第四十八話
───ドサリ
何かが落ちる音。やや間が空き、それが自分が発した音だと気付く。
吐き出される息。荒々しく身体の中をめぐる血流。
もはや立ち上がることすら困難。しかし、無意識でついたであろう手が完全に横たわることを拒否していた。
「───」
痛みは、ない。
辛うじてくっついている5本の指を眺めながら彼女は深く息を吐いた。
何はともあれ、
「勝った、か」
口には出すもやはり実感は薄い。
そもそも勝因は全て敵の油断によるもの。相手が終始守りに徹していただけだからに過ぎない。いいや、守りに徹しているだけでもいずれは勝っていた。
結局彼女の拳が届いたことは最後の連撃を含めても僅か。それほどまでに隔絶した差が、両者にはあった。
今回の勝利は、まさに辛勝。残された僅かな活路を拾ったに過ぎない。
とはいえ、それを悟らせない程の技術があってこそだが。
「‥‥‥」
七聖。
この世界最強とも謳われる7人の戦士。
あの老兵が果たして七聖なのか。真偽は分からないが、成程。そう名乗るだけの力量はあった。
(まぁ本当だろうな。実際にあの技を使ってたわけだし)
代名詞である『破山裂波』はあまりにも有名である。
書物にあるような威力かどうかは結局分からなかったが‥‥‥奥の手を使い完全に受け止めたにも関わらず、衝撃はアイーシャの身体を中から揺らした。
「フゥ───」
興奮が引いていく。
何か面白いもの、とは思ったが想像をはるかに超える大物だった。
良い土産になった‥‥‥
いや、もう1つ、か。
「‥‥‥来ねぇのか?」
不意に、そんな声を虚空へ投げかける。
返答はない。アイーシャは頭を掻き───止める。
「左斜め後ろ。3番目の柱」
代わりに彼女は面倒くさそうにそう言い、宣言した方向へ視線を向ける。
そして、
パチパチパチ
乾いた拍手の音ともに、その男は現れた。
「クッ───ハハハハハハ。いやスゲェな」
何時だったか、あの娼館で出会った男だった。
「大物食いをしたってのに。油断なんて微塵もねぇ。
やれやれ、狩りの基本はお前には通じないらしい」
それに、と彼は面白そうに続けた。
「それなりに隠形は得意のつもりだったんだがな」
「で」
崩れ落ちた姿勢のまま、彼女は問いかける。
「やるのか?」
その問いに、彼は闘気を一気に膨らませる。
来る。そう判断したアイーシャは四肢に力を籠め、
「いいや、生憎とな」
「あ?」
先程までの闘気が一気に萎む。残念そうに肩を竦める男に、アイーシャは訝し気な視線を向けた。
「俺だって不本意だぜ。こっちにも色々と事情があってな。
まぁあの爺が死んだのは、正直こっちとしてはかなりありがてぇ」
男は先ほどまで老兵の遺体があった場所へ移動する。
瓦礫を払い、何かを拾い上げた男は満足そうに頷いた。
何より、と彼は続けた。
「俺は常にこう思うんだ。
『勝者には褒美を』
無論、多くの戦場はこうはいかないのは理解してるがな。だが、今は俺のさじ加減でどうとでもなる。
だからお前は見逃してやる」
「‥‥‥」
「不満か?だが事実だ」
アイーシャは何も返さない。
男は小さく嘆息し肩を竦めると、
「ま、これ以上手負いの獣を挑発してもしょうがねぇか。
今日はお開きだ。次はお互い全力でやろうぜ」
ニヤリと獰猛な笑みを浮かべ、彼は服の裾をめくる。
肩に刻まれた赤い狼が爪を掲げている入れ墨があった。
「俺は『赫狼』の【バクザ】だ。【爪】とも呼ばれてる」
「‥‥‥今回の騒動はお前らも噛んでるってことか?」
「ん?あぁ、ま、そうだな。
というかどっちかというと向こうが噛んできたというか」
アイーシャの問いに答えた彼は、そこで嫌なことを思い出したかのように頭を掻いた。
「お蔭でかなり面倒くさい状況になったがな。結局向こうの目論見は失敗したみたいだし、俺としちゃかなり溜飲が下がったが。
雑魚どもがかなり暴走しちまってよ」
とにかく面倒くせぇったらありゃしねぇ、と彼は大きくため息を吐いた。
「今回はここらで幕引きだ。どうせ使い捨てても文句ねぇ奴等だしどうでも良いんだが‥‥‥俺とオルの奴は大目玉だ。嫌になるぜ」
あぁ、そうだ、と彼はそこで思い出したように手を打つ。
そしてバクザは目線を合わせるようにしゃがむと、
「その暴走のせいで、どうにもあっちこっちガタが来ててな。
お前のところも。早く行かねぇと終わっちまうぞ」
愉快そうに。彼は薄笑いを浮かべながらそれだけを告げ、背を向ける。
手を振りながら闇の中へ溶けていく彼の背中をしばらく眺めた後、アイーシャはゆっくりと息を吐き、
「‥‥‥行くか」
◇◆◇
アイーシャとアッタレトの戦闘が始まる少し前。
とんでもない移動方法で離れていったアイーシャを呆然と見送ったグレイは、やや不機嫌そうに街を歩いていた。
(キョウに合流しろとは言っていたが‥‥‥)
そもそも奴がどこにいるのかが定かではない以上無駄だろう。
頼みとなりそうなミルシィもさっさとどこかへ行ってしまい、本格的に彼は手持無沙汰であった。
あちらこちらで何かの破裂音や怒号が聞こえるが、彼は意に介さない。
グレイは別に正義の味方でも、善良な市民でもない。金をもらえれば話は別だが、ただ働きはごめんだった。
(面白ければ別だが‥‥‥)
アイーシャが何を察知したのかグレイには分かりかねるが、あの様子からして彼女にとって面白いことが起こるのは間違いないだろう。
そして彼女にとっての面白いこととは、すなわちグレイにとっても興味深いことである。
(飽きないものだ)
観測者になると決めたあの日から退屈したことは1度として無い。
彼女の戦闘は実に見ごたえがある。
修行方法(?)も実に単純で、見て覚えろ、だけだ。
それでもグレイにとっては得るものが多く、確かな成長を実感していた。
(あの迷宮の馬鹿でかい獣ともやりあえた。
仕留めることはまだ不可能だろうが‥‥‥)
自身に才があるとは思っていない。いや、かつてはそういった考えもあっただろうが、あの少女が粉微塵に壊してくれた。
目標があるとは良いものだな、と彼は内心でくつくつと笑う。
「っと」
大通りに出た。煙が上がっており、人の気配はほとんどない。
綺麗に舗装された道はめくれあがっており、至るところに血痕が見られる。激しい戦闘があったことは明白だった。
奥の方。遠目からは僅かにしか見えないが、誰かが戦っている。
(デケェ‥‥‥か?)
正確には分からない。だがこの距離からでも見える影。
グレイは戦闘が起きている方向へ臆することなく歩き出す。次第に見えてきたのは鎧を着こんだ幾人の兵士と1体のバンだった。どれほどの時間、戦闘が行われていたのか。周囲にはおびただしい程の肉塊と何かの破片が転がっていた。
そして彼らが取り囲んでいるのは、
「グッ───来るぞ。全員構えァアアアアア!!」
「───ッ!?」
何かを叫んでいた男が冗談のように吹き飛ばされる。
矢のように飛んでいく彼に、しかし誰も目を向けない。
2度目の轟音。
千切れた3つの上半身が、紙屑のように宙を舞う。
「んだコイツゥウウウウ!?!?」
あれは、何だ?
グレイの見知らぬ武器。あるいは異星の人間であれば、銃に似ていると言うであろう武器。
掲げられたソレの先が妖しく輝きだす。
直後。
地面が空間ごと捻じれ、石片が舞う。
そして、
ズン
音が響き、銃を掲げた男が縦から潰される。
そう、縦から。呆気なく。
それはグレイの目の前にいた。
かなりの大きさだ。高さは3メル超えるだろうか。グレイの2倍ほどもある背丈。鋼を思わせる黒い肌。そしてそれに見合うだけの腕と脚。
顔は、ヒトのものではない。濁った黄色の目があるその顔はむしろ獣に近く、何よりも下の歯から伸びて剥き出しになっている長い牙がそれを物語っていた。。
しかし、どこかで見覚えがある‥‥‥知っているようで知らない。コイツは、何者だ‥‥‥?
「───」
疑問に思う間もなく、巨人の背後で音もなくバンが駆ける。
そのまま飛び上がったバンは、勢いのまま剣を振るう。
「───ッ!?」
しかし巨人はその巨体とは似つかわしくない俊敏な動きを見せ、剣が届くより早く身体を捻り、無造作に腕を振るう。
「───」
あまりにも雑な攻撃。
にも関わらずその質量から繰り出されたその攻撃はバンの身体を鈍い音ともに、文字通り消し飛ばす。
「「アァァアアアア!!!」」
残った2人が駆け出す。
勇敢だと湛えるべきか。あるいは蛮勇とののしるべきか。
たどる未来は変わらず、物言わぬ肉塊へ姿を変える。
「フー。フー。フー」
低く唸りながら、巨人の目がグレイの方へ向けられる。
心臓が跳ねる。
恐怖?いいや、
「やるぞ」
これは歓喜だ。
駆ける。
巨人の動きは決して目に追えないといったものではない。アイーシャやフェンリルよりかは数段劣る分、彼が見てきた中では遅い分類に入るだろう。
厄介なのはその巨体。当たるだけでも身体が弾け飛ぶであろうその一撃を躱し続けられるか。
「フゥ───ッ!」
拳を突き出す。膝の下を捉えたその一撃は、巨人の堅牢さの前に弾かれる。
まるで鉄の塊を剥き出しの拳で殴ったような痛み。巨人は気にした素振りを見せることなく、拳を叩き付ける。
「───ッ!」
すんでで横へ飛び回避。飛び散る破片が身体を僅かに裂く。
しかしその程度では揺らがない。態勢を立て直したグレイは再び駆け出し、拳を振るう。
2撃目は空いた脇腹へ。
手応えは───ない。
「ぐっ」
轟、と風が唸り巨人の拳がグレイをかすめる。
ただそれだけで肉が削げ、鮮血が舞った。
(速───くはねぇ。まだかわせる。だが‥‥‥)
2発。ただそれだけで感じる絶望的な彼我の差。
攻撃が通る気がまるでしない。
「カッ───」
浮かびかけた敗北の文字を消すように、彼は嗤う。
「舐める───なッ!」
巨人はこちらの攻撃をかわさない。ならばどこかに勝機はあるはず。
繰り出される攻撃を歯を食い縛りながらかいくぐり、グレイはひたすら拳を振るう。
アイーシャのように攻撃を流すことが出来れば楽になるだろうが。生憎と彼にその才はなかった。
受け止めることは不可能。ならば話は単純。
「───」
幾度目の拳だろうか。
巨人の腕を叩いたその一撃から伝わるのは、他のどれとも異なるもの。
ついに通ったか。
いいや。
「───ッ!
チッ‥‥‥」
そこらの木や岩程度なら砕ける。鎧も、まぁ砕くとまではいかずとも凹ます程度であれば容易い。
それでも尚───
グレイが苦悶の表情を浮かべる。
魔力で十分に強化されていた拳は砕け、白い中身を覗かせていた。
グレイが防御に回ることはなかった。これは全て己の攻撃によるもの。
対して巨人の表情は先程から1ミニトたりとも変化はない。獣の表情が正しく読み取れるかはさておき、恐らく痛みすら感じていないだろう。
「クソッたれ‥‥‥」
苛立ちを言葉と共に吐き捨てる。
正直に言うと、ここまで通じない敵だとは思わなかった。
とはいえ後悔はない。いや、しないといった方が適切か。それが尚更、己の出した結論からくるものであれば。
(アイーシャ‥‥‥アイツなら‥‥‥)
「フゥゥゥ───」
拳を下ろし、長い息を吐く。
全身を覆っていた魔力を今1度、丹田(彼女が呼んでいた)へ練る。そこから再度細部へ。
送る箇所は限定する。必要なのは最低限の防御と最大限の攻撃。拳と足先、そしていくつかの関節部へ。
「フゥゥゥ───」
極小単位での魔力操作。
アイーシャが見ればまだ稚拙と笑うであろう。しかし天才と呼ばれるものたちがようやく成立させることが出来るほどの絶技を、彼は見様見真似だけで習得する。
それがどれほど特異で、どれほど化け物じみているかも理解出来ぬままに。
「───ッ!!」
何かを察した巨人が本能のまま拳を振るう。
グレイもまた応えるように拳を振るった。かわすでもなく、迎え撃つように。
轟音が響き、巨人の手が石畳を打つ。
弾かれた。巨人が驚愕する間もなく、頬から鈍い衝撃が伝わる。
「───ッ!?」
痛みだ。いつ以来か分からぬ痛みが巨人の脳を支配する。
故に彼の声が聞こえなかった。空間すら震わす、裂帛の声が。
グレイの拳が巨人の額を打つ。強烈な一撃で、巨人の身体は大きく後ろへ仰け反った。
が、倒れるまではいかない。身体を起こした勢いのまま、巨人はその頭を鈍器のように振るう。
流石にこれは厳しいか。そう判断したグレイは迷うことなく後ろへ退く。
だが路面に叩き付けられ無防備な頭部、それを逃すほど愚かではない。
ダン、と地面を蹴る。我ながら凄まじい速度だ。これならば起き上がる前に倒せる。
巨人まであと数セント。グレイは大きく身を捻り、
悪寒が背筋を伝う。
「───ッ!?」
駄目だ。止めることは間に合わない。
悪寒にさらされながらも彼は歯を食い縛りながら拳を振るう。
その直前、
「钢去」
轟音が響き、僅かな暗転の後、茜色に染まる。
それが空の色だと気付いた瞬間には背中が大地に叩き付けられていた。
「ガ───ハッ───」
遅れてやってくる四肢が千切られたかのような痛み。肺にため込まれていた空気が全て吐き出されたかのような感覚。
「コ───ォ───」
不味い、身体が‥‥‥
迂闊だった。完全に油断していた。
魔術とは違う。彼、あるいは鬼族と呼ばれる種族のみが用いる戦闘術『斗争』。
グレイは知らない。それでも悪寒がした時点で防御に魔力を回すべきであった。
巨人が立ち上がる。先ほどまでの戦闘が無かったかのように無傷のまま。
その姿を視界の端で捉えた彼は内心で毒づく。
敗因は彼の魔力操作の精度不足。
咄嗟の切り替えは、どれほど才があったとしても習得するのに長い年月がかかる。限定的に魔力を送ることは可能になったと言えど、この短時間でそこまでは流石に至ることは不可能であった。
「フッ───フッ───」
浅い呼吸を繰り返すも、麻痺した身体は中々言う事を聞かない。
そうこうしているうちに巨人はゆっくりとグレイの方へ迫る。
「フッ───フッ───」
死ぬ。
その実感があるにも関わらず、やはり身体は動かない。
僅かに動く首を持ち上げ、迫りくる巨人をただひたすらに睨み続ける。
やがて目前までたどり着いた巨人は無言のまま拳を振り上げる。
最後の瞬間。その時まで決して目を反らすまいとグレイは目をカッと見開いた。
そして、
「‥‥‥」
巨人が、振り上げた拳をそのままに静止する。
それはまるで出来の悪い彫像を見ているように、ただジッとその場で止まっていた。
「‥‥‥?」
そして何事もなかったかのように拳を下ろすと、訳が分からずグレイを放置しそのまま背中を向け、ゆっくりと歩き出した。
あるいは油断させておいて、だろうか?いいや、そんなことをする必要もなく、状況は完全に巨人の勝利だ。
では何故。疑問が消えないまま、しかし巨人はどんどんと遠ざかっていく。
分からない。分からないが‥‥‥
「命は繋いだ、か‥‥‥」
震える唇を動かし、それだけを言葉にする。自分の声と共に生きていることを実感した彼は全身の力を抜く。
運が良かった。ただそれだけだ。だが───死ぬよりかはマシだ。
(‥‥‥寝るか)
それだけを思いながら彼は静かに目を閉じたのだった。
◇◆◇
走る。
祭りはもう終いに近いのだろう。喧騒はなく、黒煙だけがゆらゆらと空を揺らす。
「本当にこっちで良いんだな?」
「無論。わざわざ嘘を言う意味もない」
自身の影に潜むアベスタの助言に従いながら、彼女が向かっているのは帝都の外れの方であった。
しかし、とアベスタは薄く笑う。
「随分とやられたようだが‥‥‥よくもまぁ動けるものだ」
「代わりにクソ苦ぇ丸薬を飲むがな。お前も飲んでみるか?」
「‥‥‥遠慮しておこう」
とはいえ気休めにしかならない程度の回復だ。もしもここでさっきの───例えばバクザのような強者に出会うようなことがあれば、今度こそ詰みだろう。
「‥‥‥」
城を出た時、すでにアベスタはそこにいた。
帝都全土に影を巡らしていた彼女にとってアイーシャを探すことなど容易い。しかし何故わざわざこちらに。
アイーシャの疑問に、アベスタはこう答えた。
最後の選択はお前がするべきだと。
状況を察した彼女はすぐさま向かうことを決めた。これは彼女の面白さから来るものではなかった。もっと別の何か。胸がかきむしられるような何かが彼女を動かしていた。
───いや。あるいは、既にその正体に気付いているのかもしれないが。
息を整えながら速度を落としていく。
視界の先では数人の男が切り合っていた。
その内の1人はアイーシャの知る人物でもある。
「‥‥‥」
そいつはこちらに気付いた様子もなく、がむしゃらに剣を振っていた。
マサシは囲まれていた。相手は、恐らく赫狼だろう。
修行の成果が出ているのか、囲まれながらも彼は耐えていた。いや、むしろ善戦しているといっていい。
焦れた1人が大振りの一撃を放つ。予期していたか。軽々とかわしたマサシは下から剣を振り上げる。
目を浅く斬られた男はたたらを踏む。その隙を逃さず、マサシは剣を突き出した。
剣の先が男の喉の貫く。血の泡を噴き出しながら倒れる男の姿を見て、他の者が色めきだった。
だが、既に均衡は崩れた。
出鱈目に振り下ろされた剣をいなし、返す刀で切りつける。迷いのない剣筋だった。
瞬く間に2人の男を切り伏せたマサシは正面を見据える。
そこにいたのは、
「く、来るなァアア!来るんじゃねェエエ!」
無様な悲鳴を上げる男に対して、しかしマサシは動けない。
原因は明白だった。
マサシは唇を噛み締めながら、振り絞る声で告げる。
「ティナを、放せ───ッ!」
「ハ───ハハッ。生憎だったな兄ちゃん。俺もよ。殺されたくはねぇんだ」
男の目は狂気に満ちていた。
果たして何があったのか。だが、あれがバクザの言っていた面倒くさい状況の1つなのだろう。
剣を突き付けられたティナは動けない。マサシもまたティナを人質に取られた状況では迂闊に動くことは出来なかった。
有効だと判断した男は増々嫌らしい笑みを深める。
「へッ。ヘヘッ。あぁ、そうだ。思い出した。テメェ、あれだろ。この女と一緒にいた奴だろ。
クハッ。ハハハ。ツイてる。俺はツイてるぜ。ヒヒッ」
「止めろ‥‥‥ティナを巻き込むな。決着なら俺が───」
「うるせぇええええ!!テメェの事情なんて知ったことじゃねぇ!俺はコイツを土産に基地へ帰る。でねぇと俺は。俺は‥‥‥」
そこで言葉を切った彼は小さく震えだす。
「黄金の少女さえ持ち帰れば何とかなる。なんとか‥‥‥ヒヒッ、ツイてる。ツイてるぜ俺ァ」
「ぐっ。テメ───ッ!?」
「オラァアア!!」
激昂しかけたマサシに先ほどまで別の場所で戦闘を繰り広げていた1人の男が斬りかかる。咄嗟に防ぐも手を斬られたか、動きが鈍くなる。
更にもう1人。ダメ押しとばかりにマサシに斬りかかった。
「ァァアアア!!」
「嫌‥‥‥」
もうマサシに2人を押し返すだけの力はない。終わりだな。そうアイーシャが考えた時だった。
「嫌ァアアアアア!!」
ティナの目が妖しく輝きだす。瞬間、彼女を掴んでいた男の腕の肘から先が黄金へ変わる。
「ギャァアアアアアア!」
「マサシさん───ッ!?」
絶叫をあげ、男は思わずティナから手を放す。
咄嗟に駆け出す。自分に何かが出来るとは思えない。それでも───
3歩目を踏んだ時だった。
「ァ───」
不幸だったのは彼女がまだ少女だったこと。
そして男に既に正気がなかったこと。
出鱈目に振り下ろされた剣がティナの脚を貫く。
灼熱の痛みがティナを襲い、彼女はその場に倒れ込んだ。
「ァァアアアア!!」
痛い痛い痛い痛い痛い。
口から漏れ出るのは絶叫だけ。
吹き出る血も、彼女を貫く剣も全て黄金へ変わる。
それでも痛みは消えない。むしろ黄金が彼女の内部を侵し、更に痛みは増す。
「逃がさねぇぞォ!!黄金ンン!!」
「ティナァァアアア!!」
口の端から泡を吹きながら、男は狂気の表情のまま咆える。
怒号を発したマサシだが、状況は変わらない。歯を砕かんばかりに食い縛りながら、剣を振るうも目の前の敵は倒れはしない。
むしろ更に精彩を欠いたマサシに追撃が入った。
「ギィィイイイ!!」
ティナの呻きと共に呪いが増す。触れていた地面が徐々に黄金へ変わっていく。しかし、剣を突き立てる男に影響はなかった。
あるいは、遠い未来。呪いを完全に制御することが出来れば、それすら可能だったかもしれない。
痛みからジワリと溶けていく思考の中。不意に顔を上げる。
滲んだ視界の中で愛する彼の姿が見える。そして、その奥。
「───ぁ」
彼女は静かに腕を組み、こちらをジッと見ていた。
マサシではなく、自分を。
「───」
開いた口を閉じ。再び開き、また閉じる。
良いのか?それで。何度目の自問自答だろう。
いや、彼は笑って許してくれるだろう。
あぁ、それでも。やはり私は彼を───
口にしようとした数々の言葉を呑み込む。
代わりに彼女は小さく笑みを浮かべた。
───了承した。
そう彼女が言ったような気がして。
だったら安心だわ。
斬撃は1つ。
音は2つ。
斬り合っていた男たちは、不意に聞こえてきた音の方へ目を向ける。
紅い髪をたなびかせながら、彼女はそこにいた。
「ぇ───」
それは一体誰の声だったか。
一番最初に正気を取り戻したのは、マサシと斬り合っていた男の1人だった。
「な、んだテメェはァアア!」
突然の乱入者が何者なのかを考える余裕はない。
激昂しながら剣を振り上げて迫る男に、アイーシャはただ軽く目線をやり、
どう、と男が倒れ込む。
ついでボンと音が鳴り、男の首が遠くの方で転がっていく。
「なっ───テメェエエエ!!」
もう1人の男もまた同様の結末をたどる。残されたのはマサシのみであった。
「───」
声が出ない。
棒を振るい、付着した血を払い落す彼女に、一体何と告げるべきだろう。
彼女の足元で倒れているティナへ目を向ける。早く助け起こしてやろう。それでお風呂に連れて行って、綺麗にして、美味しいものを食べて───
顔を上げる。彼女はただ、つまらなさそうに唇を曲げながらこちらへ向かってくる。
「な、んで」
「‥‥‥」
震える唇を無理矢理動かす。
「なん、でだ?」
「‥‥‥」
「な、なぁ。答えてくれよ」
「‥‥‥」
「なん、で!殺した!?」
「‥‥‥」
「あんたなら出来た筈だ!彼女を殺さずに助けてやることが!何でだ!?何で殺したんだ!?」
「‥‥‥」
「何でそれだけ強いのに助けなかった!?何で───「何で何でと五月蠅い奴だ」」
怒号を撒き散らすマサシに対し、アイーシャは冷たく吐き捨てる。
その目もまた、ゾッとするほど冷たいものだった。
「触れれば黄金になる危険性があった。だから助けることは不可能だった」
「な───」
それに、と彼女は続けた。
「助けたかったのはお前だろう?何故俺に押し付ける?」
「ぁ───ぇ───?」
大きく息を吐く。呆れた奴だと心底馬鹿にするように。
「助けられなかったのはお前の弱さが原因だ。そして、その弱さを俺に押し付けるな」
アイーシャの言葉に、思考が停止する。ただ口をはくはくと動かす彼をジロリと睨んだ彼女は思い出したように「あぁ」と言い、顎を撫でた。
「依頼は未達成だ。剣は返す。後は───好きにしろ」
それだけを告げ、去っていく。
呆然と、ただ呆然と。
思考が、纏まらない。
弱い。自分が。弱いせいで。
ティナの方へ目を向ける。あるいはさっきの言葉は全部嘘で。あぁ、でも剣が刺さったままだ。あのままじゃあ痛いだろう。
「───」
早く抜いてあげないと。抜いて治療しないと。間に合わなく───
「ふ───く───」
首が。首が───
「く───くく───」
分かっている。これは俺が招いた結末で。
俺がもっと早くティナの元へ行けていれば。もっと強ければ。
「く───ぐ───」
分かっちゃいるんだ。甘えてるだけだって。
それでも。それでも───
「ぁ───」
それでも──────
「ぁぁあああああ!!」
ぐしゃぐしゃの感情のまま駆け出す。
振りかぶられ、鈍い輝きを宿した剣先。向かう先は、彼女の小さな背中。
後先も何も考えていない、稚拙な剣。
理性はなく、ただ衝動だけが彼を突き動かす。
アイーシャは振り返らない。当たる。当たってしまう。
けれど、もう止めることはないのだろう。
「───ッ!!」
あと数歩で届くところで彼は大きく後ろに剣を引き、そして───
──────────
「それで」
振り返ると能面のような顔をした男が立っていた。
感情という感情が全て抜け落ちたかのような表情。ただぼうと足元に目線を落としていた。
「気分はどうだ?」
アイーシャに浮かぶのは笑み。彼を試すように、あるいは嘲笑うように。
「別に‥‥‥」
男が口を開く。その時には既に目に正気が宿っていた。
「何もねぇよ。何もねぇ。何もだ」
「そうか」
自分に言い聞かせるかのような言葉。彼女はつまらなさそうに肩を竦める。
「んじゃ、後片づけだ。キリキリ手伝え」
「‥‥‥あぁ」
否定する勇気も元気もない。ただ粛々と彼は頷く。
「まぁとりあえず───」
背中を向け、彼女はやはりつまらなさそうに口を開いた。
「復讐おめでとう」
「‥‥‥」
キョウは静かに息を吐いたのであった。




