死の病①
2 緊急事態(POV:リア)
ある日の朝食後、サロンでお茶に口をつける間もなくわたしは困惑していた。
「避難? わたしがですか? どうして? どこに?」
その朝は初めからいつもと少し違っていた。
わたしにわからないように、あちらこちらに少しずつの違和感をまぶした感じの朝だった。
違和感その一、侍女の様子がおかしい。
マリンがいないにしても静かすぎる。二人とも何か思い詰めているかのように、黙々とわたしの支度を手伝っていた。
その二、リビングのドアの向こうが騒がしいような気がする。
うるさい音が聞こえているわけではないものの、何かざわついているというか、いつもの静かな朝ではなかった。
その三、アレンさんがいない。
ドアを開けるといるはずの彼がいなかった。朝イチからの訓練がある日と休みの日以外は必ずそこにいるはずなのに。前日には必ず翌日は訓練であることと、戻りの時間を教えてくれる。「離ればなれは寂しいですね?」と冗談も言う。
今日は出勤日だ。いるはずのアレンさんがいない。それはわたしをちょっぴり不安にさせた。
その四、フィデルさんに羽が生えていない。
フィデル・ジェラーニ副団長は心に翼を持つ御仁。わたしが部屋から顔を出すと「おおっと、花の妖精が出てきたのかと思った」とか、何かしらチャラめの冗談を言わずにはいられないダンディーだ。そんな彼が、朝のあいさつよりも先に真顔で言った。
「まだ部屋から出ないでください」と。
「何かあったのですか? アレンさんは? ヴィルさんは?」と、わたしは尋ねた。
「団長は別件で朝早くに陛下から呼び出しがあり、出かけています」
「アレンさんはヴィルさんと一緒? お休みですか?」
「アレンは……ちょっと……」
「ちょっと?」
わたしたちが話していると、部下の隊長さんが走ってきて彼にこそっと耳打ちをした。すると彼は「お待たせしました。食事に行きましょう」と言った。
彼とダイニングへ行く道中、朝のあいさつを交わした人たちの様子もどこかいつもと違う。
違和感その五、ミストさんの目が赤い。
寝不足という感じでもない。彼女はいつも階段の下で待っていて、ピシッと敬礼して朝のあいさつをする人だ。ところが彼女はペコリと頭を下げて「おはようございます」と言った。
いつもの彼女ではない。鼻も少し赤い気がする。もしかして泣いた? 具合が悪い? でも、男子に言いたくない類の不調だといけないので、あとでコソッと話すことにした。
違和感その六、普段いない人がいる。
ダイニングの前にマーク・マーリス副団長が立っていた。
短い黒髪の寡黙な騎士は、この宮殿にいない団員の統率を任されている。めったに来ない人が来ている時点で、何かあったと考えるのが妥当だった。
「何が起きているのですか?」と尋ねた。
フィデルさんは一拍考えてから「詳しいことは食事の後に話しましょう」と言う。
マークさんもそれにうなずいた。
そして、食後のサロンで避難のことを告げられた。
まだヴィルさんの命令待ちではあるけれども、今日ここから非難をするとのことだった。
まさか本当に避難訓練シナリオのようなことが起きているのだろうか。
陛下の身に何かあったのではと心配になった。しかし、陛下は無事だと言う。
「では、わたしは誰から逃げるのですか?」と尋ねた。
フィデルさんは眉間にシワを寄せ「人ではありません」と言う。
「人ではない? では何から??」
「死の病からです」
「感染症の類ですか?」
「……はい」
『ヘルグリン病』という致死率の高い伝染病があるらしい。
患者は直ちに隔離されるので、王都では爆発的な感染拡大には至っていないらしいけれども、地方では多くの死者が出た例があるという。
わたしの避難が検討されているということは、それなりに近くまで迫ってきているということだ。
続けてフィデルさんは衝撃の一言を放った。
「実は、この宮殿で感染者が出ました」
「え? ここ? ここで??」
大変だ……。いきなり大変なことになってしまった。
「誰? 誰ですか? まさか、朝からアレンさんがいないのは……。アレンさんは? どこにいるのですか? 具合は? お医者様は? 治癒魔法は? お薬は? お熱はあるのですか? お食事は?」
「リア様、落ち着いてください。あまり動揺すると民に影響が出ます」
「あ……。ご、ごめんなさい……お天気が」
侍女長が「深呼吸をしましょう」と背中をさすってくれた。
皆には言わなかったけれども、深呼吸をしてもあまり気持ちは落ち着かなかった。
普段、めったに口を開かないマークさんが、落ち着いた低い声でゆっくりと状況を説明してくれた。
今朝、アレンさんの感染が発覚したこと。
感染源となったのは王宮に勤めている人であること。
アレンさんはお部屋で自主隔離状態にあるため、広がる可能性は低いこと。
「それなら避難の必要はないのでは?」と指摘をした。しかし、そこでこの国の驚くべき伝染病対策を知らされた。
面倒を見ていると次の感染者が出るため、屋敷を放棄して皆で逃げるのだと言う。
「そんな……十四世紀じゃあるまいし」
「十四世紀とは?」
「あ、いいえ。わたしの世界では何百年も前です。黒死病という深刻な伝染病が猛威を振るった時代があって」
「つまり、リア様から見ると相当な時代遅れということですね」
「一概に遅れているとは言えませんが……。病は治癒師がなんでも治せるのではなかったのですか?」
「治癒魔法はすべての病が治せるわけではありません」と、フィデルさんは首を横に振った。
てっきり万能なのだと思っていた。
わたしだけが異世界から来たせいで効かないだけなのかと……。
「アレンさんは助からないのですか? そんなに感染力が強くてひどい病気なのですか?」
フィデルさんは強く唇を噛んでいた。
「彼のことは幼い頃から知っています。小さい頃から私に懐いていて、弟のようにかわいがってきました。なんとかして助けたい。助けたいのです……」
彼が震える手でウェーブのかかった赤茶の髪をくしゃりとつかむと、マークさんが励ますように肩に手を置いた。
ど、どうしましょう……。




