第二十六話
ここにきて初めて、彼女は渾身の雄叫びを上げる。
ヤケになったわけではない。勝つための術であることは明瞭。
しかし、まぁ、あれだな
誰かに託すというのはなんとも
「慣れない、ものだなぁッ!」
振り下ろした棒が獣の鼻先を僅かにかすめる。強かに叩かれた大地は派手に雪を撒き散らす。
勢いのまま転がるアイーシャの背筋を撫でる鋭い風。瞬時に懐から玉を取り出したアイーシャはふりむきざまにそれを獣の顔へ叩き付けた。
眩い閃光。目を閉じてもなお瞼の裏を焼かれるような感覚の中、ドッ、ドッ、と立て続けに鳴る鈍い音を耳が捉える。
視界は闇のまま、感覚を頼りに棒を振るう。硬い手応え。捉えはするもやはり通らない。
瞬時に間合いを空けたアイーシャはそこでようやく目を開ける。視界に入るのはやや苛立った様子を見せる獣の姿だった。
先程から己を邪魔する存在が気になるのだろう。獣はしきりに鼻を動かすが、視線をアイーシャから外すことはなかった。
上出来だ、と彼女は静かに笑う。
(やるべきことはいたって単純だ)
ただ機を窺う。殺されなければ勝ちのこの状況下、一番厄介なのは獣の標的が向こうへと移ること。
(俺ならば持ちこたえられる。今はただ───)
と、そこで己の思考に気付き鼻を鳴らす。仲間を信頼。仲間を生かす。
下らない、と吐き捨てるのはあまりにも勿体ない感情であった。
(どうあれこの場では頼らないわけにはいかない。感情の整理はその後だな‥‥‥)
獣の姿勢が僅かに下がり、合わせるようにアイーシャも棒を構える。たん、という軽い音と共に獣の姿が消えた。
横なぎに振るわれた棒。鈍い音を立て、獣の体勢が僅かに揺らぐ。返す刀で振るった棒は、しかし身を屈めた獣に届かない。
そのまま滑り込むようにアイーシャの足元へ。跳ねるように体を持ち上げ、牙を剥くその直前。
ぐいとアイーシャは体を後ろへ倒し、流れるように足をあげる。つま先が獣の顎を捉え、その体を高々と吹き飛ばした。
すぐさま空中で体勢を立て直す獣。その顔が大きく横へ揺れる。
「ハッ!」
憎たらしいほどの正確さ。僅かに出来た空白の時間にアイーシャは最後の準備を終わらす。
「それじゃあ、行こうか」
懐から取り出したのは薄い緑色の丸薬。それを口の中へ放り込んだアイーシャは獰猛に笑ってみせる。
「精々足掻かせてくれよ───ッ!」
最後の抵抗が始まった。
◇◆◇
遡ること少し前。
獣とアイーシャ。両者が睨み合っている場所とは少し離れた場所で、三人はしゃがみ込んで額を集めていた。
「さて、やるべきことは見えたが‥‥‥」
グレイが腕を組み、難し気に唸る。サーマもまた顎に手を当てながら同意を示した。
「勝てないのは明らか。アレは───多分彼女でも無理」
そうでしょ?と首を傾げるサーマに対し、ミルシィは不承不承と頷く。
実力差は歴然。アイーシャもそれを理解しているからこそあんな言葉を投げたのだ。
ならばどうするか。ミルシィは静かに考え出した。
(正面からの打開はまず不可能。なら私たちのやるべきことはあくまでも横からの妨害だけ。けれど‥‥‥)
敵の興味がこちらに向いてもアウト。アイーシャの戦闘に差し障る妨害もアウト。
「ムググ‥‥何か、良い手は‥‥‥」
適度な距離から適度な妨害。刻印の維持もあるため魔術を用いるのは極力避けたい。
(使える手札は私の魔術と互換。そして───)
そして?
「脳筋───」
「ん?」
──────────
「さぁ!どんどん撃ちなさい!あなたの腕が死ぬまで!」
「そいつは、勘弁願いたい───ッ!」
グレイの手から放たれるのは矢。しかしただの矢ではない。
それは氷の矢。それもミルシィとサーマによる合作だった。
「ただの氷の矢では、不意をついてもフェンリルの防御の前には勝てない!けれど所詮は無意識による防御のもの!ならば───」
その華奢な見た目からは想像もつかない程の『重量』を宿した矢が直撃し、獣の身体を揺らす。
当然無傷。しかし行動の阻害には十分。
「しかしやはり『互換』はふざけてますね」
「私もびっくり」
その言葉に偽りはないのだろう。長い時を生きていたが、このような使い方をしたのは初めてだった。
『互換』とはその存在の改変。在り方そのものを捻じ曲げる力だ。
「つまり質量の変化も可能!これならいけます!」
「でなきゃ、困るがなッ!」
鼻息荒く語るミルシィ。その横でグレイは顔を歪めながら弦を引き絞る。
放たれた矢は緩やかな弧を描き、やがてフェンリルの頬を叩いた。
(クソッ!)
見事に直撃。にも関わらず彼の顔は僅かに歪んだままであった。理由は単純。それは彼自身の力によるものではないから。
ミルシィの強化があるとはいえ1カトラも離れた場所に届かせる膂力は流石の一言に尽きるが、彼の命中率は依然として低い。とてもではないがこの距離を、更には尋常ではない速度で動き回るフェンリルを射抜くには至らない。
ならばどうやって。その理由もまた単純だった。
(アイツ、誘導してやがる───ッ!)
目まぐるしく動く戦場を彼女は正確に捉えていた。獣にあらず、人であるが故の知恵。彼が培ってきたその全てを使い、彼女は獣に向き合っていた。
しかし、それでもなお彼女に許された手段は逃走のみであるが。
だがそれだけではない。この射撃をより正確にする要素。それは、
(この女!こいつが送る合図だ!気味が悪いにも程がある!)
アイーシャから送られてくる小さな合図。それをミルシィは一切零すことなく捉え、グレイに伝えていた。
彼のやることはそれに従い、ただ弓を放つだけ。その事実がたまらなく悔しく、そして───
(ならば学べ!見抜け!お前だけじゃない!アイツの隣に並ぶ資格があるのは───)
だからこそ彼は引く。全力をもって。
再び一矢が放たれた。
──────────
「───ッ!」
よける。よける。よける。よける。流す。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。流す。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。流す。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。よける。
暴風の如き怒涛の攻撃。ミルシィ達の妨害が始まり益々苛烈さを増す獣の攻撃を前に、しかしアイーシャは揺るがない。
もはや爪も牙も関係ない。その全ての攻撃が致命的となった今、彼女はひたすらに防御に徹するほかない。
それでも、だ。
(そろそろ対応してきたころか)
無意識による防御膜は正確である。しかし、それ故に薄い。
とはいえ十分な強度は誇っているわけだが、衝撃は貫通する。
ならばどうするか。答えは明白だった。
(あいつらに攻撃を加えようとも俺がいる限り難しい。ならば無意識による防御は終わり、意識的に厚くする)
氷の矢によって獣の身体が揺らぐことはなくなった。奴にとってみれば妨害の意味はもはやなく、氷の矢は顔の横でただ砕けるだけの氷になっていた。
順調だ。
(アイツのことだ。馬鹿だがこれで終わるような阿呆ではない)
ならば何か奥の手があるのだろう。それが何かはわからないが、予想は出来る。
口惜しいことだが、そこそこの信頼は抱いているつもりだ。
(いや、つもりだではないな。予想以上に俺は絆されているらしい)
その事実を改めて認識し、苛立たし気に鼻を鳴らす。そんな考えを抱きながらも防御の手は休めない。
しかし、まさかここまでとは思っていなかった。
(速度は獣王並、威力は覇王並、正確性は剣聖並。文字通りの化け物だな)
彼であっても苦戦を強いられる相手。アイーシャが耐えていられるのは単にこの場に及んでもなお獣に油断があるから。
自分よりも劣る生物に全力を使う気が無いのか、或いは何らかの制限があるのか。
それでも仕留めきれないことに徐々に苛立ちが募っているのだろう。攻撃の速度が僅かに上がる。
(───ッ!?まだ、上がるのかッ!?)
最早流すことすら不可能。全身を切り刻まれながら、それでも辛うじて致命の一撃だけは避け続ける。
(チッ。だが───)
そろそろか、と思ったその瞬間だった。
ドクン、と力強く跳ね上がる鼓動。
カッと目を見開いたアイーシャが大きく後ろへ下がる。
「ミルシィイイイイイイイ!!!」
叫ぶ。フェンリルが追撃を加えようと跳躍した瞬間に放たれた氷の矢。
当然獣はよけるそぶりを見せない。勢いのままアイーシャへ向けて飛ぶ獣に氷の矢が突き刺さる。
その直前。
「ッ!?」
氷の矢が光と共に弾ける。現れたのは蒼を宿した巨大な猪。
それは以前にアイーシャたちがこの絶界で出会った獣だった。
何故?そんな疑問を挟む余地もなく巨体が獣へと迫る。
判断は一瞬だった。
「ヴォウ!」
獣が爪を振るう。瞬く間に切り刻まれ、バラバラと落ちていく肉塊の中、獣が顔を僅かに歪めた。
この程度の妨害と思っているのだろうか。大きな間違いだと彼女は笑う。
落ちていく肉塊の間を縫うように走る白い線。それが一瞬にして獣の視界を覆う。
「ッ!?」
それはさらしだった。遠くの方で悲鳴を上げた馬鹿がいるような気がするが、そんなものは気にしてられない。
正確に獣の頭へと撒き付けられたさらしは凍ることなく、獣の視界を閉ざす。ほどく時間は無かった。
その隙を見逃すはずがない。アイーシャが魔力を籠める。放たれるのは自信を滅ぼすに至る一撃か。獣には計ることは出来ない。
しかし予感に任せ、巻かれたさらしはそのままに、獣は爪を振るう。僅かな焦りを浮かべた思考の中、それでも獣はアイーシャの位置を正確に捉えていた。
最早神速とも呼べる速度。恐らく獣の全力か、あるいは相当か。故にアイーシャによける術はない。その、はずだった。
アイーシャが小さく口元に笑みを浮かべる。瞬間、トンと軽い音と共にアイーシャの身体が前に押し出される。
伸縮自在の槍。最後の一本だった。
獣の爪がアイーシャの頭上を薙ぐ。流石だな、と彼女は小さく呟いた。
だが、
(俺の───)
放たれる一撃は彼女が持つ最強にして最高の一撃。足から腰へ、胴へ、腕へ、指先へ、棒へ。
全身全霊をもって、この一撃へかけよう。
(勝ちだ───ッ!)
「処断の───」
獣が僅かに目を細める。反射的に取ったのは頭部の防御。
「一撃!!!」
衝撃は腹部からやってきた。
───そういうことか
「ォ───ッ!」
「ァァァアアアアアアアアア!!!!」
完全に予想外の一撃に獣が目を見開く。一切の防御がないその体を、彼女の一撃が容赦なく襲った。
「グギギ───ァァアアアアアアアアアアア!!!!」
叫ぶ。全力を籠めて、全力を超えるべくアイーシャは声の限り叫ぶ。
ブチブチと何かが切れる音と共に腕に走る激痛。それを無視して彼女はただ全力で叫んだ。
そして、
「ッ飛べやァアアアア!!!」
獣の身体が、高々と打ち上げられたのであった。
──────────
「ッ!?スゲェ!」
「飛んだ!?」
その光景は離れたこの場所からでもうかがえた。
彼女らしからぬ雄叫び。高々と吹き飛ぶフェンリル。どちらも信じがたいものだが、
「これなら───」
勝てるのではないかと思うのも無理はない。
しかし、そんな思考もすぐに吹き飛んでいった。
先程フェンリルをぶっ飛ばした張本人がこちらへ向かって駆けてくる。
その尋常ではない速度と気迫はグレイとサーマは声をかけるのをためらうほど。
「お、おいおい」
合流したアイーシャの様子は酷いものだった。むき出しの肌はあっちこっちが傷つけられ、先の戦いの様子を如実に表していた。
アイーシャの目がミルシィの方を向く。それだけで伝わったのか、袋から取り出した瓶をアイーシャへと渡す。それを彼女は一息で飲みほした。
「無事か?」
「勿論です」
短く答えたミルシィに彼女は小さく頷く。そして何を思ったのか、唐突に彼女は両脇にミルシィとサーマを抱え、走り出した。
「ちょっ───!?」
理解が追い付かないままグレイも足を動かす。両脇に人を抱えているにも関わらず差が縮まらないその化け物ぶりに目を丸くさせつつ、彼は必死に言葉を紡いだ。
「どういう、ことだ───ッ!?」
「あぁ?何がだ?」
「何故、逃げる、必要が?」
その疑問はサーマにもあったのだろう。抱えられつつ、うんうんと軽く首を振った。
「決まってるだろう。勝てないからだ」
そうなのか、と彼が言葉を発するよりも早くアイーシャは言葉を紡ぐ。
「さっき殴った手応え。魔力の防御なしの純粋な肉体にぶちかまして分かった。アレは勝てない」
ありゃまるで岩だと彼女は続けた。
「ハッ!俺も相当甘く見てたぜ。奴が無意識にやっていたことは防御だけじゃない。
体重の制御。奴は戦闘中ずっと己の体重を制御していた。実の重さよりもずっと軽く」
故に先の一撃に完全な不意をつかれ制御失った体は本来の重さを取り戻した。その結果、
「千切れるかと思ったのは鋼殻虫以来か。
まぁつまりだ。何が言いたいかというとだな、」
───ォォオオオオオオオオオオオオ───
突如として空間が震える。比喩ではない。空が、大地が震えた。
もつれかけた足を何とか立て直し、一層力籠め足を動かす。
心臓が早鐘を打ち、脳が警鐘を鳴らす。肺が破れそうになろうとも、それでも足は止めない。
「ハッ!怒髪天ってか!
わかったな!?わかったら死ぬ気で走れ!絶界を出ればこっちのもんだ!追いつかれたら死ぬと思えよ!」
「上、等ッ!」
◇◆◇
鉄を打つ音が今日も響き渡る。
無人の店。その裏に置かれてあるさびれた工房の中で、甲高い音が虚しく反響する。
唯一人、工房の中で座り込んでいた男がつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ダメか」
都合23本。彼女たちが旅立ってから打った剣の数だった。しかし、そのどれもがやはり彼を満足させるに至らない。
不満げに頭を掻くと、出来上がった出来損ないを炉の中へ放り込む。溶けていく鋼を見ながら男───シュドゥラは深い息を吐いた。
「らしくもない。ここまで気になるとはな」
ついていければ、と悔やんだ数は数え切れず。ここまで気に病むのであれば無理にでも、と何度思ったことか。
「我ながら女々しいものだ。全く」
力なく横たわり工房の天井を眺める。冷え切った床がじわじわと背中を侵していった。
「やれやれ。今日もやめだな」
帰るか、と腰を上げたその時だった。
ガララ、と店の方から物音が聞こえる。さて物取りかと鼻を鳴らし、工房を出て店へと向かう。
「オイオイ。誰だか知らんが悪いことは───」
言葉を止め、目を見開く。視界の先で、突然の来訪者は疲れた様子を見せながらも静かに笑った。
「帰ってきたぜ。何とかな」
「ぉぉ‥‥‥おぉ‥‥‥ッ!」
実に23日。
アイーシャはついに帰還を果たしたのであった。




