古き慣習
帰りの馬車で、ほろ酔いのヴィルさんは色気の大洪水を起こしていた。
彼は窓のカーテンをすべて締め切ると、小さな灯りを点けて「我慢の限界」と照れ臭そうな笑顔を覗かせた。
わたしの腰に手を回して引き寄せると、髪を撫で、一束すくって口づけをした。
「いつもいい香りがする」と、彼は言った。
わたしは謎の神薙臭というのを無意識のうちに巻き散らしているらしい。彼いわく「花の香り」がするとのこと。
なんだか「メスはオスを引き寄せるために特殊な匂いを放ちます」という、教育系のテレビ番組にありがちなフレーズが思い浮かぶ。
彼がわたしに巻きついてスンスンハァハァしていたのも、徹夜明けに寝室でプッツンとなったのも、その匂いのせいだと言う。
彼はわたしの頬を撫で、いとおしげに髪を指で梳きながら「最初の夫に俺を選んでくれてありがとう」と言った。
最初も何も、わたしは生涯唯一の夫だと思っているし、わたしのほうこそ選んでくれたことに感謝していた。
彼の首へ腕を回して抱き合うと、身体がぴったりと密着した。彼は恍惚の吐息を漏らして「好きだ、リア。ずっとこうしていたい」と、わたしの耳元で囁く。
それだけでもこちらは頭がおかしくなりそうなのに、彼はわたしの耳の下に鼻を付けて大きく息を吸い込むと、首筋と耳に幾つもの小さな口づけを降らせた。そのたびに甘い電流が何度も走る。口を押さえたけれど声が漏れた。
「うーん……」彼が唸った。
「どうしました?」
「俺、結婚まで我慢できるだろうか。こうしていると自信がなくなる」
彼がボソッと呟くように言ったので、思わず吹き出してしまった。
この国の古き慣習に従い、結婚するまでリアとは一線を越えない。清い身で婚姻の日を迎えるぞ、と……彼がそう言い出したのは、まだわたしの体調が安定していなかった頃だ。
この国で人気のある恋愛小説は「結婚前にいけません」と言いつつ、相手の男性に押し切られてイイ関係になってしまうのが代表的なテンプレート。わたしはそういう感じで良いと思っているのだけれども、彼のほうが意外にも古風だった。
「あのぅ、無理しなくても。わたし、神薙ですし」
「だからこそだ。一度許したら生活に支障が出るぞ」
「……どうして生活に支障が?」
「分かっていないな」
「何をですか?」
「毎晩俺に抱き潰されて、昼間、何もできなくなるぞ?」
「そこは節度を持てば良いのでは? 結婚まで我慢ができるくらいでしたら、そこでもできるでしょう?」
「君、冷静に痛いところを突くところが、アレンに似てきてしまっているぞ」
「うふふ。そこはもともと似ているのですよ」
何にせよ、今、これ以上忙しくなるのは困りものだ。
わたしには『王都におぱんつ革命を起こす』という重大な使命があるし、なによりもダンスの練習をしなければならない。ついでに言うと、おぱんつ以外のお仕事も探したいと思っている。
「急にここへ連れて来られてしまったリアにとって、俺とは一日の重要さが違う。この国で生きていくために、いくつもの努力をしているだろう? 結婚してからでもできることより、今しかできないことを優先させるのは当然だ。その邪魔をするようでは、神薙の夫にふさわしくない」
カッコいい彼の気遣いにお礼を言った。そして「お互いに無理のない範囲で適宜判断しましょうね」と提案した。
わたし達が二人とも幸福でいられる選択を常にしていきたい。もし、どちらかが我慢をしなくてはならないのなら、その我慢はできるだけ少ないほうが良いし、短い期間にしたい。そう伝えると、彼はわたしの頬に口づけをした。
「リアは俺に甘い」
「ヴィルさんこそ、わたしに激甘ですよ?」
わたしが彼の頬にキスのお返しをすると、彼はプツ……ッと、マリオネットの糸が切れたかのように倒れてきて、わたしに覆いかぶさった。
「え? ヴィルさん? ちょっ待っ……馬車! 馬車の中ですよっ」
カッコいい決意表明から五分も経っていないのに、この人はこれがあるからワケが分からない。彼はひとしきりワンワンすると、ドレスの胸のリボンをつまんでプルプルしながら「ああぁ、今までの訓練で一番キツイ」と呟いた。
「訓練ではないですよ?」
「これ、ほどきたい」
「おうちでなら良いですよ?」
「いや、ダメだ!」
「ど、どっちなのですか……もうっ」
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エムブラ宮殿に到着し、ゲッソリした様子のわたしを見たアレンさんは何かを悟ったかのように数回頷いた。彼は護衛として同行していたので、ヴィルさんが嬉々として馬車のカーテンを閉めているのを目にしていたし、中で何が起きていたか大体は想像がついているだろう。
わたしの乱れた髪を直しながら「車を別々にしたくなったら言ってくださいね。どうとでもできますからね?」と小声で言った。
わたしが頷くと「歩けます?」と言う。
もう一度コクンと頷いた。
彼は何も言わず頭をヨシヨシしてくれた。




