細い岩[ヴィル]
数日後──
叔父に頼まれた仕事で、面倒くさい人物に会い、面倒くさい話をして、過去最高に疲労した状態でようやく執務棟まで戻ってきた。
人に会うのは嫌いではないのだが、長時間、無表情を貼り付けていなければならない相手は、精神だけでなく単純に顔の筋肉も疲れるので苦手だ。
「人生というのは、途方もなく続く辛抱の連続の合間に、ほんの少しの幸福が挟まったもののことを言う」
これは昔、父が無表情で呟いた言葉だ。
俺が学食で出たサンドウィッチがレタスばかりで、ほんの少ししかハムが入っていなかったと文句を言っていたときにこれを言われた。
父は双子の弟に何もかも譲って養子に出た変わり者の元・王太子だ。
俺はその理由すらも聞かされていない。
謎に満ちた人生を歩む父の言うことは、何かとてつもなく深い意味があるのではないかと勘ぐってしまう。
執務棟の入り口で知った顔にばったりと出くわした。
今は会いたくなかった。
俺は心底思った。「今はお前じゃない」と。
彼は俺の顔を見るなり、くわっと目を見開いた。
机の上の紙に署名をしろ。
急げ、今日中だ。
昨日も同じことを言っただろう。
取りにきたのになぜ部屋にいないのだ。
なぜ出かける前に終わらせなかったのだ。
いつになったら催促をされずにできるようになるのだ。
また後で来てやるからやっておけ。
絶対だぞ。
分かったのか。
返事は?
口から無数の矢を放つアレンだった……。
恐ろしい奴だ。鬼畜だ。『細い岩』だ。
いや、流石と言うべきか。
ヘトヘトだった俺は「分かっている。大丈夫だ。必ずやる。すまん! 本当にすまん! いつもありがとう。感謝している。本当だ。本心だ」と、逃げるように部屋へ上がってきた。
ソファーに外套をぶん投げた。
くそ……、上着も脱いで投げてやる。
おお、思ったより寒いな。やはり着ておくか。
俺は何をやっているのだろう。
この歳でここまで自分に向いていない仕事をしている奴なんているのだろうか。
同い年のクリス、年下のアレン、年上のフィデル、皆あんなに生き生きと仕事をしているというのに、俺は今日も執務室という名の檻の中に戻ってきてブツクサ文句を言っている。
ヨタヨタと机に近づくと、何かが鼻をくすぐった。炒ったナッツのような、香ばしい匂いだ。
「……!」
机に「ヴィルヘルムさんへ」と書いてある封筒が置いてあった。
神薙からの手紙だ。
アレンが来ていたのは、これを届けるためだったのだと気づいた。
「書けているじゃないか、俺のペン! 使えたのか、フギンの二番!」
すぐに封を開けようとしたが、興を削がれるのが嫌だったため、先に大急ぎで仕事を済ませることにした。
「よしっ!」
過去最高に疲れたと文句を言っていたくせに、俺は過去最速で仕事を終わらせた。
机を片付けて浄化魔法をかけると、深呼吸をしてから神薙の手紙を取り出す。
まるで神聖な儀式のようだ。
封筒を鼻に当てて息を吸い込むと、肺から神薙の魔力が全身を巡るようだった。
前回の比ではない。
俺の魔力ペンは最高の仕事をした。
あのペンを初めて手にしたとき、素晴らしい書き味に感動こそしたが、一国を侵略から守った褒賞がペン一本というのはいかがなものかと不満のほうが勝ってしまった。
俺には現金での褒賞がなく、戦地となったエルディル領を往復する際、個人的に支払った『ちょっと良い部屋に変更した宿代』とか『ちょっと贅沢をした晩餐』とかの代金がことごとく回収できなかった。
当時の給料は安く、褒賞をあてに散財したせいで、あっという間に金が底を尽きた。
俺も馬鹿だったのだが、ペンを手放すのも癪だったのでクリスと狩りに行き、獲物を売って小遣いに充てた。
一体どこの世界に小遣いに困って狩りに行く王族がいるのだ、と当時は思ったが、これも叔父と父による戦略だ。
まともな金銭感覚と、生きていく術を身に着けさせたかったのだろう。
あの時、俺は正しい選択をした。
一時の金欲しさにペンを売らなかった。
戦そのものは剣すら抜かずに済んでしまうほど楽だったが、ヒト族の軍を率いて辺境まで移動するのは初めてで大変だった。
ペン一本でも記念に取っておきたかった。
クリスとの狩りは楽しかったし、父と叔父からはペンを売らなかったことを褒められた。
しかし、あれは今日のための選択でもあったのだろう。
俺のペンは、神薙の手から漏れ出している魔力を、ことごとくインクに取り込みながら紙に落とし込んでいた。
天人族は幼少期から魔力操作を習う。
子どもの頃ならいざ知らず、わざわざ魔力を込めながら字を書いたりはしない。
通常、魔力漏れというのは、何らかの要因で魔力操作が上手く行かず、体外へ漏れ出してしまうことを言う。
剣の国から来た神薙は魔力操作そのものを知らないため、幼子のように魔力が体内で好き勝手に散らばり、漏れ出しているのだろう。
『ヴィルヘルムさんへ』という文字に指で触れると魔力が付いていた。愛らしい。
花のような香りは前回と同程度の強さだった。
代わりにナッツの香りが強くなっていた。
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