態で使用人に渡されている。
彼女はすべての危険と責任を自分ひとりで背負うつもりだ。
かつてアレンがそうしてリアを守ったように、リアもまた己の命を懸けてアレンを守ろうとしていた。
無理やりにでも彼女をエムブラ宮殿から引き離す方法はある。しかし、それをやれば王家と彼女との関係は破綻するだろう。それに、あの二人の間に特別な絆があることは明白だ。
彼女は無意識なのかも知れないが、俺よりもアレンの意見を尊重する。俺に甘えることはしないが、アレンには甘えて愚痴もこぼす。二人が冗談を言い合って笑っている様子は兄妹のように微笑ましい。
もはやアレンはリアの一部だ。死の病をもってしても、二人を引き離すことはできない。
俺があの女避けのメガネさえ渡していなければ、今頃神薙の婚約者はアレンで、死の病に冒されているのは俺だったのかも知れない。
こんなことになるのなら、あんな物を与えなければよかった。このまま彼に逝かれたら俺はそれを悔やみ続けることになるだろう。
死の病に触れてはならないのは神薙だけではなかった。我々王族も同じだ。うっかり死んで国を困難な状況にしてはならない。
敵がヘルグリン病である以上、俺達はリアのそばで共に戦うことはできなかった。
彼女の宮殿を追い出された翌朝、断られるのを覚悟のうえでユミールに事情を話し、頭を下げた。
彼はまるで何もかも知っていたかのように「わかりました」と、迷いもなく即答した。
死の病が怖くないのだろうか……。
彼はその日のうちにエムブラ宮殿へ行き、しばらく留まることになった。
律儀な彼は定期的に使いを寄越して進捗を報告してくれている。
彼はリアの人柄と才能を絶賛していたが、同じくらい宮殿の徹底した管理体制にも感心していた。
空いた時間は庭を散歩し、調度品や図書室を堪能して「とても充実している」とのことだった。
その一方で、魔力操作を習得させるのには相当苦労しているようだ。
無理もない話だ。彼が報告してきたリアの魔力量は、我々王族のそれを遥かに上回っている。抱えている魔力が大きすぎるせいで操作の難易度が増しているのだ。
いくらアレンのためとは言え、彼女がしていることはあまりに無謀だった。
彼女が宮殿内で薦めたという本を買って読んだ。クリスも読んだらしい。
書かれていることが本当なら、アレンは助かるのではないか。小さな希望が芽生えた。
本の中で「やるべき」と書かれていることは、リアの宮殿ですべて実践されている。いや、彼女はそこに書かれている以上のことをしていた。
ただ、その本の知名度の低さ、そして今までの死者の数を考えると、やはり楽観視はできなかった。
アレンが回復する希望、死の病で二人を失う恐怖、婚約破棄の不安、それらが交互に襲ってくる。この一週間、まるで生きた心地がしない。恐ろしい悪夢にうなされて、夜中に何度も飛び起きた。
彼女の緻密な報告書だけが俺の心の拠り所だった。
しかし、穴が空くほど読み込んでも、そこに彼女の気持ちや感情に関わること、そして彼女自身の暮らしに関わることは書かれていなかった。
叔父はリアを心配するあまり、幾度も状況把握のために使いを出していた。しかし、同じ報告書の複写が届くようになると静観するしかなくなっていた。
「最悪の事態は覚悟しろ」と、叔父は力なく言った。
「それを回避できたとしても、リアは我々に憤っている。婚約を破棄される覚悟も必要だ。お前のしたことはお粗末すぎる」
叔父に言われるまでもなく、自分が愚かなことをしたのは分かっていた。
俺をきつく叱ったのは叔父ではなく父だった。
俺と叔父には紙の報告書が数日遅れで届いていたが、父のもとには部下が一日に何度も飛び込んできて報告をしていたようだ。
父がリアの宮殿内のことに最も詳しかった。
父は王宮医と共にアレンを救う別の方法を模索しており、関係各所と連絡を取り合って大忙しのようだった。
俺は親友に言われるがまま釣りへ行き、リアの宮殿のすぐ近くにいながら為す術もなく、ただ柵にもたれてリンゴを齧っている。
俺は一体ここで何をしているのだろう。
何を待っているのだろう。
俺は何をすべきなのだろう。
いくら考えても必ず同じところで行き止まりになった。
王位継承権があるために、俺の選択肢は少なかった。第一騎士団の長であることもまた然りだ。
俺の迷路には初めから出口が用意されていない。出口を求めている時点で、俺は間違えている。
嫌になるほど凡人なのに、凡人と同じ選択肢を持たない俺は、自分が何なのか時々分からなくなる。
十代の頃、俺の隣でまったく同じことを言った男がいた。王太子のフィリップだ。
あの頃の俺には彼が何を言っているのかさっぱり分からなかったが、今になってようやく理解できた。
俺は物心ついた頃から自分の巨大すぎる魔力に手を焼き、魔力暴走を抑える訓練に膨大な時間を割いていた。人並みの暮らしを手に入れるためには、それをせざるを得なかった。
俺がそんなことばかりやっている頃、彼はもう自分が凡人であることに気づいて悩んでいた。十二とか十三の子どもが、サロンで静かに茶を飲みながらポツリと言ったのだ。
「教育係と呼ばれる人たちが言うほど、僕には僕自身が特別なものには思えない。何もかもが普通だ。褒めそやす奴らは信用するな。あれは僕らを調子に乗らせて傀儡にするために王宮に来ている」
「あなたがたは特別な人です」と言われて育てられた俺達だったが、特別なのは置かれている環境だけで、俺も彼も凡人だった。
「今頃気づいたのか」と馬鹿にされそうだが、フィリップは今のやるせない気持ちを共有できる唯一の人間だ。しかし、俺が必要としているとき、彼はいつもいなかった。
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