メガネを殴る
神薙のリア様は、小さくて可愛くてはかなげな、いかにも神様らしい人だった。
しかし、そんな繊細そうな見た目とは裏腹に驚くほど大雑把なところがあったり、ひょうきんだったり、コソコソと面白いことをやっていた。
そういう人だからなのか、リア様のそばにいると気分が良くて体も軽かった。いつも周りに笑いが絶えない人だ。
私のことを「ミストさん」と呼ぶ。
宮殿で働く人々は全員がそうやって名前に「さん」を付けて呼ばれていた。
「ヘルマンさん」には大笑いした。あのヒゲオヤジの名前に「さん」を付けて呼ぶ人を初めて見た。
ヘルマンも私が「ミストさん」と呼ばれているのを聞いてゲラゲラ笑った。
リア様は名前という名前をきれいさっぱり忘れる特技を持っていて(メガネ談)、宮殿の人々の名前を覚えるために毎日散歩をして話しかけていたそうだ。
一発で名前を覚えてもらえた私はかなり稀な例らしい。
黒いカールにもらった名は気に入っていて、もともと特別だった。それがエムブラ宮殿に来てから輪をかけて特別なものになった気がした。
メガネに頼まれた仕事の一つ目は、数時間後には終わっていた。
二つ目も全然問題ない。
彼が言うとおり、身辺を守ることもさることながら精神面の支援や作業の手伝いが主な仕事だった。
おかしなメガネ岩にクーラムの基礎を教えた縁で、私は今までとはまるで違う能力を買われて現場にいた。そして、今までとは真逆の仕事をしていた。
ある日、私はメガネに素朴な疑問を投げかけた。
「なんでリア様の前でその変なメガネをかけるの? 逆じゃない?」
これはずっと聞きたかったことだった。
すると、メガネは口をへの字にした。
「仕方ない」
「は?」
「色々と事情がある」
「そんなのをかけていたら、あの王甥に取られるよ?」
「それも仕方ない。それに俺は理想が高いのだ」
「意味が分からない……」
「よく言われる」
仕事中の彼は終始メガネ岩だ(面倒くさい奴)
しかし、神薙警護において、彼は他の追随を許さないほど圧倒的な存在だった。
宮殿内での彼の権力は絶大だ。
本人はちっとも偉ぶらないけれど、信頼度が高く、一言で全員が動いた。お庭番の長を務めるヘルマンも彼のことはベタ褒めしている。
メガネはリア様を溺愛していた。
護衛だということもあるのだろうけれど、彼はずーっとリア様を目で追っていた。
というか、エムブラ宮殿にいる騎士はそういう人ばかりだ。
皆、リア様の邪魔にならない位置、邪魔にならない距離から、ずーっと見ていた。
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リア様の最初の夫は王甥に決まった。
しかし、私には何かがしっくりこなかった。
リア様が愛している男は王甥だったけれど、一番信用しているのはメガネだった。
愛していても信用に足らない男というのは一体なんなのだろう。
何だかおかしな関係に見える。
そう思うのは私がヒト族だからなのだろうか。私が普通の恋を知らないせいだろうか。
私に高貴な人々の考えることは分からなかった。
メガネは淡々と仕事をしていたけれど、時折ひどく心配そうな顔をしていることがあった。
そういう時、決まって彼の視線の先にはリア様と王甥の姿があった。
彼は相変わらず特務師団の訓練に通っていた。
しかし、気づけば訓練所でメガネと互角にやり合える人間が少なくなっていた。
私たち特級特務師は意地だけで「アレン・オーディンス最強説」に抗っている。
メガネが攻撃に転じると、あまりの手数の多さに防御で手一杯になった。
かといって彼は避けるのも抜群に上手い。
手合わせをする機会が少なかったこともあるけれど、私は彼に一発も入れたことがなかった。
初めこそ教える立場だったシンにとっても、互いに高め合える最適な訓練相手になっていた。
メガネの凄さは理論から入るところだろう。
頭が良すぎて時々何を言っているか分からないが、頭で完全に理解してからそれを体で実現する。
その場でできなかったとしても、何かに取り憑かれたようにそればかりを繰り返しやり続ける。
変なメガネをかけているくせに恐ろしく視力がいい。
相手の手や武器が出てくる軌道を読み、すべて避けてしまう。
それに、腹が立つほど陽動が巧かった。視線を盗んで裏をかこうとしても、そのまた裏をかかれた。
強い。
これが天人族という生き物なのだろうか。
それとも、メガネがこういう戦い方を得意としている戦闘員なのだろうか。
こんな奴が魔法でも攻撃をしてきたら、ヒト族なんてひとたまりもない。
「……っ!」
つかまらない。
当たらない。
こんなに空振りをしたことはないというぐらい、私の拳は空を切った。
当たったと思っても防御されていて何のダメージも与えられていない。
しかし、私もずっと同じではなかった。
リア様とこだわり抜いて動きやすい下着を作って装備するようになった。
さらしを巻いていた頃とは上半身の動きやすさが違う。
やいメガネ、今日こそ一発ガツンと入れさせろ。
「……のやろうっ!」
突如、右の拳に手ごたえがあった。
当たった。ついにやった! と思ったのも束の間、一瞬の沈黙の後、周りで見ていた女子から「うぎゃあああッ!」という悲鳴が上がる。
「ミストぉぉぉ!! お前やっちまったよぉぉ、やっちまいやがったよぉぉぉ」
イヴが大騒ぎしている。
メガネがキョトンとして、「どうした?」と言った。
「いや、ごめ……顔……!」
「ん? 気にするな。当たることぐらいあるだろ」
「いやいやいや! 今日はまずい! 冷やしたほうがいい! ちょっと待ってて!」
やばい。
今日こそ一発入れてやろうと思っていたけれど、よりによってイケメン騎士の顔面をぶん殴ってしまった。
正直、ちょっと、いや物凄くスカッとしたけど……
でも、今日は日が悪い。
私は焦って医務室へ飛んでいった。
「イヴ、そこの洗面器取って。氷、氷!」
「ねーねー、あのイケメンは痛みを感じないイケメンなの?」
「さあ、拷問訓練で眉一つ動かさないって教官が言ってたけどねぇ」
「はあああぁぁ。さすがだよ。真っ白な高級馬に乗ってるだけあるよ」
「あれ? 氷のうどこだ?」
「こっちこっち」
大急ぎで氷を用意してメガネの顔を冷やした。
「ミスト……なぜこんなに大騒ぎをしている? ちょっと当たっただけだろう? それに俺は氷魔法が使えるから自分で冷やせるのだが???」
分かっていないのはメガネだけだ。
周りは皆分かっている。
「今日、治癒院休みでしょ。ストライキとか言って」
「あー、そういう意味か。まあいいさ」
「良くないって」
「それよりさっきの動きをもう一度確認したい」
「……は?」
「もう一回やろう」
「冷やさないと腫れるって」
「周りは見慣れているから平気だ。第一騎士団の山籠もりはこんなものではないからな。服なんか一日でボロボロになる」
「……ま、マジ?」
「ゲロ吐いて初日でいなくなる奴がいる。こんなのカワイイ怪我だ」
「うへぇ」
「ということで、もう一度手合わせを頼む」
「わかった……」
その日、私はメガネの顔にもう一発ぶち込んで、訓練所の女子からボロクソに叱られた。
しかし、内緒だけど、久々に晴れ晴れとした気分だった。
翌日、彼の顔には見事な青あざができていたが、噂に聞いていたとおり、リア様がパッと治してくれた。
リア様が商売をやることになるらしく、「支援を頼む」と言われた。
新しい現場は、私に今までとはまったく違う価値を見い出してくれる。
仕事は楽しかった。
しかし、私の知らないところで、メガネの貴公子にどす黒い死の影が忍び寄っていた。




