神薙論 §3
――先代は希少価値を高めることで、宝珠の金額をつり上げていたのでは?
謎多き下品な本『神薙論』の著者は、お家断絶を免れるため『生命の宝珠』が欲しかった。だから愛情はないけれど神薙の夫になった。目的を果たすため、妻の言うことを聞いている。
『生命の宝珠』は神薙の財産の一つで、神薙と天人族が(物理的に)愛し合うことで完成する。そこから新たな生命が誕生するので、天人族のタマゴのようなものだ。
神薙がすべての天人族と愛し合うことは不可能なので、国は夫になれなかった人にも跡継ぎが持てる仕組みとルールを作っていた。費用を用意すれば、夫側の遺伝情報を組み換えることができるのだ。
ただ、国がルールづくりをした時「もしも神薙に良からぬ野望があったら」という想定が抜けていたのかも知れない。
先代は意図的に宝珠を作らないことがあったと本には書いてある。これがまかり通ったのならば、少子化の謎にも説明がつくというものだ。
今のルールでは、数少ない宝珠を求めて寄ってくる人々を「宝珠ほしくば言うことを聞け」と支配できてしまうし、夫の財をしゃぶり尽くすこともできてしまう。
以前、一斉検挙された魔導師団の家から、国に報告されていない大量の『生命の宝珠』が押収されたと聞く。組織的に宝珠を品薄状態にして、より多くの財を吸い取っていたのだ。
先代の人間性に闇を感じた。
わたしの視界にまで黒いものが垂れ込めてくるようだ。冷気が広がり、上から黒い霧が降りてくる。同時に床がぐにゃりと上に向かって反り上がってきた。
――あれ……? 違う。これは錯覚じゃない。わたし、なんだかおかしい。
「んん?」
ぐるんと世界が回った。ひどい眩暈を感じて、後ろによろめく。
のぼせ気味のところ、水分補給もせずに突っ立っていたのがまずかったのだろうか。
オットット……と、体が後ろへ倒れていくので、バランスを取ろうと踏ん張った。ところが、なまじ部屋が広くて障害物がないため、そのままヨロヨロと後ろに進んでしまう。
――あっ、あぶっ、危ない……ッ!
「リア様!? 誰か! 誰かーっ!」
侍女長が叫んでいた。
腰がチェステーブルにぶつかったところで止まったけれども、まだ頭がフラフラとしていた。勢いよくぶつけたところが少し痛い。
でも、この状況で人は呼びたくない――そう思った時にはもう遅かった。
部屋の外に立っていたはずのオーディンス副団長が、悲鳴を聞きつけて飛び込んできていた。ズバッとわたしの後ろに回り込み、ガバッと抱き上げると、そっとソファーに座らせてくれた。
体感でわずか数秒の出来事だった。
「ちょっと待って、今すっぴんだし、ガウンは着ているけどナイトドレスだし~~っ」と思った瞬間には、もうストンと座っていた。しかも、そっと優しさを添える余裕すらある。
彼は理解不能な機敏さを持ち、仏像なのに「中の人」がイケメンで、感情がわからない自動応答みたいな話し方をするくせに素の声は爽やかで、実は優しいのだ。ややこしすぎる。普通にしてほしい。
――それにしても、湯あたりって、こんな感じだったっけ? まあ、いいか……
考えることが多すぎて、細かいことはどうでもよくなっている。
侍女が注いでくれたレモン水をグイっと一気に飲み干すと、まるで体に染み込んでいくようだった。二杯飲み干し、さらに三杯目の半分まで。
ぷはー。温泉は入浴前後の水分補給が大事だと痛感した。
「もう大丈夫です。すみません」
まだ心配そうにしている侍女に手をふりふりして元気をアピールするも、部屋の中の空気は依然として暗く、ドンヨリと重苦しい。
「……皆さん? どうしました?」
オーディンス副団長はわたしの前に跪いたまま青ざめていた。
その後ろでは侍女三人が身を寄せ合って一様にションボリ。ドアの前では隊長さんがボーゼンと立ち尽くしている。
「申し訳ありません。あの本のせいで。すべて私の責任です」
副団長がいつもの無表情を崩し、苦しげに言った。
――本のせい……? まさか、わたしがあの本のせいで倒れたと思っているのかしら。
「ちょっと長湯しすぎただけですから、気にしないでくださいね? 大丈夫ですので」
「最初に私がお止めしていれば、こんなことには」
「いや、それは違――」
「わかっていたのに、私としたことが……」
周りの過保護が「ただの湯あたり」にしてくれない。わたしは本一冊で倒れるほどナイーブな人間ではないのだけれども。
「神薙が退位すると、必ずあのような本が出るのです」と、彼は言った。
「あ……もしかして、これは暴露本!?」
だからジャンル不明なのに、天人族向けの専門書扱いだったのか。
「――てっきり先代と旦那さんたちは、愛情があって一緒にいたのかと思っていましたが、少し違うみたいですね」と、苦笑しながら言った。
副団長はしばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「先代の神薙にとって、夫は搾取の対象でしかありませんでした」
財産目当てだったのか尋ねると、彼はうなずいた。
国から先代に与えられた財産だけでも相当なものだったけれど、さらに百人の夫から搾取をしていたのだ。
「夫たちも跡継ぎを得ることや、神薙が持つ権力が目当てです。財産を差し出してでも欲しいものがあった……どちらも打算的です」と彼は言う。
「つまり、先代の神薙と夫たちは、お互いを利用し合っていた……と?」
「この著者は先代の在位中から出版準備をしていました」
彼は軽蔑したような眼差しで表紙を見ていた。
「罪にならないのですか?」と尋ねた。神薙の私生活を暴露するのは法に反するはずだ。
「神薙が自らそれを指摘して適切な手順を踏めば、この夫は裁きを受けることになります」
「でも、裁かれてはいない……?」
「先代は文化的な活動をするような人物ではありませんでした。おそらく本の存在すら知らなかったでしょう」
――なるほど。知らなければ文句も言わない、ということね。
彼は本の内容をざっくり説明してくれた。
暴露のメインは寝室で起きたことだ。「神薙の弱点とは何か!」などと風呂敷を広げているわりに、結論は書いていないと言う。
「価値があるように見せかけて、中身は希薄極まりない。あなたが読む価値はありません」と、彼は感情のない顔で言った。『神薙論』は著者が生活のために書いたゴシップ本なのだと。
しかし、天人族向けの本の中で昨年のベストセラーになったらしいので、読者の関心は高いのだろう。
「お披露目会に来る人たちは先入観を持っているのですね……わたしもこういう人だと」
ため息とともにうつむいた。先代がこれでは、わたしもどう思われているかわかったものではない。
陛下の態度が最初ひどかったことや、裸みたいなドレスをデザインして「これが神薙だ」と言われたこと、何かあるたび、まるで初めてかのようにバタバタしていることなど、一つひとつの点が線でつながっていく。
「一目見れば過去の神薙とは違うことがわかります。あなたと先代は何もかもが違います」と、彼は言った。「ドレスに限った話ではありません」
「でも……」
「リア様は愛する男と一緒になり、民のために微笑んでいることだけをお考えください。私がそれを全力でお護りします」
彼が真っ直ぐにこちらを見て言ってくれたので「ありがとうございます」と答えた。口角を上げてみたけれども、上手く笑えたかは自信がない。
その晩、この世界に来てから初めて寝付けなかった。
☟
『神薙論』は一応最後まで読んだ。
しかし、拾い読みで見つけた断片や、オーディンス副団長が聞いた概要以上のものは得られなかった。
二代以前の神薙の夫が書いたという本も何冊か手に取ったけれど、状況は同じ。過去の神薙は悪女だった――と。
良い神薙でありたい。殺されにくい人を目指すことは、すなわちそういうことだ。
善人でありたいし、宝珠を多く残せるなら、それに越したことはない。
けれど、暴露本に書かれていた理想像は、わたしには受け入れがたい。
――セクシーで、タフで、朝から晩までイチャイチャできて、しかも「誰でもウェルカム」?
無理無理、無理でしょう。
宝珠を量産することと「誰とでも」を結びつけるのは拡大解釈だ。
夫は一人。それだけは譲れないし、絶対に守りたい。
とはいえ、良い神薙であるために必要な条件を満たすにはどうしたらいいのか。
――セクシー系の夫を選べばいいのかしら? 歩くフェロモンのような人。いや、それはそれで、トラブルの種になる気がする。
「大丈夫ですか? リア様?」
オーディンス副団長の声で我に返った。
散歩をしながら「いかにタマゴを多く生み出すか」を考えるなんて、ニワトリとわたしぐらいのものだろう。
ふと見上げると、澄み切った空を背景に、石像が微笑んでいた。
秋の深まりと比例して、わたしの悩みも深くなっていく。
眉間にしわを寄せて本ばかり読んでいたせいだろうか、周りが見かねて外出の計画を立て始めていた――




