第六話
口から僅かに漏れでる息が、白く色づく。
身体の芯から凍てつかせるような寒さだ。息を吸うだけで胸が痛い。一度油断すれば、身体が震えそうになる。
しかしそれは許されない。息を潜め、静かに機会を窺う。
遠目に見えるのは一匹の獣だった。立っているだけで地面につきそうな程長い腕。2つあった筈であろう長い耳はその1つが失われていた。赤黒い体毛に、僅かな白を乗せたその獣は目を爛々とさせながら辺りを見渡す。
と、獣が動き出す。余程空腹なのか、ぼたぼたと垂れる涎が雪積もる地面を濡らす。
足跡を気にする素振りも見せず、獣は歩き出した。当然だ。彼はこの森での絶対的強者。阻むものを知らず、敵うものは無い。
それを静かに追う。既に木々は葉を落としている。多少距離を空けようと、見失う筈が無い。
指先を口に含む。身体の震えは良いが、指先の震えはいただけない。手袋を着ける事も考えたが、冷える事を妨げる力はあまり無いだろう。
指に血が巡るのを感じる。外に出したが最後、湿った指は瞬く間に凍てつくだろう。
解ってる。これは諸刃の剣だ。だが───
獣が止まり、鼻を鳴らす。口から指を離し、背負っている筒の中にある矢へと手を伸ばす。
同時に獣が駆け出した。その姿は正しく一心不乱。故に気付かない。気付かれない。
矢をつがえる。狙いを定めるのは一瞬にも満たぬ間。音が鳴り、放たれた矢は風を唸らせながら鮮やかな曲線を描き出す。
獣は最期の瞬間まで知ることは無かっただろう。よもや己を狙う者がいるとは。
魔力が籠められた矢は獣の鋼鉄のごとき皮膚を容易く破り、その首を貫く。一瞬のうちにその命を刈られた獣は、走る勢いのままつんのめり、倒れ伏した。
「フゥ‥‥‥」
僅かに溢れる安堵のため息。しかし、すぐさま近寄る真似はしない。
暫くが経ち、周りに他の獣が居ないと確認すると、ゆっくりとした足取りで近付いていった。
近くで見ると、一層その大きさが際立つ。
自身の二倍ほどある背丈に、腰の太さ程の腕。僅かに赤黒く色づいたその爪は、狩人である証をまざまざと見せつけてくる。
「さて」
死体に手をつけようとした瞬間、背後から近づく気配を察知し、腰に掛けてある剣の柄へと手を伸ばす。
が、それが知った気配であると分かり、肩から力を抜いた。
「おぉ!これはまた随分と大物ですねぇ~」
呑気に駆け寄ってくるミルシィの姿を見て、彼女は眉間に皺を寄せる。
「おい‥‥‥」
「え?あ!これですか!?えへへ~。いや、見つかっちゃいましたか~」
気持ち悪い笑みを浮かべるミルシィの手には大きな籠があり、その中には山ほどの山菜が積まれている。
それは良い。しかし、もう片方の手にあるのが問題だった。
文字通りの巨大キノコ。かなりデカイ。子供の頭一つぶんはある。
確かに食いでがありそうな見た目ではある。しかし、だ。
「どっからどう見ても毒キノコだろうが!さっさと捨ててこい!」
「はぃい!」
◇◆◇
「いや、しかし。本当に大物ですね」
「毒物を食おうとするお前ほどじゃないがな」
「ウッ‥‥‥」
簡単な血抜きを終え、アイーシャは軽く汗を拭う。
あの世界でも慣れ親しんだ技術だ。魔力の補助もあり、それほど苦労なく作業を終えると、うんと伸びをした。
因みに籠に入っていた殆どが毒草、或いは毒キノコだった。
そういえば昔からコイツはこうだったと、遅まきながら思い出した。
とにかくミルシィはポンコツだ。山菜を拾えば殆どが毒持ち。釣りの時はぼうずが当たり前。走れば何も無いところでもこける。
そのわりには手先が器用で、編み物等はこの村には比肩する者が居ないほど上手いのだが、如何せん本人にやる気がない。
「お前、本当に女神だったのか?」
「酷い!泣きますよ!」
ぎゃいぎゃい騒ぐミルシィを傍目に、アイーシャは獣の死体を担いだ。
魔力による身体強化のお蔭でかなり軽く感じる。しっかりとした足取りで、彼女はそのまま歩を進めた。
「にしても、あれですね。思ったよりも獣って居るんですね」
隣に並んだミルシィがのほほんとした口調で口を開く。
「精々が1日に2頭。まぁ、こんなもんだろ」
「そんなもんですか。ところで、これだったらまた暫くお肉には困らない感じですか?」
「さてな。兄貴達の成果が解らないから何とも言えないが、少なくとも毛皮には困らなさそうだ」
村には幾人かの狩人がおり、彼等の成果によって冬越しの仕方が変わる。
端的に言えば、十分に肉が食える冬になるか否かだ。
「それなりの数が狩れているし、山菜や木の実の量も問題はない。ま、今年産まれた奴等も‥‥‥なんだその目は」
「いんえー。なんにもー」
「チッ」
ミルシィの顔を見るのが何となく気恥ずかしくなり、顔を背ける。
柄じゃない事ぐらいわかっている。口が滑っただけだ。
そんな言い訳が幾つも脳裏を過るが馬鹿馬鹿しいと鼻を鳴らす。
もうかつての自分じゃない。そんな当たり前の事を今更ながら思い出す。
(なら、これも悪くはない、か‥‥‥)
雪道に刻まれた足跡が瞬く間に消えていく。
間もなく吹雪がくる。二人は徐々に歩調を速めていくのであった。
◇◆◇
「お。見えてきましたよ!」
遠目でちらちらと見えてくる灯りの数々。
日は大分傾いており、家々の煙突は温かげな白い息を吐いていた。
ザクザクと音を立てながら歩くこと暫く、広場の方で何人かの村人達が集まっているのが見えてきた。
「おーい!」
その内の一人がこちらを見つけ、大きく手を振る。ミルシィもまた、嬉しそうに手を振り返す。
アイーシャはほぅと息を吐いた。
「あっちも無事に終わったみたいだな」
「みたいですね!なんたって今日は───」
そうだ。今日は───ケル兄の初狩猟の日だ。
アイーシャには3人の兄がいる。
上からブラノ、ウォルター、ケイルと名付けられており、ケイルはアイーシャの3つ上の兄だ。
そんなケイルは今日、ついに山での狩猟が許される歳となったため親父と共に朝早くから山へ繰り出していたのであった。
どうやら狩りは無事に終わったみたいだ。集まっていた人々は口々にケイルを称賛しており、彼もまた得意気に鼻を啜っていた。
と、ようやく気付いたのか、ケイルの視線が此方を向く。
「お疲れ!ミルシィ!アイーシャ‥‥‥って、デケェ!なんだそれ!?」
「今回の成果ってとこだ」
担いでいた獣の死体を下ろし、うんと伸びをする。
流石にあの重量を担いだまま山を下るのは彼女でも堪えたようだ。顔には僅かに疲労の色が見えた。
「うぉ!すげぇな!」
「え!?これをアイーシャが!?」
「うわー!おっきー!」
驚きの声をあげる人達を他所に、アイーシャはケイルの方へと近づく。
悔しそうに顔を歪めるケイルに対し、アイーシャは口の端を吊り上げ、
「まだまだってとこだな」
「クッ‥‥‥ヌヌヌ!」
因みにだがアイーシャは自身の実力を隠したりはしていない。
彼女曰く、そんな事をする意味が無いとこのと。
気味悪がられて捨てられたらそれまで。わざわざ力を抑えて獲れるものを逃してしまう方が余程愚かだ、と。
(しかし)
チラリと視線を落とすと、そこには立派な体躯を誇るディル───大きな角を持つ四足獣だ───が横たえられていた。
よくよく見ると矢の跡が幾つも残っており、お世辞にも上手いとは言えない。
だが初の狩りで、しかも恐らく殆ど他人の力を借りずにこれだけの獲物を狩れる時点で十分に凄いと言えよう。
(ま、言わんがな)
「お、ミルシィとアイーシャか!2人ともお疲れ!」
「おーぅ!お前ら!ご苦労だったな!」
奥から現れたのはウォルターと、アイーシャの父でもあるバウダだ。
2人とも小屋の方に獲物を運び終えたばかりなのか、上着を脱いでおり、額に僅かな汗を浮かび上がらせていた。
「今日の収穫は?」
「ディルが3頭に白兎が5羽。プーシャンが3頭でかなりの収穫だ」
「プーシャンか‥‥‥もうそんな時期になるのか」
「いんや。今年はちょいと早いな。お前達もあんまり夜は出歩くなよ?」
「解ってる」
プーシャンとは鳥の名前で、極端に寒い気候を好む変わった獣である。そのため、冬をもたらす雪の精霊のお供とも言われており、暫くの間は吹雪が続く、という合図でもある。
それはさておき、とアイーシャは後方を指差した。
「あっちに今日の獲物がある。簡単な血抜きしかしてないから、残りの処理は任せた」
「む‥‥‥ダクウか。ウォルも手伝え。流石に荷が重い」
「了解。って、また随分な大物だな」
「ククク。ケルも負けてらんねぇな」
「うるせぇ!」
ワイワイと騒ぎながら遠ざかる彼等を横目に、アイーシャもまた歩き出す。
暫く歩いていると、やがて一軒の家が見えてきた。
「やっと着きましたねー!いやぁ疲れた疲れた!」
嬉しそうにはしゃぐミルシィではないが、アイーシャも似たような気持ちを抱いているようで、満更でも無さそうな笑みを浮かべていた。
扉を開くと、ブワッと暖気が顔を撫でる。
ヒリヒリと痛む肌が外の寒さを一層感じさせてくれる。扉を閉め、慣れた様子で、
「ただいま」
そう口にしたのであった。
◇◆◇
「ふぅー」
肩まで湯に浸かり、アイーシャは大きく息を吐く。
『温泉』という名前があるこの風呂場は、彼女のお気に入りの場所の1つである。ミルシィが考案したもので、曰く
「広いお風呂って良いじゃないですか?まぁこれはどちらかというと銭湯に似ていますが」
とのこと。この温泉は家の外に作られており、外気の寒さが温泉で火照る身体を丁度よく冷やしてくれた。
顔が冷えてくると、パシャリとお湯を当てる。ボーッと空を見上げながらぷかぷか浮かんでいると、疲れが癒されていくようだった。
「全く。はしたないですよアイーシャさん」
「んぁ?」
顔を向けると、いつの間にそこに居たのか。すぐそばに何やら妙な視線を向けてくるミルシィの姿があった。
「つってもな。これが一番楽な体勢だしな」
「あのですねぇ。今や貴女は立派な女の子なんですから、ちゃんとしていただかないと」
「女の子ねぇ」
身体を起こすと、若干前に引っ張られる感覚。
アイーシャは忌々しげに、その元凶を鷲掴むと、
「邪魔くせぇったら───」
「イィシャアアーー!「何すんだテメェ」ぶべしっ!」
突然襲い掛かってきた馬鹿をビンタで黙らす。バチーンと音が鳴り、ミルシィは綺麗なきりもみ回転で飛んでいった。
「ぅぅ、乙女の顔になんてことを‥‥‥酷いです!責任取って下さい!具体的にはその胸で!」
「自業自得だろうが。突然どうした?」
「うっ‥‥‥そのぅ‥‥‥」
言いにくそうに口ごもらせ、ミルシィはチラチラと視線を向ける。
正確にはアイーシャの、女性の象徴たる部位に。
そこでアイーシャは合点がいったといった風に、あぁ、と声を出した。
「なんだ胸か。こんなもんあっても邪魔なだけだぞ?」
「キィィイイイ!!!なんてことを!持つ者の優越だとでも言うんですか!?ならばそれを寄越s───グェエエ!許して!許して下さいぃ!指が!顔にぃ!」
メリメリと音を立てながら食い込んでくる手を必死に叩き、ジタバタともがくも離れない。
次第に疲れてきたのか徐々に抵抗は弱まっていき、ダランと力が抜けきったところでようやくミルシィは解放された。
「ぶくぶくぶく‥‥‥」
「全く‥‥‥そもそも女神だったんだから好き勝手弄れただろ?」
「い、いえ。私は、その‥‥‥別枠でして‥‥‥」
声が僅かに震えていた。
「あぁ、そうか。お前、追放されたって言ってたもんな」
神の座から降ろされたコイツには選ぶ権利が無かったのだろう。目線を向けてみれば見事な壁がそこにはある。
「‥‥‥」
何とはなしに自分の胸を揉む。むにんと沈みこむ五指。改めてミルシィの胸を見る。
「ハッ」
「あっ!」
──────────
「そういえば。後数ヶ月ってとこですね」
ミルシィがポツリと呟く。アイーシャはそうだなと頷いた。
「この冬で最後だな。ケル兄も残るみたいだし、あの2人に任せても大丈夫だろう」
長男であるブラノは既に村を出ており、ガスティア帝国と呼ばれる国で騎士を勤めているらしい。
代わりにと、この村に残り家業を継いだのがウォルターだ。そして三男であるケイルもまた、この村に残るつもりらしい。
村にいる狩猟組は少ない。その為、単独で獲物を狩ることの出来る彼等の存在は大きかった。
間もなくアイーシャはこの村を出る。両親は納得してるし、2人の兄も頑張れよと声をかけてくれた。
後、数ヶ月、と彼女はその言葉を噛み締めるように心の中で呟く。
「ところでだが‥‥‥」
「(ガシッ)」
さっきから胸に張り付いて離れようとしない阿呆を見る。
剥がそうとして力を込めてみてもびくともしなかった。
「(フガフガ)渡しませんよ!この幸せ空間は私のものです!」
「お前のじゃないし暑苦しい。離れろ」
「嫌です!良いじゃないですか!?何時でも楽しめる貴女と違って、私はこういうときでしか楽しめないんですよ!?」
「知るか」
「と、いうわけで私に楽しむ正当な理由があります!邪魔しないでください!」
「お前‥‥‥」
諦めたように息を吐く。
何となく解ってる。大方抱きつきたいという欲望なのだろうが、これもまた彼女なりの気遣いであることなど。
「不器用だよな。お互いに‥‥‥」
「?」
ミルシィが胸に頭をうずめながら此方を見上げる。何でもない、と彼女は鼻を鳴らし、夜空を見上げた。
(旅立ち、か)
この妙な感じを、さて何と呼ぶのだろうか。
寂しさか、侘しさか、或いは期待か。
顔から湯をかぶり、息を吐く。
「なぁ、ミルシィ」
「何ですか?」
「───楽しもうか」
「───えぇ、勿論ですとも」