緊急事態宣言
さて、どうしましょうか。
死の病が、実は死の病ではないかも知れない、という状況は飲み込めた。
本を全部読むのは後にして、まずは自分の行動を決めなくては……。
全員がここから逃げ出したとしても、物資と食料さえあればわたし一人で看病できるかも知れない。
少し心配なのは日本に比べて家電が少ないこと。特にお洗濯が一番大変で、基本は手洗い。大きいものは足で踏み踏みして洗うことになる。脱水機も二つのローラーの間に洗濯物を通す『絞り機』だ。メイドの皆が洗濯をする様子は見ていたし、こっそり手伝ったこともある。やろうと思えばできるはず。できることなら皆にいてほしいけれども、贅沢は言えなかった。
本を読んだかぎりでは、感冒性胃腸炎(いわゆるオナカの風邪)が結構ひどくなったもの、という印象が強かった。
経験したことがある人には分かるあの辛さ。オナカの不調を抱えつつ高熱で寝込むのはめちゃくちゃキツい。
でも大丈夫。アレンさん、大丈夫ですよ。わたし頑張りますっ。
フゥと吐息をついて顔を上げると、皆がこちらを見ていた。
「あのぅ、いくつか用意して頂きたいものがあるのですが、お買い物をお願いしてもよろしいでしょうか? 今、メモをしますね」
まずは感染防止グッズを早急に手に入れたい。
ざっとお買い物メモを書いて渡し、お使いを頼んだ。
「アレンさんの部屋の左隣は空き部屋でしたよね? そこをわたし専用の部屋とさせて頂きます。部屋に運び入れて頂きたいものがあるので、それもメモしますね?」
メモを書いて執事長に渡すと、彼は内容を確認してから部下に指示を出した。
腹は決まった。やることも決まった。必要最小限の準備さえしてもらえれば、皆が一斉にいなくなってもどうにかなる。
準備をしてもらっている間に、皆にもそれぞれ行動を決めてもらおう。
本を閉じ、よいしょ、と立ち上がる。
手に入れたばかりの本は折り目だらけになっていた。
ふと表紙を見ると『ヘルグリン病から逃げるな!』というタイトルだった。まったく売れていないというそのタイトルに指を滑らせる。
今日からこの本は神薙様の推薦図書だ。すべての国民に読んで頂きたい。そして願わくはこの国の医科学をもっと発展させて頂きたい。
コホンと咳払いを一つした。
「では……この宮殿に緊急事態を宣言いたしますね」
エムブラ宮殿の管理マニュアルに則って、緊急事態宣言をしてみた。
「リア様、何をする気ですか」と、フィデルさんが言った。
「わたしは今からアレンさんを助けるために行動します。あ、でも、皆さんは自由ですので」
「自由? 自由とは?」
「ここから避難したい方は、上長に申し出たうえで宮殿を出ること。その際、連絡先を必ず伝えて出るようにしてください。ここに残ってくださる方には感染予防の方法をお伝えしますので、次の指示を待つこと。ただし絶対に感染しないというお約束はできません。ここに残るのは自己責任です」
皆が戸惑っていたので少し付け加えることにした。
「避難をした場合も、基本的なお給料は出すよう陛下にお伝えします。皆さん、部下を集めてこのことを周知し、避難する人の連絡先一覧を作ってください。それと同時に、ここに残る人員の把握をお願いします。休暇中の人にも連絡をしてくださいね」
「お待ちください。逃げても給金が出るなら皆逃げるのではありませんか? 主を置いて逃げるなど……」と、執事長が言った。
「でも、この国の常識は『逃げる』なのですよね?」
「あ……」
「ですので、逃げるのが正解なのかな、と」
「そ、そうでした。すみません、先程の話で治る気がして、少し頭が混乱しています」
「わたしが非常識なことをしているだけなので、無理に付き合う必要はないのです。忠誠心や同調圧力のせいで、逃げたいのに逃げられないような状況は困ります。より常識的なほうへ行きやすいよう、お給料を出したいと思っています」
「なる、ほど……」
「それで、残ってくださった方には危険手当をお出しするのですが、それはまだ伝えないでください。より皆が逃げやすいように話してあげて頂きたいのです」
「はい……いや、しかしリア様は? 恐ろしくないのですか?」
恐ろしくないと言えば嘘になるけれども、わたしが恐れているものは皆が恐れているものとは少し違う気がする。
「うーん……怖いもの知らずだと思われると困るのですけれども、実は少し前に、わたしの世界でも治療法のない感染症が猛威をふるって、たくさんの人が亡くなる出来事がありました。それで少し慣れてしまっているというか、若干マヒしていると言いますか……」
「その際は逃げなかったのですか?」
「世界中で流行したので逃げ場はなくて。でも、その時にお医者様たちは『正しく恐れろ』と言いました」
「恐れに正しさがあるのですか?」
「要は正しい知識を持ちなさいという意味なのです。そのうえで恐れなさい、正しい予防と正しい選択をしなさいという意味ですねぇ」
「正しい選択ですか……しかし、もはや何が正しいのか……」
多分、彼らは不慣れなのだと思う。
誰かが作ったマニュアルやルールどおりに振る舞うことが良き紳士淑女なので、死の病に関して常識的とされる振る舞いに疑問が湧いたとき、どうしたら良いかがすぐに判断できない。
言うことを聞き、従うことに慣れすぎていて、自分のためだけに自由にしていいと言われると、どうすればいいのか、それをどう部下に伝えたら良いのか迷ってしまうようだった。




