妹
双子の妹の百合には生まれたときから不思議な力があった。俺にはない、百合だけが持っている力だ。
妹は、俺と入れ替わることが出来るのだ。妹が男装をして俺が女装するとかそういう話ではない。中身が、精神がまるっきり入れ替わる。しかもこれは、俺に拒否権がない。全てが妹の意のまま。いつでも何処でも妹が望んだときに俺の意思などお構いなしに勝手に精神が入れ替わるのだ。
幼い頃は二人で入れ替わって遊ぶことも楽しかった。入れ替わったことに気が付かない両親を揶揄うのは気分が良かった。だが、それは幼い頃だけの話だ。
成長すればこの能力は、俺にとって煩わしいものでしかない。何故なら俺の人権などないに等しいのだから。
百合は勉強が出来なかった。そもそも授業中も上の空でろくに話を聞いていない。となれば、テストの点数は当然悪い。そして親からは叱られる。
ずる賢い妹はテスト中、俺と入れ替わるようになった。別に妹の為に俺がテストを受ける義理はない。俺が抵抗しようと思えば白紙でテストを提出することは出来る。
だが、俺はそうはしない。妹の代わりにテストを受け、そこそこ良い点数をとる。妹が評価されようと、それが俺の点数であることに変わりはないからだ。
だが、俺の体でテストを受けた妹の成績は散々なもので、俺は毎回テストの後は補講を受けるはめになった。
俺達は同じ高校に進学した。当然頭の悪い妹のレベルに合わせた。妹は俺といつ入れ替わるかわからない。妹から目を離す訳にはいかなかった。
俺の心配とは裏腹に、高校に入ってから入れ替わる回数は減っていった。妹も大人になったのだと安心した。
だが、暫くすると妹に好きな男が出来た。どうやら同じクラスの奴らしい。妹はその男と仲良くなりたかったが、話しかけることが出来ずに悩んでいた。
「俺が仲良くなってきてやろうか?」
そう提案したのは、悩んでいる妹が可哀想に思えたから。それ以外に理由なんてない。
妹は少し悩んでから小さく頷いた。その日から、俺はまた頻繁に妹と入れ替わるようになった。俺には友達が居ない。教室でも孤立している自覚がある。だから妹が俺の中に入っていても何ら問題はない。
妹には友達がいるが、俺は長年妹のことを見てきたのだ。妹になり変わることなど容易いものだ。
「四十万くん、いつも此処に居るの?」
「えっと」
「禅院 百合。クラスメイトの名前くらい覚えてよ」
「ごめん」
妹の思い人、四十万 大河は俺と同じようにクラスで浮いていて孤立しているような奴だった。こんな男の何処に惚れる要素があったのだろう。妹の趣味がわからない。
四十万は休み時間の度に教室から居なくなっていた。後をつけてみると、彼は毎時間屋上の扉の前に隠れるようにして座り込んでいたのだ。屋上の扉は常に施錠されていて生徒は入ることが出来ない。屋上に出られないのであれば、わざわざ階段を登って扉の前に来るような変わり者はそうそう居ない。そこは四十万の秘密の場所になっていたのだろう。
「隣、座っていい?」
「え、うん」
「ありがとう。ごめんね、秘密の場所に入って来ちゃって」
「別にここは僕の場所じゃないよ」
体育座りで縮こまる四十万は視線を忙しなく動かしているが、決して此方を見ない。
「禅院……さんは、こんな所に居ていいの?」
「どうして?」
「だって、禅院さんは……僕と違って友達、多いでしょ……」
「うん。でも、今は四十万くんとお話ししたい気分」
四十万が驚いたように目を見開いて俺の顔を見た。にっこりと笑顔を向けると、四十万は顔を赤らめて俯いた。
自慢じゃないが、俺の妹は普通の女よりだいぶ可愛い顔をしている。スタイルもいい。頭は悪いが、黒髪セミロングのボブカットで見た目だけは清楚系なのだ。
それから、俺達は度々屋上の扉の前で二人、何を話すわけでもなく、座って同じ時間を過ごした。ときどき俺の顔を盗み見る四十万にその度に微笑みかけてやると、彼はいつも赤い顔をして顔を伏せた。
四十万は見た目どおりの奥手な男だった。ひと月一緒にいても関係は変わらなかった。仕方がないから俺の方から彼の隣に座って手を絡めた。びくりと震え、一瞬固まったが、四十万もゆっくりと俺の手に指を絡めた。
ここまでやれば十分だろう。後は妹に任せよう。俺は百合に今までの成果を伝えた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
百合の笑顔を見て、俺は酷く安心した。やはり、妹に悩んでいる顔は似合わない。彼女は笑顔であるべきだ。
「もう、入れ替わるのはなしだからな」
「うん」
これで、俺にも平穏が訪れる。四十万も妹の様な可愛い彼女が出来て良かったではないか。頭は悪いし我儘な妹だが、根はいい子なのだ。
もう入れ替わることはない。そう思っていたが数日後、俺はまた入れ替わっていた。
気がつくと目の前に四十万が居た。彼に押し倒されている。
おいおい、いくら何でも手が速すぎないか?
「……ご、ごめん。大丈夫?」
四十万は慌てた様に俺の上から退いて両手を上げた。
「うん。びっくりした」
どうやら事故だった様だ。妹は驚いて、つい俺と入れ替わってしまったのだろう。今回ばかりは見逃してやろう。
「でも、嫌じゃなかったよ」
折角入れ替わったのだ。妹と四十万の仲が進展する様に一役買ってやることにしよう。
「禅院さんって、僕のことどう思う……?」
四十万はぼそぼそと小声で呟いた。
はて、妹は四十万をどう思っているのだろう。惚れているのだから好きということだろう。この様子では妹はまだ四十万に思いを伝えていない。俺が今、妹の気持ちを伝えてしまうのは何か違うような気がする。
「どう思っていると思う?」
「それは、意地悪だな」
「ふふ、私、意地悪なの」
四十万の顔が近づいて来る。これは避けないと不味い。
だが、避けることは妹の気持ちを蔑ろにすることにならないだろうか。妹は四十万のことが好きなのだ。俺は今妹の体に入っている。俺の意思で彼を拒むことは妹に対する裏切りだ。
「百合、四十万とキスをした」
「うん、わかった」
「嬉しくないのか? 四十万と仲良くなれただろ?」
妹は喜ぶかと思った。俺が妹の体でテストで良い点を取ったときは喜んでいたのに。今は浮かない顔をしている。どうして笑わないんだ。
「きっと、四十万と付き合える」
「そうだね、ありがとう」
その後すぐに百合と四十万は付き合いだした。でも、百合の顔は相変わらず浮かないままだった。百合の望む通りになった。それなのに何故なのだろう。
それから少し経った頃、放課後自宅で勉強をしているときにまた入れ替わった。気がつくとまた四十万に押し倒されていた。デジャヴ。
この前と違っているところはそこが屋上の扉の前ではなく、誰かの部屋のベッドの上ということだ。十中八九四十万の部屋だろう。妹と四十万はいわゆる初体験というやつを行おうとしているのだ。
「怖い?」
四十万が言う。その通りなのだろう。妹は怖気付いて俺と入れ替わったのだ。ここで怖いと言えば四十万と百合が上手くいかなくなるかもしれない。仕方がない。ここは兄として人肌脱ぐとしよう。
「怖くないよ」
俺は妹の為に本来ならば味わうことのない痛みを知った。だがこんな辛いこと、妹にさせなくて良かった。妹が辛い思いをするのは耐えられない。俺は意外と妹思いの兄なのかもしれない。
「百合、あれは痛いし辛い。百合はやらなくていい。俺が代わりにやるから」
「うん、ありがとう」
やはり百合は浮かない顔をしている。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「……なんでもない」
「百合、何かあるなら言ってくれ。俺は百合の為なら何でもやる」
百合が学校に行かなくなった。心配した四十万が毎日のように家にやって来るようになった。
俺自身も四十万と少し話をするようになった。四十万は俺と少し話をしてから百合の部屋に入って行く。そうすると百合は決まって俺と入れ替わった。俺は百合の体で四十万と話す。
四十万は百合に学校に来いとは言わない。ただ、側にいて寄り添ってくれる。いい奴だ。こいつなら百合を任せられる。きっと四十万となら上手く行くだろう。
大丈夫だ。百合が嫌なことは全部俺が代わりにやってやる。百合はずっと笑っていたらいいんだ。
「百合、出席日数が足りなくなる。俺が百合の代わりに学校に行く」
百合が学校が嫌だと言うのなら俺が代わりに行くだけだ。
「そんなことしたらお兄ちゃんが留年するよ?」
「別に俺はいいよ。でも、百合は四十万と一緒に進級したいだろ?」
「……そうだね」
俺は百合の代わりに百合の体で学校に通い始めた。四十万に怪しまれない様に恋人のふりもした。誰にも百合の中身が兄と入れ替わっているのだとバレていない。
これで大丈夫だ。何もかも上手くいっている。
その筈だったのに、何故、百合は死のうとしているのだろう。
「百合、やめろ」
普段は施錠されている学校の屋上に百合はいた。フェンスも何もない屋上。だからこそ普段は施錠されて誰も入れないようになっている。百合は両手を広げ、今にも宙に身を投げそうだった。
「私、わかったんだ」
「何がわかったんだ?」
声が震えた。
「私の力が何であるのか」
百合は振り返り、微笑んだ。
「お兄ちゃん、我儘ばっかり言ってごめんなさい。ばいばい」
「百合!」
駆け寄って百合の手を掴んだ。百合の体を屋上に投げた反動で俺の体はバランスを崩して屋上から真っ逆さまに落下していった。
でも、良かった。百合は助かる。百合が生きているならそれでいい。俺の命など安いものだ。
ぐちゃりと体が潰れる音がした。
俺は屋上に倒れていた。
「あれ?」
何が起こった? 俺は屋上から落ちた筈だ。なのに何で生きているんだ。下から叫び声と人の騒めきが聞こえてきた。屋上から下を覗き込む。俺の体がコンクリートの地面に叩きつけられて潰れたトマトの様になっていた。
「百合?」
俺は階段を一目散に駆け降りた。上履きのまま外に飛び出し、人混みをかき分けて俺の体に駆け寄った。薄らと目が開いた。
「百合!」
「お兄……ちゃん」
「百合! 早く体に戻れ!」
「痛い……」
それっきり百合は、俺の体は動かなくなった。
俺の体で、百合が死んだ。俺は自分の体に戻れなくなった。入れ替わるスイッチは百合が持っていた。俺にはどうすることも出来ない。
生きる意味がなくなった。
考えてみれば俺は百合の為に生きていたのだ。百合が笑っていられるように、百合の苦しみを肩代わりするのが俺の使命だったのだ。
「泣かないで」
気がつくと四十万がそばにい、肩を抱かれていた。
「四十万……」
四十万は百合の恋人だ。兄を亡くした百合が泣いていたら心配してくれている。最初は何で百合がこいつに惚れたのかわからなかったが今ならわかる。こいつはいい奴だ。
「俺、百合に見える?」
「君は君だよ」
彼は不可解な顔をすることなく断言し、体を抱き寄せ、百合の頭を肩に抱き込んだ。
「君は生きている」
「……そっか。私、生きてる……もんね」
優しい四十万のことだ。妹の百合が双子の兄である俺の後を追ってしまうのではないかと思っているに違いない。実際俺は今すぐにでも妹のところに行きたい。
そう思っていたが、やめた。俺が百合を生き返らせよう。俺の可愛くて我儘で馬鹿な大切な大切なたった一人の妹。俺が百合を生かすんだ。
その日から俺は、妹になった。