騙されたアレン §2[ヴィル]
神薙を厨房から遠ざけていたのには、ちょっとした理由があった。
料理長ドニー・デレルは、少し変わった天人族で、どういうわけか彼の家は代々「魔力がない」のだ。
魔力無しは極めて稀な存在だったが、代わりに彼らは『神の舌』と呼ばれる繊細な味覚を持っている。彼の父は有名な料理評論家で、祖父は王宮料理人だった。
過去、神薙のそばで働いたことのある魔力無しの天人族はいない。神薙の謎の力によって、健康上の影響を受けるのではないかと心配だった。
王宮に見解を求めたところ、「前例がないためわからない」という返事が返ってきた。
わからない以上は近づかないほうがいいだろう。俺はアレンを呼び、適当な理由をつけて神薙を厨房から遠ざけるよう指示をした。
しかし、そこで俺は一つ失敗をした。
アレンは理由を聞いてきたのに、面倒くさがって根拠を話さなかったのだ。
彼は理由がわからないまま、とりあえず適当なウソをついた。過去の神薙であれば、なんの問題はなかっただろうが、当代の神薙は身分制度のない剣の国から来たため、彼のウソに首をかしげた。
アレンにはもう一つ懸念事項があった。
神薙と使用人の距離が近すぎることだ。
彼女は明るく朗らかな性格をしており、使用人たちから好かれている。毎日侍女と一緒に茶を飲み、そこに使用人や騎士なども気さくに誘う。天気の良い日は、庭がちょっとした茶会状態になることもあるそうだ。
仲良くなりすぎると主従の均衡が崩れる。神薙に不敬を働く者や、神薙の権力を利用する者が宮殿の中にいると厄介だ。彼は適切な距離に戻そうとした。
ところが、神薙はすばしっこい小リスだ。
アレンと二人で宮殿内を歩いている際、急にひらりと身を翻し、スタスタと使用人に近づいて行く。すでに巧みな陽動の片鱗を見せていたのだ。
神薙は彼の一瞬の隙を突いて次々と使用人に接触し、密接な関係を築いて仲間に引き込んでいく。
話しながらメイドたちの掃除を手伝い始めてしまい、彼が全力で止めたという話は、腹を抱えて笑った。
俺が「やらせてやれば良かったじゃないか」と言うと、彼は顔を真っ赤にして「もうやっていたのですよ! 恐ろしく慣れた手つきで雑巾を絞っていたのです! あの白い手に雑巾……もう耐えられない!」と悲鳴を上げていた。
どうも彼は、当代の神薙に対してだけ軽く潔癖の気があるようだ。彼女が雑巾を手にした姿は衝撃的だったらしい。
神薙はセッセと宮殿の中を散歩していた。
厩舎には、馬に差し入れを持って会いに行く。
気性は最悪だが脚だけは速いスロウという馬が、神薙にだけは大人しく懐くそうだ。居候の猫たちとも仲が良いという。
人も動物も神薙の味方につく。アレンは徐々に追い詰められていった。
「穢れるから厨房と使用人には近づかないように」と、彼は言った。しかし、神薙は自分の宮殿の使用人を侮辱するなと言って、彼と舌戦を繰り広げた。
神薙が平民の味方をして、天人族の侯爵嫡男と敵対したのだ。まったく面白すぎる。
予想外の展開にアレンは動揺していた。騎士になって以来、味方をしてもらえないことなんて、おそらく初めてだろう。
彼は彼で神薙がどのような人物かがわからない中、手探りで仕事をする毎日だった。
かつての神薙と違うことは、見ればわかる。ではどう違うのか? 細かいことは一つひとつ確認するしかなかった。
「やり方を間違えた」と気づいた時には、もう引っ込みがつかない状況だった。
苦しい言い訳で遠ざけようとすればするほど、神薙は厨房へ近づきたがった。
当初「料理がしたい」と言っていた神薙は、一般常識として料理が駄目なことは理解してくれたが、「せめて料理人に挨拶をさせろ」と要求してきた。
それが一番良くない。こちらは料理人に会わせたくないのだ。その頃には、アレンも詳しい事情を知っていた。
俺が最初にきちんと説明をしておけば、また違った状況になっていたかも知れない。少なくとも彼は「穢れているから近づくな」とは言わなかったはずだ。
もはやアレンの味方は、事情を知っている執事長のみだった。
最初から俺たちの敗北は決定していた。
あの神薙には、すべて本当のことを説明して「料理長への配慮をお願いする」という対応が正しかったのだろう。
ついつい動物的だった先代と同じように扱ってしまう。神薙と聞くと習慣的にそうなってしまうのだ。我々は意識を改めなければならない。
神薙はアレンに奇襲をかけ、正面突破して厨房へたどり着いたが、その後、料理長に何かあったという報告は上がっていなかった。料理長さえ何ともないのなら神薙は自由だ。料理がしたいのなら常識の範囲内でコッソリやればいい。
「神薙は料理長と話をするのか?」と尋ねた。
「はい。かなり頻繁に」と彼は答えた。
「それならもう自由にさせてやれ」
「了解しました」
「ヒト族の男が何ともないのと同じなのだろうな……」
「おそらくは。それに、リア様は先代と違って、常に妙な力をまき散らしているわけではありません」
「まあ、いつ出るかわからないから、用心に越したことはない」と伝えると、彼はうなずいた。
「あのわけのわからない力ってのは、神薙が発情すると出るのだろう?」と、クリスがよそ見をしながら言った。
「それは間違いないですが、単にそれ以外が詳しくわかっていないだけです」とアレン。
「相変わらず一人で寝ているのだろう? つくづく優等生だよな」と、俺は言った。
「たまに抱いているものと言えばクッションですね。抱っこしてソファーにちょこんと座っていますよ」
「はははっ」
アレンの話に笑っていると、クリスがこちらを見ながら神薙のパイをサクサクとかじっていた。
「おい……なぜお前が食べている……」自分でも驚くほど低い声が出た。
「ヴィル、すごいぞ。めっちゃくちゃ美味だ」
「俺より先に食べるな!」
「もっと良いお茶を持って来るべきだった」
「そう思うなら普通の茶を買ってこい!」
「食べ終わってからな」
「お前はそれ以上食べるな!」
「けちけちするな」
「俺への贈り物だぞ」
「リア様が宮廷訛りだと教えたのは誰だったかな?」
「くっそ……半分までだ!」
「ヴィル、茶を頼むわ。水分が欲しい」
「自分で行け。俺のいない隙にすべて食べるのが見え見えだ!」
我々の醜い争いを見かねたアレンが、喫茶室へ茶を買いに行ってくれた。
トレイにカップを三つ乗せて戻ってきた彼は「いい歳の男が菓子を取り合って食べるのはいかがなものかと思いますよ」とあきれている。
「書記も食べたのか?」と、クリスが尋ねた。
「はい。美味だったので、おかわりも頂きました」と、アレンはにこやかに答えた。
「いい歳の男が菓子をおかわりとはいかがなものか」クリスが言い返している。
「人のものを奪って食べている人に言われたくないですよ」
「いいぞ、アレン、もっとガツンと言ってやれ」
二十分もすると、俺とクリスは満足の吐息をついていた。
異世界の菓子は甘さがちょうどいい。かすかに塩が利いていて美味だし、紅茶との相性も良かった。
「最初の茶は芝生のような味がしたよな。お前がなんともなさそうだから、あえて言わなかったのだが」と、クリスが言った。
なんてひどい奴だろう。ミントの茶だと言って持ってきたのは彼だというのに。
「あれ、好きじゃない……」俺は悲しくなってきた。
「泣くなよ、悪かったよ」
「泣いてなどいない」
「お前が口に入れるものにあまり興味を持たないからだぞ? 刺激してやろうと思って、あれこれ持って来ているだけだからな?」
「んむ……わかっている。ありがとう」と、俺は言った。
黙って聞いていたアレンが、僅かに口角を上げた。
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