第四話
巡る巡る───
幾つもの景色が泡沫の如く、浮かび上がっては消えていく。
目の前にいる2つの影。顔は見えない。伸ばした手は酷く小さいものだった。
手が触れ、一瞬の浮遊感───景色が変わる。
少し先にある、5つの影。ジッと此方を見つめてくる。影が少しずつ近付いてくる。その度に息を呑む気配。
いや、これは───景色が変わる。
駆けていた。どこまでも続くような草原。目の前を走る獣のしっぽへ手を伸ばす。届かない。駆ける。どこまでも。
こけた。痛みは無いが、目が回るような感覚。力強い感触と共に身体が持ち上げられた。その相手へ笑いかけ───景色が変わる。
巡る巡る───
変わり行く景色。次から次へと。景色に映る人物も変わっていく。
影はやがて人へ、動物へ。どんどん、どんどん。ハッキリと映し出されていく。色づき、音が響き、匂いが鼻腔をくすぐり、触れる物全てが新しい。
巡る巡る。記憶が、巡る。
そうだ。記憶。これは、俺の記憶だ。
移ろいが速くなっていく。浮かんでは消え、浮かんでは消え。
そうして、いずれは終わりが来る。
───追いついた
そんな声が、聞こえた─────────
「───どうかされましたか?」
突如聞こえた声と共に、ガラリと世界が変わった。
どこか靄がかったモノじゃない。鮮やかな世界。
澄み渡る青空。雲一つ無い空故、遮る物は無く、太陽は暖かな陽射しをもたらしていた。
目の前に広がるのはキラキラ光る水面。波紋一つ無い綺麗な泉は、空の蒼をつまびらかに映し出す。
その先、遠くに見えるのは緑を覆う山々。
鳥の囀りが聞こえてくる。風が吹いた。サワサワと音を奏でる草原。
「もしもーし。どうしちゃいました?疲れちゃいました?」
再び目の前から声がし、ようやくそこへ意識が向く。
少女が居た。金の髪を2つの三つ編みに結い、後ろへ垂らしている。綺麗な碧眼が、此方を心配そうに見つめていた。
よく見慣れた少女だった。
しかし、何と言うべきか。この少女を見ていると不思議な感覚にとらわれる。
髪、目、声音、背丈。何もかもが見慣れており、何かが違うような印象。
ズキリ、と頭が痛む。僅かに呻くような声と共に洩らされた一言。
「女神‥‥‥」
ハッ、と目の前にいる少女の目が大きく見開かれる。
言葉を発すると同時に蘇る記憶。森での死闘。白い部屋。女神。転生‥‥‥
(そうだ‥‥‥)
転生。思い出した。転生だ。転生をした。いや、させられた。
改めて目の前の少女を見る。少女はみるみるうちにその眼に涙を溜め、
「思い出したんですね!?良かったぁ~!いや、ホントに焦りましたよ~!
だって十年間も私の事に気付かなかったんですもの!はぁ~!いやぁ、本当に良かったぁー!」
テンション高く騒ぐ少女───いや、クソ女神。思い出した。全部。丸ごと。
こいつが最後、何をしたかまで。
「長かった!ほんっとうに長かった‥‥‥!さぁさぁ思い出したからには遠慮はいりませんね!
始めましょう!私たちの異世界せいぶべしっ!」
拳から伝わってきた人肌の温度。硬い頬骨の感触。それらが否応無く、この光景を現実だと突き付けてくる。
と、その時だった。あることに気付き、慌てて泉へと駆け寄り、中を覗く。
映し出されたのは一人の少女の顔だった。
いつもは勝ち気な光を宿す紅の瞳は、いまや動揺の色に彩られている。後ろに束ねられた紅の髪が煩わしい。僅かに日に焼けた健康そうな肌。艶めいた唇。
まごうことなき少女の顔。見慣れた顔‥‥‥
水の中へ顔を落とす。底すら見えるほど透き通っている泉の中には誰も居ない。
顔を上げる。吹く風が濡れた顔を撫で、心地よい涼しさをもたらした。落ちてくる水滴が水面を揺らす。映し出された顔も同じように揺れた。
「オイ‥‥‥」
「何でしょう?」
ニコニコと微笑みながら歩み寄ってきたクソ女神に向けて、髪から雫を垂らしながら彼女は言った。
「どういうことだ‥‥‥コレは?」
「どういうこと、ですか?」
泉に映るクソ女神が小首を傾げる。振り向くと、当然同じ格好をしたクソ女神がいた。
こめかみがひくつく。地の底から響くような声で問い掛けた。
「なんで女なんだ‥‥‥?」
「アッハッハッハ!可笑しな事を聞きますね?」
クソ女神が快活に笑って見せる。愚問だと。
「面白そうだからでぶっれ!」
顔面が陥没したのではないかと思わせるほどの渾身のストレートが命中。鼻血を撒き散らしながら吹き飛ぶクソ女神を見ても尚、イラつきが収まらない。
青筋を立てながら、しかし冷静に(本人曰く)彼女は二本の指を立て、問いかける。
「何で転生を───いや、この際、転生させた件はどうでもいい‥‥‥二つ、俺の質問に答えろクソ女神」
「ぅぅ‥‥‥痛いです。もう!乙女の顔面を殴るなんて───あ、嘘です。嘘です。ちょっ、怖ッ‥‥‥
えぇと、質問ですよね。どうぞどうぞ。何でも答えますよ?」
更に青筋を立て迫ると、女神はあっさりの手のひらを返し、土下座を敢行する。女神に詰め寄る彼女の表情は最早修羅のごときものであったが、本人は至って冷静のつもりなのだから不思議なものだ。
「まずは、一つだ。何故、女にした?」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。声が僅かに震えていたが、それを指摘出来る者はこの場には居ない。
「面し‥‥‥じゃなくてですね。はい、えーと、ですね‥‥‥」
視線をキョロキョロとさ迷わせながら必死に言葉を探す。僅かコンマ一秒に満たぬ世界で、女神の脳裏を過る名案。
「転生前は男だったじゃないですか?で、女性になって頂ければその‥‥‥別の考え方も生まれるんじゃないかと思いまして!
えぇ!そうです!また違う視点を得れるのが転生の利点です!で、まずは性別を変えることから‥‥‥って、これじゃあ駄目ですか?」
途中の勢いはなんだったのか。徐々に勢いを失っていったクソ女神は不安そうにこちらに問い掛けてくる。
普段であれば問答無用で殴りかかるところだが、
(あーーー、クソ‥‥‥ッ!)
その表情を見てると妙な気持ちに掻き立てられる。駄目ですか?と俺に聞くか?そう思いつつも、やはりどうにもこれ以上責める事が出来ない。
はぁ、と大きな息を吐き、解ったと彼女は言葉を続けた。
「どうにも本音には感じられんがな。だとしても、色々と大丈夫なのかよ」
「色々?あ、もしかしてにょた───「ァ?」んーー。まぁ問題無いと思いますよ」
余計な事を言いかけたクソ女神を黙らせる。
流れるような動作で額を地面に擦りつけたクソ女神は、それでも問題は無いと言いきった。
「口調や性格といった部分ですよね。えぇ、解っていますとも。記憶を探って頂ければ解りますが、その辺りの整合性は大丈夫です」
「む」
言われてみると、成る程。
兄が三人。母もまた男勝りで豪快な性格をしており、口調云々に関してとやかく言う人物では無かった。
その為兄と同じような環境で育てられた俺は一人称から口調まで、完全に男になったようだ。
「女口調バージョンも見てみたかったんですけど‥‥‥流石に殺されそうですしね」
「何か言ったか?」
「‥‥‥」
額を擦り付け、いやあれは頭を振っているのか。小声で聞き取れなかったが碌な事は言って無かったのだろう。
とにもかくにも俺は見事、女の身体に産まれ変わったらしい。微塵も納得出来ないが、既に怒りはどこかへ行ってしまった。
毒気が抜かれた、と言うべきか。随分と気を許しているみたいだなと、彼女は苦笑を浮かべた。
とはいえ、コイツが隠し事をしているのは明白。
だが、どれだけつついても言うつもりは無いのだろう。その頑なな意志がどこから来るのか気になるところだが、
「まぁ、良いか。なら二つ目だ」
そう言うとクソ女神は露骨にホッとした顔を浮かべた。
‥‥‥もう何も言うまい。
「これは、本当に転生なのか?」
「?」
これは本当に意味が解らなかったようで、クソ女神は土下座をしたまま器用に首を傾げる。
流石に言葉足らずだったと感じたのか、彼女は改めて質問を投げ掛けた。
「『俺』という意識が芽生えたのはついさっき。つまり、産まれてから十数年が経過してからだ。
転生ってのは、産まれたときから前世の記憶を持つものなんじゃないのか?」
「‥‥‥あー。そういうことですか。
つまりこれは転生ではなく、『憑依』ではないかと思ったわけですね?」
どうやら只の阿呆ではないらしい。質問の意図をキッチリと理解したクソ女神は、うーんと唸る。
「説明が、少し難しいんですけど。
取り敢えず安心してください。それは間違いなく転生で、魂の形は前世から変わってませんよ」
「魂の形?」
「あ、そこのツッコミに関してはノータッチで。
そうですね。貴方が持つ、転生に関しての情報に大きな誤りはありません。前世の記憶を持ったまま産まれるからこそ、転生の意義があるんです。
ですが、例外というのがございまして」
言葉を選ぶように、クソ女神はゆっくりと語り出す。
「前世の記憶を今世の記憶に再インストール───じゃ解りませんよね。
魂の白紙化───魂を別の容器に移し変えたときに、中にある情報を一旦外へ吐き出させます。それを回収し、元の場所へ戻してあげて、転生は完了するんです。
そして貴方の場合なのですが、持っていた情報量があまりにも多すぎまして」
「‥‥‥」
その理由に、若干の心当たりがある彼女は低く唸る。
恐らくだが、
「えぇ、戦士達の記憶です。それがあまりにも膨大過ぎて、戻すのにかなり時間を費やしてしまった訳です。
私自身もここまでかかるのは予想外過ぎて、かなりびっくりしましたよ」
成る程と彼女は思う。この違和感の正体は、それかと。
「俺が思い出したのは産まれてからの記憶じゃなくて、」
「はい。前世の記憶です。だから不思議な感覚に襲われるかもしれませんが、しっくりくるでしょう?」
指を動かす。まるで問題がなく、脳の指示通りに動く。
違和感が無い違和感。魂が己という存在を肯定しきってる理由。
しかし、
「それでも解せない。俺は確かにあの世界にいたあらゆる戦士の情報を知っていた。
だが、所詮は記憶だ。人間が持つ一般的な技能に過ぎない。実際に覚えすぎて覚えられなくなった、なんて感覚は無かった。
本当に記憶を戻すだけで、十数年も経つものなのか?」
一瞬の間が空く。その空白の時間に何を考えたのか。
僅かに身動ぎをした女神は、しかし、ポツポツと言葉を洩らしていった。
「‥‥‥軽く見積もって三年」
記憶を戻すのに三年はかかると、女神は断言する。
「そこに私から与えた『呪い』を魂に刻む時間を加えて四年。
四年後に貴方は転生を完了する予定でした」
けれども、実際にかかった時間は十数年。
その理由だが、女神には心当たりがあった。
顔を伏せたまま、目の前に立つ少女の顔を窺う。
最初あった憤怒の表情は消え、今はただ不思議そうな顔をしてこちらを見つめてくる彼女の顔。
その顔を見ると、やはり心苦しくなる。言うべきなのだろう。いや、しかし‥‥‥
(ごめんなさい。けれど、これは本当に言えないの。これだけは‥‥‥)
ペナルティがある訳じゃない。純粋に言いたくは無かっただけだ。
これ以上、彼に重荷を背負わしたくはない。その一心で女神は口を閉ざす。
一向に理由を話そうとしない女神を見て、徐々に苛立ちが募る。
理由は無いのか、はたまた隠し事をしているだけか。
口をついて出たのは女神にとって手痛い言葉だった。
「随分と嘘まみれだな。テメェは」
「‥‥‥ッ」
唇の端を噛む。籠められた力に負け、僅かに血が滲むが決して顔を上げることはない。
己が上げることを許さない。
すべてを吐き出したが最後、彼が歩むべき道が失われてしまう。
それだけは駄目だ。
「許して、とは言いません。貴方が殴りたいのであれば、ご自由にどうぞ。
私はその怒りを甘んじて受け入れましょう。それが贖罪になるとは、思いませんが」
そう言い終わると、覚悟を決めたよ うにギュッと目を瞑る。
殺されなければ良いな~と思いつつ、来るべき衝撃に備えるが、
「?」
暫く待っても衝撃は来ない。恐る恐る顔を上げてみると、彼女は目を瞑り、黙って腕を組んで立っていた
「あのー?」
ドキドキしつつも、勇気を出して声を掛けてみる。微動だにしない。
ならばと土下座をしながら、這い寄る。
見えた!今日の色はしぶべっ
「ぐぉぉぉぉ‥‥‥」
足元で呻き声を上げる馬鹿を再び踏むことで黙らせ、彼女はじっくりと考えた。
暫くが経ち、彼女はゆっくりと目を開く。次の瞬間、
「ちょっ‥‥‥」
己の両目に指を突き立てる───
「‥‥‥ッ」
直前で指が止まる。指先は僅かに震えていた。鼓動も嫌に速い。心音が離れていても聞こえそうだ。冷や汗が止まらない。
彼女は舌打ちを一つすると、ダランと力なく腕を下ろした。
「これが、恐怖か?」
「‥‥‥えぇ、その通りです」
諦めたように彼女は笑う。
自殺は不可能。かといって誰かに殺されるつもりもない。というよりも、この恐怖が自身を動かすだろう。
「最早、死ぬことすら許されんか‥‥‥」
「‥‥‥」
酷く寂しげな様子で、彼女は洩らす。応える声は無い。
「ハッ!まぁこれ以上文句を言ったところで、って感じだな」
空元気では無かった。諦めが良いというのは、彼が持つ一つの長所である。
置かれている現状を鼻で笑い飛ばし、未だに土下座をしている女神に目を向けた。
結局のところ、女神は多くを語らなかった。現状は変わらず、曖昧なままこの生を過ごすのだろう。
だから、
「おい、クソ女神」
「な、なんでしょうか?」
突然の呼び掛けに、肩を揺らしつつ応える。その様子がやはり面白く、彼女は僅かに笑みを浮かべながら、
「逃げは許さねぇってか?良いぜ。
思い通りってのは癪だがな。テメェが言ってた通り、生きてやろうじゃねぇの」
「───ッ!?」
「ただしだ」
歓喜の声を上げそうになった女神を押し留め、彼女は言葉を続けた。
彼には無かった表情で。彼女が手に入れた表情で。
「キッチリと教えてくれよ。テメェの言う、生き方ってやつをよ」
「───ッ!?えぇ!えぇ!勿論!勿論ですとも。
お供させて下さい!」
終いには泣き出す女神を見て、一つ息を吐く。
転生、いまいち実感が無いが。現実なのは確か。
(目覚めて初めて学ぶことが、諦めが肝心ってこととはな)
ままならないものだと、彼女は肩を竦めるのであった。
◇◆◇
「落ち着いたか?」
「えぇ。いや、申し訳ありません。お見苦しいところを」
目を赤くし、ぐずぐずと鼻を鳴らす女神を見ると、どうにも居心地が悪い。
なるべく目に入らぬよう辺りの景色を眺めつつ、女神が落ち着くのを待った。
「ふぅ。全く、突然泣かせにかかるなんて、罪な女ですね!」
「‥‥‥」
「ですね!」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
は?
「さて、まぁ諸々の疑問が解消されたようですし?そろそろ本題に移りますか」
何一つとして解消されている気はしないが、女神の中ではそのような扱いになっているみたいだ。
と、何を思ったのか、女神はその場で服の端を軽く上げ深々と頭を下げた。
「では改めまして自己紹介を。私の名前はミルシィ。
今後とも宜しくお願いします」
「‥‥‥知っているが?」
「いや、なんか収まりが悪いじゃないですか!
とにかく!今初めて、私と貴方は出会いました!良いですね?」
「‥‥‥そうか」
「よろしい!」
うんうんと女神───もといミルシィが大きく頷く。
‥‥‥本調子に戻ったようだ。眉間に皺が寄っていくのが解った。
「さてさて。私の名前を知ったところで、お聞きしましょう!」
先程までの泣き顔はどこに行ったのやら。ミルシィは元気良く、此方に指を突きつけ、
「貴女のお名前をおきかせ下さい!」
「‥‥‥知ってるだろ?」
意味が解らないと首を振るが、ミルシィはチッチッチと言いながら指を振る。
「改めて言うから意味があるんです!それに、名乗られたら名乗り返すのが礼儀でしょう?」
知るか、馬鹿。という言葉をグッと堪える。
(いや。もう一発、殴っておくか?)
期待の目を向けてくる女神に対し、そんな物騒な考えも過るが、あんまり意味は無さそうだと思い直す。
どうせコイツは梃子でも意思を変えるつもりは無いのだろう。
(ま、これも諦めか‥‥‥)
大きく息を吐く。
俺の、名は‥‥‥
「アイーシャ。それが俺の名だ」
改めて口にすると妙な気恥ずかしさを感じ、頭を掻いた。
自分でも今浮かべている表情が解らない。笑っているのか、恥ずかしがっているのか。
ただ、どうにもミルシィの方を見るのが辛い。振り返り、泉の方を眺める。
映りこむ自分の姿がやけにボヤけて見える。思わず上を向いた。
口から出たのは僅かな呻き声だけ。
───あぁ、何と言おうとしたのだろうか。
誰かが語りかけてくる。
届きやしない声でだれかが─────────────
(やはり、そうなのですね)
予感はあった。しかし、これほどとは思わなかった。
あれだけの殺戮を行いながらも、彼の感情にはヒビ一つ入らなかった。
並みの人間であればとっくに発狂死するほどの、濃厚な死の匂いを嗅ぎ続けながらも、彼の"心"は壊れることはなかった。
(それがどれだけ異常な事なのか。貴方には解らないんでしょうけど)
泣き、笑い、怒り、楽しむ。人が持つ感情を彼は当たり前のように表現してみせる。
そうだ。確かに彼の心は壊れることはなかった。
しかし、"己"はとっくに。
(アイーシャ、ですか‥‥‥)
迷うことなく放たれた名前。それは今世の彼の名前だった。
前世の記憶を取り戻したばかりにも関わらず、彼の名乗りには一分の迷いも無かった。
(だからこそ、私は‥‥‥)
その事実が、酷く寂しく感じられるのであった。