悪夢[ヴィル]
「しかし、あの体調だぞ」と、俺は首を振った。
「先輩を救える人は大勢いますが、今、最速で彼女の心を救える人は先輩しかいません。しかし、時間をかけても良いのなら誰でも救えます。俺がその役割を担ってもいい。クリス先輩もそう言うでしょう。彼女の夫になりたいと本気で手を挙げている男は山ほどいます。対応を間違えると、そういう人々を敵に回すことになりますよ? 中途半端なことを続けるつもりなら潔く身を引いたほうがいい」
「身を引くなどということは考えたこともない」
「それならばもっと彼女のことを考えてください。先輩の主語はいつも『俺』です。王族だからある程度は仕方がないと目を瞑りますが、こんな時くらい彼女を中心に物事を見たらどうですか。今、この大陸に神薙の幸福より優先される家庭の問題なんてあるわけがないでしょう?」
「アレン……」
「侍女らが例の毒沼のような薬を作ると騒いでいます。そんなものより、事態を正しく飲み込むほうが彼女にはよほど良い薬になります。彼女は愚鈍で堪え性のない過去の神薙とは違います」
俺はアレンに返す言葉もなく、彼女を王宮へ連れていくことを受け入れた。
しかし、翌朝もリアはひどく具合が悪そうだった。
俺が何を尋ねても彼女は「大丈夫」と答え、無理をして笑っていた。
昨日あの女が言ったことは何もかも嘘だと説明をしたかったが、彼女の耳には何も入らなかった。
侍女の言葉も、アレンの言葉も、貼り付けた笑顔と「何でもない」「平気」「大丈夫」の三つの言葉で跳ね返された。
「彼女は自分自身から民を守ることで手一杯です」とアレンは言った。
そもそも父がどういう理由で手続きをしなかったのかも謎のまま。
アレンの言うとおり、中途半端なことは言うべきではない。
王都に戻って「一覧に俺の名を加えろ」と頼んだところで、それが通らない可能性もあった。ここで彼女に中途半端な説明はできない。
とにかく急いで王都へ戻るべきだという結論に至った。
視察の予定はすべて取り消し、俺達は帰路についた。
しかし、旅をするにもリアの体調は悪すぎた。
馬車の中では体を起こしていることもままならない。かといって、ずっと横になっているのも辛いようだ。
馬車の振動が辛いか尋ねると、大丈夫だと答えたらしい。
その言葉を信じて、馬換所でどんどん馬を換えながら飛ばせるかぎり飛ばした。とにかく一刻も早く王都へ連れて帰ろうと、皆の意見は一致していた。
王都へ戻れば王宮医と薬師がいる。
侍女が薬草を手に入れてシンドリの薬を再現して作ってみていたが、出来上がったときの匂いが違うと言っていた。リアにはあの仙人のような爺様の薬が必要だった。
王宮では叔父と父が待っていた。
リアはアレンの支えがないと歩けない状態だったが、それでも笑顔を貼り付けていた。
俺は叔父と父に、俺の名が夫候補の一覧に入っていないことを告げた。
父は俺の婚姻に反対しているわけではなく、手続きがされていないことや王家の人間が一般貴族と同じ手続きをしなければならないという非合理的な決まりごとに憤っていた。
父に腹を立てたところで何にもならないのは分かっている。だからと言って、このまま不満を訴えずに済ませるには積み重なったわだかまりが多すぎた。俺は父と口論になった。
その間、叔父は席を外していたようだ。
父との話がある程度まとまった頃、叔父が戻ってきて言った。
「お前は夫候補にはなれない。今、リアと話した」
俺の脳裏に『拒絶』の文字が浮かび上がった。
リアが、俺を拒絶した。
こんなことで揉めている家に明るい未来を見出せなかったのだろうか。
それとも……。
彼女が最初にクリスと出会ってしまったことと、俺が変な意地を張ったために出会いが遅れたことで、俺の戦は劣勢から始まった。
無欲なリアは財産や権力に興味がない。
俺はクリスと同条件で並べられると都合が悪かった。人間性の優劣で彼が選ばれる気がしたのだ。
アレンは当初、彼女とうまく行っていなかった。しかし、距離の近さを最大限に活かして持ち直し、今では関係性だけなら群を抜いている。
ところが、クリスは「王家に先んじると都合が悪い」を理由に、そしてアレンは「高い理想と諸事情」を理由に、俺に最初の夫の座を譲る姿勢を見せていた。
かつて別の大陸で神薙派と王党派に分裂し、政治闘争に発展したことがあった。そのため、彼らは王家と神薙を一緒にしておきたいと考えている。それに、王族の後ろ盾があればリアを守りやすい。
相手が王太子だったとしても同じように譲ろうとしただろう。
有り難いと思う反面、少し困った状況でもあった。
他人から奪うような形でリアを妻にするわけにはいかない。
特に、リアを救って英雄視されているクリスと、このところ急激に存在感を増していたアレンがいきなり身を引いたとなれば、王家が黙らせたなどと変な憶測が飛び交って問題になる。
彼らに「お前も頑張れ」「お前のほうが夫に近い」などと声を掛けた。
心にもないことを言ったわけではない。彼らはかけがえのない友人で、幸福になる権利がある。なにも指をくわえて見ている必要はないと思った。
最終的に少しだけ配慮をしてもらえれば有り難いが、それ以外はいつもどおりで良かった。
リアと関わる中で、俺自身はなかなかうまくいかなかった。
いけるかも知れない、いやダメかも知れない……と、浮いたり沈んだりした。
感触は悪くないのに、なかなか夫に選ばれない。試行錯誤は続いた。
しかし、現実問題として、世は王族を中心に回っている。
名乗りを上げ、外堀が埋まっている以上……、そしてクリスやアレンが『配慮』の姿勢を見せてくれている以上、俺の敗北は王家の恥を意味する。
アレンの言うとおり、俺の主語はいつでも「俺」だ。
俺が最初の夫になるために。
俺が恥をかかないために。
俺が父や叔父の立場を損ねないように。
俺が彼女を好きだから。
俺が彼女に口づけをしたいから。
俺が彼女と結婚をしたいから。
俺が失敗したくないから。
「他人の気持ちを考えろ」と、学生時代から何度も言われてきた。
しかし、リアは規格外すぎて考えていることがまるで分からない。考えようとはしているが、俺に彼女の思考は想像がつかなかった。
だから彼女に対してだいぶ力をかけた。
屋敷の中、馬車の中、二人きりになれる場所はとことん利用した。
彼女を俺から逃げられないようにした。
俺に夢中になるようにすれば良い。
単純だが失敗の危険性が最も低いやり方だと思った。
一度ひどく暴走したのは余計だったが、その時々の成果はあったし、毎回「あともう一押し」と思えた。
問題は、手続きが滞りなく済んでいると思い込んでいたがために、そのほとんどが『言葉以外』の方法だったことだ。
『俺は夫になりたい。それを彼女も知っている』これがすべてにおいて大前提だった。
そこが崩れたのなら、俺の振る舞いに彼女が腹を立てて拒絶する可能性はおおいにある。
しかし、候補者にすら名を連ねられないということは、一人目はおろか二人目以降であっても、永遠に夫には選ばれないということだ。
考え得る失敗の中でも、それは最もやってはいけない失敗だ。
「王族に失敗は許されない」
今日も俺の頭の中には父の言葉が居座っている。
まるで悪夢のようだ。
父を見ると、ようやく狼狽えた表情を見せていた。
俺は父に向かい、「なんてことをしてくれた」と言ったが、ほとんど声は出ていなかった。
もはや父の責任であるかどうかも分からなかった。




