宮殿の決断
「あの、ちょっと疑問に思ったのですが、この国の人々はどうしてこの本が信じられないのでしょうか。この著者は、わたしの母国のお医者様と概ね同じことを言っていまして、その根拠となる検証結果、それから緻密な取材による実例が細かに書かれているのですけれども……」
わたしの素朴な疑問にミストさんが答えてくれた。
「出版後すぐに有名な治癒師が批判したせいだと思います」と。
「なるほど、知名度に物を言わせて売れないようにされてしまったのなら、まだ救いようがありますねぇ。アレンさんが元気になった後、こちらも神薙様の知名度を有効利用して世の常識をひっくり返したいと思います。フフフ、忙しくなりますねぇ」
「リア様の国では感染症の病人はどうなるのですか?」と、執事長が聞いてきた。
「隔離して看病します。重症化した場合は入院ですけれども、入院先でも徹底した感染防止策が施された環境下に隔離されて、しっかりと治療を受けます。病は日々研究されていて、どんどん新薬が開発されます。先の感染症が猛威を振るっていたときは、医療費を国が負担していました」
皆は互いに顔を見合わせていた。
「実はわたしの父も感染して」と話し始めたところ、メイド長が「亡くなったのですか?」と悲鳴のような声を上げた。
「いいえ、家族総出で看病して完治しました。病院は一杯で入院させてもらえなくて大変でした」
「逃げなかったのですね……」
「父を置いて逃げようという発想はまったくなかったです」
「そう、ですよね……」
「精神的なことはさておき、現実的なお話をするならば、わたしの母国で病気の家族を捨てて逃げることは罪になります。その結果、死なせたとなれば罪はさらに重くなります。わたしの母国では人の命から目を背けて逃げることは許されません」
この国には保護責任者遺棄罪なんてなさそうだ。なにせ皆で逃げまくって、それを常識にまで押し上げてしまっている。
「自分も感染する危険性がありましたけれども、わたしの恐れは少し別のところにありました。自分の無知によって選択を誤ることが怖かったです。それによって大事な人を亡くすことが恐ろしい。アレンさんがいなくなることが怖いです。怖くてたまらないです。感染したのがメイド長であっても、庭師の誰かであっても、わたしの選択は変わりません」
メイド長が堰を切ったように泣き出してしまった。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。わたしは父の看病で慣れています。物資さえ潤沢にあれば、一人で看病ができますので、外から食料と物資の供給をお願いしたいです。わたしが皆さんにお願いしたいのはそれだけです」
ぺこりと頭を下げた。
「それは、できます。できますが……」と、執事長は言葉を濁した。
「そのほかのことはすべて有り難く受け入れます。逃げてくれてありがとう。残ってくれてありがとう。そういうことです。皆の幸福と安全が一番大事です」
看病は強制されてやるものではないので、気持ちのある人が一人でもいてくれればいいな、とは思う。でも、離れたところから見ていてくれるだけでも嬉しい。
「私、残ります」と、ミストさんが手を上げた。
「ここに来て以来、しょっちゅう『俺の代わり』と言われて、ぜぇぇっったいに無理ですから。元気になってもらわないと困ります。可能性があるなら、なんなりとお手伝い致します」
ぷふっ! と噴き出してしまった。もー、ミストさんらしい。
彼女にとっては重圧らしいけれども、アレンさんとミストさんの間で交わされる「俺の代わりにミストが」と「いや無理だってば!」というやり取りはいつも面白くて皆が笑う。
「オーディンス様は真の騎士です。私も残り、お手伝いをさせて頂きます」と、執事長が言った。
「ありがとうございます。皆さん一旦持ち場へ戻り、部下に説明をお願いします。くれぐれも避難を前提に、逃げやすく逃げやすくお話をしてくださいね」
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皆が離れている間、フィデルさん達とテーブルの配置を変えて黒板を運び込み、サロンを簡易的な事務所にした。
騎士団は早々に「全員残る」という回答が集まっていた。
しばらくして執事長たちが戻ってきたけれども、避難を申し出た人が一人もいないことを知らされた。
良からぬパワハラ的な動きでもあるのではないかと勘ぐってしまい、料理人やメイドさん達のところへ行って再確認してしまった。しかし、アレンさんの人望なのか「看病の最前線に立つことはできないにしても、間接的に何か助けたい」と言っている人が多い。
有り難いことだ。わたしは万全の態勢で看病に臨むことができる。
これみよがしに神薙名義で領収書をもらいながら、書店にある『ヘルグリン病から逃げるな!』を買い占めてもらい、宮殿の全員に配布した。
さらに、料理人用のマスクも配った。
一番広いボールルームに従業員と騎士を集め、料理人から手の洗い方・うがいの仕方などをレクチャーしてもらった。彼らが厨房入りする前にやっていることや、調理中につけている帽子とマスク、日頃から気をつけていることが、丸ごとヘルグリン病の感染予防策と同じだった。
本を参考にしながら、強いお酒を水で薄めて空きボトルに詰め、屋敷の各所に置いた。
アレンさんの部屋から一番近い中央階段と部屋の前の廊下には、色付きのロープを張り、汚染範囲であることが分かるようにした。うっかりいつもの習慣で近づかないよう、境目には騎士に立ってもらった。
隣の空き部屋は、汚染されたものを一次洗浄する場所として押さえ、わたし以外は立ち入り禁止とした。
現時点では治療法も特効薬もない。まずは感染者を増やさないために打てる手を打った。
「おなかの風邪にしては少し大袈裟かな?」とは思ったけれども、なにせ情報が少ない。徐々に緩和するのは簡単だけれども、徐々に厳しくするようでは感染が広がるリスクがある。序盤の対策はちょっとやり過ぎくらいでちょうど良かった。
メイドさん達は普段めったにかぶらないフリフリのメイドキャップを引っ張り出し、髪を中に入れてしっかりかぶっていた(めっちゃ可愛い)
皆、真面目に手指の消毒をし、換気をして、距離を開けて会話をしていた。
意外とマスクを嫌がる人もいなければ、除菌を面倒くさがる人もいない。これは言われたことを完璧にやり、ルールに則ってそのとおりに行動することに慣れた人達の強みなのかも知れない。




