神薙論 §2
――侍女の様子がおかしい……。終業時間を迎えたというのに、一向にそばから離れて行かない。
エムブラ宮殿に引っ越して以来、わたしにはワケアリの習慣ができていた。「夕食後、なるべく早くお風呂に入る」ことだ。
侍女と副団長の勤務時間が長すぎるという厄介な課題を抱えており、苦肉の策だった。
彼らはわたしが目覚める前に始業し、わたしが寝ると終業になる。しかも、週休一日あるのかどうかも微妙な勤務日数。それを「当たり前です」なんて言ってしまうあたり、完全に仕事中毒だ。
わたしの思う「普通」の労働環境を実現させるには、わたしが朝寝坊をして始業時間を遅らせ、夜は光の速さで寝て終業時間を早めるしかない。だから、とっととお風呂に入って「寝ます!」と宣言をしてから、自室でウゴウゴとうごめくことにしていた。
――それを踏まえて侍女がおかしい。
お風呂から上がり、一連のお手入れを終えたので「今夜はもう寝ます」と宣言をしたばかりだった。つまり、彼女たちは終業時間を迎えている。
いつもなら「ではまた明朝」と、ニコニコしながら撤収していくのに、なぜか誰も動かない。そればかりか、いきなり恋愛小説を勧めてきた。
「すごく面白いのですよ。とってもキュンキュンしますよ」と熱く語る三人。手にしていたのは有名な作家の最新作。ぜひとも読んでもらいたいと言う。
あいづちを打ちつつ、首をかしげた。しかし、こちらも本の虫なものだから、ちゃっかり借りて「また順番待ちの本が増えてしまいました。ウフフ♪」などと棚を眺めている。
お風呂に浸かりながら考え事をしていたせいか、少々のぼせ気味だった。
この宮殿には温泉が引いてあり、いい湯加減なものだからついつい長湯をしてしまう。メイドさんにレモン水を用意してもらっていたので、早いところ水分補給をして、本の世界に没入しようと考えた。わたしが何かやり始めれば、彼女たちも自由にするだろう、と。
「さて……」
今夜読むつもりで持ってきた「神薙論」を手に取った。すると、侍女たちは両手で顔を覆い、泣きそうな顔をしている。
「どっ、どうしたのですか?」
驚いて理由を尋ねた。しかし、誰も答えない。
そこでふと気がついた。図書室で『神薙論』を手にして以来、周りの様子がおかしい。
オーディンス副団長も変な顔をして「本当に読むのか」と聞いてきた。それに、夕方には別の事件もあった。
お持ち帰り箱に入れたはずの『神薙論』が、部屋に運ばれてこなかったのだ。
取りに戻ってもらい、最終的には運ばれてきたけれども、そもそも箱に本を入れるのはわたしで、騎士団員は運んでくるだけ。一冊だけ届かないのはおかしい。途中で司書さんか騎士団員のどちらかが、意図的に抜いたとしか思えなかった。
――まさか、オーディンス副団長が司書さんと話していたのは、それを指示していたから? でも、なぜ? 危ない思想でも書いてあるの?
「あのぅ、これ……読んでほしくない本なのですか?」
彼女たちが答えあぐねていたので、なんとなくパラパラと本をめくってみた。
「んっ?」飛び込んできた単語に一瞬目を奪われた。手を止めて、その部分を目でなぞる。思わず「はあ?」と声が出た。
「こ、これは……!?」
寝室で行われる夫婦の営みが詳細かつ長々と書いてある。
――自主規制しないとダメなやつ! 青少年の教育に悪いやつ~っ!
一番年下の侍女マリンが目を潤ませた。
「だっ! 大丈夫ですよ? 少し驚いただけですからね?」と、慌てて落ち着かせる。
決して無理をしているわけではない。単に、内容が予想していた『神薙論』のだいぶ……いや、はるか斜め下だった。それだけのことだ。
幸いわたしには、この手の男性向けエロスに対して少しばかりの耐性がある。
なんと言っても、同じ屋根の下に兄がいたのだ。思春期は友達同士で貸し借りした「そういうDVD」が壁一枚隔てた部屋に積み上がっており、初めて家にカノジョが遊びに来るという大イベントの前日まで地獄の様相を呈していた。
それから、職場の会議室で見つけた置き忘れの本が男性向けの官能小説で(会社で読むなよ)しかも、持ち主が直属のイケメン上司だった(身近すぎ)という衝撃の体験もしたことがある。
そういった出来事に比べたら、現実の人間関係に何ひとつ影響を及ぼさないのだから、痛くもかゆくもない。
皆こういう内容だと知っていたのだろう。わたしのことを気遣い、読むのを阻止しようとしてくれていたのだから優しい人たちだ。
内容から察するに、神薙の夫が書いた本だろう。日付を見ると最近出版されたばかりだ。著者は先代の夫の可能性が高い。
内容は十八禁だけれども、官能小説とは趣が違う。そこに芸術性はなく、淡々とした説明だ。しかし、教えを説いているにしては愚痴っぽい表現が目立つし、エッセイだとしても上から目線で感じが悪い。天人族向けの本ならば、高級な専門書であるはずなのに奇妙だ。
断言できるのは映像化するならフルモザイク確定だということくらい。「百人の旦那さん全員との関係が冷めきっている」と仮説を立てていたけれども、それも音を立てて崩壊した。
――なさっています。ご夫婦の営み、なさっていました。
神薙様と三人の夫がくんずほぐれつしている様子が事細かに書いてあり、思わず天井に向かって「そう来ますか……」とつぶやいてしまった。
さすがに夫が百人もいると、同時接続プレイが必要になるのだろう。一日一人だと三か月に一度しか順番が回ってこない計算になる。ライバルが百人もいるので、月一を目指して夫たちはアピールしている。
「七十六ばんめの夫が、なかまになりたそうに、こちらをみている――」そんな感じだろう。
「それなら一緒に冒険しましょう」となるのは、ある意味自然な流れなのかも知れない。
それにしても先代さん……あなた、体力と精神力のオバケだ。
違和感の正体も徐々にわかってきた。
本のタイトルを「神薙論」としていながら、内容は一人の夫が思うままに書き綴った愚痴ばかり。論らしき部分がまるで見当たらない。『神薙の夫だったオジサンの日記』というタイトルのほうが、よほどしっくり来る。
それに、拾ってきた単語のほとんどが男女の交わりに関することなのに、夫である著者と神薙の間に愛情がこれっぽっちも感じられなかった。先代がビッチにしか思えないのも気のせいではないはずだ。淫らすぎて、もはや少子化の説明がつかない。
拾い読みを続けていくと、著者がいよいよ「気力体力の限界だ」と語り出した。まるでアスリートの引退会見である。
葛藤するオジサンのモノローグの中に、こんな一文があった。
「神薙を満足させられない夫は『生命の宝珠』を得られない。神薙が発する恐るべき魔力によって力尽きることになる」
この一文が、さりげなく少子化の原因を語っていた。