第二十五話
「ぅ‥‥‥グ‥‥‥」
迫りくる白の大地。猛烈な勢いの風が頬を叩く中、グレイはその眼を目いっぱい開きながら、距離を見定める。
両腕に感じる2つの重み。決して離すまいと力強く、しかし壊れないように優しく包み込みながらその瞬間を待つ。
「フッ───」
息を短く吐き、回転。背中から伝わる衝撃に息を詰まらせながらも、必死に2人を抱えながら大地を転がる。
どれほど長い距離を転がったか。強烈な痛みと吐き気を抑えながら彼はゆっくりと体を起こした。
(っ───)
立ち上がることはまだ出来そうにない。腕の中に抱えていた2人を離し、力なく腕を下ろした。
「取り敢えず、礼は言っておきますね」
「ハッ───」
埃を払うかのような仕草を見せたミルシィが鼻を鳴らしながらそんなことを言う。ポイと投げつけたのはいざというときの回復薬だった。
「全く。本当はアイーシャさん用だったのですが‥‥‥貴重なんですから感謝してくださいよ!」
「解っている‥‥‥」
不凍が刻まれた回復薬は、この絶界内あっても確かに液状を保っていた。フゥと長い息を吐いたグレイは一息のそれを飲み干す。
強烈なえぐみが喉を伝い、吐き気がより増すが痛みは和らいだ。
で?と尋ねたのはサーマだった。
「どうするの?」
何をとは聞かなかった。それは誰もが理解しているが故に。
あの獣。フェンリルと呼ばれていたあの化け物をどうするか。アイーシャを助けるべきか。
当然です!とミルシィは力強く声を発した。
「見捨てる意味もなければ選択肢もありえません!それに───」
思い出すのは彼女が放った一言。
「頼んだ、と彼女は言いました。故に私は頼まれます」
それが命を捨てる覚悟をした者の言葉ではないことは百も承知。
「あの獣を倒す。それが私の選択です」
1人では無理だ。だからこそ頼んだ。
獣から意識を完全に引きはがすために行った一手。言葉を交わさずとも、理解できた。
だから、と彼女は力強く拳を握る。
「私は行きます。何がなんでも」
「俺も、だ‥‥‥」
痛みに呻きながら、彼もまた絞り出すように声をあげた。
「見ると、決めた。退く、理由は、ねぇッ!」
「ハッ!貴方なんかに付きまとわれるなんて迷惑なだけなんですけどね!」
「ほっ、とけ!」
口の端から僅かに零れた血が瞬く間に凍てつき肌に張り付く。煩わし気にそれを取ったグレイは、走る痛みに顔をしかめながらも獰猛に笑って見せた。
そして
「私も」
サーマもまた、高らかに宣言する。
「ようやく見つけた取引相手。ここで死なれるのはちょっと困る」
それに、と彼女は続けた。
「あの程度で退いていたら、それこそ意味がない」
「サーマさん‥‥‥」
吐き出しかけた言葉を呑み込み、ミルシィは無理矢理笑みを作る。
「えぇ!それでは考えましょう‥‥‥」
やるべきことは2つ。
アイーシャの救出。フェンリルの打倒。
「皆で、この『冒険』をやり遂げるために!」
◇◆◇
耳朶を打つ風が一層強くなる。
巻き上がる雪の煙をかき分け、獣は四つ足を震わせ疾駆する。
「フッ───」
棒を振るい、僅かに跳ね上がる雪。的確に獣の目を打つそれは確かな目潰しとなる。
更に振るう。横合いから襲う二打、背後からの一打。ウラギリと呼ばれた技はこの体になってもなお健在であった。
死角から襲い掛かる不可避の攻撃。間違いなくその白い体躯をとらえた、筈だった。
「───」
しかし、流石というべきか。いかなる手段を用いたか手応えを感じることなく棒は空を切る。振りぬかれた爪をかわすべく、身体をくの字に折ったアイーシャはすぐさま跳躍した。
ならばと、今度の狙いは周囲の雪へ。煌めきを宿し舞上がる白煙の中、獣との間合いをあけるべく駆け出す。
だが、
(まぁ、追ってくるか)
全力に近い速度。しかしまるで両者の距離は離れない。
互角というわけでは全くない。獣はこちらの様子を窺いながら攻撃を仕掛けている様子すら見せていた。
(死ねばそれまで、耐えればそれだけ楽しめる。あの姿で良い趣味してやがる)
さて獣に嗜虐趣味があるかどうかは知らないが。
ともあれ奴は油断している。
好都合だと彼女は内心で静かに笑った。
駆ける。
爆発的な加速。ドン、と音を立て大地を蹴った獣はまっすぐにアイーシャの元へ飛来する。
軌跡を追うのすらやっとの速度。反射的に傾げた首の横を獣の爪が通過する。
合わせるようにアイーシャが棒を振るうも、獣はその速度のまま信じられぬほどの軽業を見せ、アイーシャの攻撃をかわしてみせた。
後ろ脚で大地を踏むと同時に反転。振りぬかれた爪を棒で受け止めたアイーシャは僅かに顔をしかめた。
瞬間。心胆を震えさせるほどの殺気を感じ、爪を弾くようにし後方へ下がった。
ガチン、と
先程までアイーシャがいた空間を獣の牙が通る。
「───ッ!?」
不滅を殺す力と彼女は言っていたが、成程。
(それが本来の力じゃない、というわけか)
全てに『死』をもたらす力。
それこそがあの牙の本領。
(喰らうわけにはいかんな)
当然噛み付かれれば死ぬ。しかし感じる怖気はそれだけではないことを物語っていた。
果たしてかすり傷すら駄目なのか。
二度、三度と振るわれる爪を凌ぎつつ獣の動きを観察する。
威力、速度は共にアイーシャよりも遥かに上。全力に近い力を出しているにも関わらず状況は一向に良くならない。
しかし、それでも───
(1つ)
袴の横。縫い付けられた小袋より取り出したのは小さな玉。
指を弾くようにし、それを獣に向けて放った。
すると、
「───ォ!?」
パン!と甲高い音が鳴ると同時に走る閃光。感覚を狂わされた獣が動きを一瞬止める。続けざまにアイーシャは袴の裾を軽くちぎり、それを獣に投げつけた。
「───ッ!?」
布を投げたとは思えない、風を切る鋭い音。布の先が獣の目を捉える瞬間、
ヒュンと風が唸り、獣の姿が一瞬かすむ。凄まじい反応だとアイーシャは舌打ちをした。
(完全な不意打ちだったが。まぁ良い)
獣にはない、人ならではの戦い。
それこそが唯一の活路。
息を静かに吸う。雄叫びは上げない。無駄な息を吐くことはしない。
獣が駆け、勢いのまま爪を振るう。
アイーシャはくんと膝を曲げ、大地に這うように体勢を低くする。
頭上を通り過ぎる爪。僅かに髪をかすめるも、意に介すことなく大地を叩いた。
跳ね上がる下肢。綺麗な宙返りを描き、アイーシャの踵が獣の鼻頭を叩く。
吹き飛ばされるように獣の身体が後方へ転がる。アイーシャもまた前に転がるようにして間合いを詰めた。
「───ッ!」
棒を振りぬく。その柔らかそうな毛並みから想像もつかない程の硬質な手応え。棒を握る手に伝わる衝撃に顔をしかめながらも、更に棒を振るう。
しかしそれを許す獣ではない。身を捻り、棒をかわしてみせるとすぐさま間合いを空けた。
と、思う間もなく獣の姿がかすむ。とっさに棒で攻撃を受け止めたアイーシャは、しかし予想以上の力に体が吹き飛ばされた。
宙を舞うアイーシャを獣が追う。牙がアイーシャの身体を食い破らんとしたその時、
ぐるりとアイーシャの身体が回る。続いてプッと小さな破裂音。
するとどういうことだろうか。獣が僅かなうめき声を上げながら顔をのけぞらせた。
(やはりこれは有効だな)
吐いたのは唾。ただし凍てつき、鋼のごとき硬さを宿した唾だった。
──────────
そも根源とは何か。不凍とは何か。
以前、シュドゥラは面白い話をアイーシャに聞かせていた。
「さて、ここに1つのザラがある」
「そうだな」
それは数日前、不凍の印を刻んだ果実だった。彼はそれを手に取り、何かを試すようにアイーシャに見せつけていた。
「不凍の証明はなった。では、こいつを少し切ってみるとする」
そう言ってシュドゥラはザラの一部を切り取る。断面はやはり瑞々しく、凍った様子はまるでない。
と、その時だった。
「!」
ピシリ、と音を立て切り取ったザラの断面にうっすらと霜が乗る。それは徐々に広がりを見せ、遂には完全に凍り付いたのであった。
「こいつは‥‥‥」
残ったザラを見るも変わった様子はない。どういうことだと彼女は目で問いかけた。
「なーに、氷の魔術を施しただけだ。ただし両方の物に、な」
ふむ、と彼女が頷く。大事なのはここからだ、と彼は言った。
「さて、前提だが。印を刻んだのはその物体の根源。
つまりあくまでも凍らないのはその根源だ、というわけだ」
「ん?その理屈は可笑しいだろ」
ならば物体丸々が凍らないのは不自然だ。確かに、とシュドゥラは小さく頷く。
「だから1つの仮設を立てた。
根源に接着、或いは内部にある限り印の効果は発動するというものだ」
「つまり?」
「例えばこのザラ。ザラの根源はその中央にあるとすると、それと繋がっているものは不凍が発動し凍ることはない。しかし一度離れてしまえば不凍の効果は消え、凍り付く」
「ほう」
しかし、だからどうしたと首を傾げる彼女に対し、シュドゥラは呆れたように息を吐いた。
「斬られてしまえばそれまで、というわけだ」
「‥‥‥」
「腕を斬られてしまえば、その腕は瞬く間に凍り付く。一度凍り付いて腕をくっつけることは出来ない。そして、あの娘がもつ力は腕を再生できるまでに至っていない」
注意しろよ、と彼はアイーシャの肩を軽く小突いた。
「この程度でお主が降りるとは思えない。だが、お主はどこまでいっても人間だという事を忘れるなよ」
「ハッ」
いやはや、成程なと彼女は静かに笑う。
お返しとばかりにシュドゥラの肩を叩き、彼女は呵々と笑って見せた。
「言われるまでもねぇよ。だが、そうだな」
ふと顔を上げる。さて何を思ったか。
「精々気を付けるさ」
──────────
あれは彼にとってみればただの注意だったのだろう。
しかし、まぁ面白いもので。
(どんな情報が役に立つのかってのは、解らないものだな)
だからこそ知る。知ったうえで戦う。戦って知る。
再び袴の先を小さくちぎり、手首の動きだけで飛ばす。瞬く間に凍てつき、鋼のごとき硬さを宿した切れ端はまっすぐに獣へ飛んでいく。
布が獣の目へ到達する直前、獣の姿が消える。振り向きざまに棒を振るえば硬質な手応え。
爪だ。流れるように身をくねらせ牙を剥く獣に対し、アイーシャは合わせるように体を捻る。
側頭部に突き刺さるアイーシャの蹴り。その勢いのまま獣は雪の大地へ叩き付けられた。
「ッ!」
続けざまに振るわれる棒。下から救い上げるように放たれたそれは、しかし獣の鼻先をかすめるだけに留まる。
獣が僅かに苛立ったように牙を鳴らした。対しアイーシャは薄い笑みを見せる。
(そろそろ慣れてきた)
女の身体になって既に十数年と経つが、狩りとは違う本格的な戦闘経験はなかった。
この絶界に至るまで、そしてこの世界の中での戦闘を通じ、彼女は1つの結論に至った。
動きやすい。
男の身体とは異なり、隅々まで柔軟性に富んでいた。また筋肉がつきすぎるという事もないため、身体に重さを感じることもなく、変なこわばりも感じない。
難点は単純な力不足と速度不足だが、彼の戦い方はそれを重視しないものであったのが好都合だった。
(胸が痛いのは考え物だが‥‥‥)
ともかくとして、彼が使っていた技に更なる柔軟性を宿した彼女の剣技は、
「フッ」
不可能を、可能にする。
「───ッ!?」
「2つ」
獣が反応する間もなく放たれたモノ。それは一本の槍だった。何処からか取り出されたそれは前足を目掛け放たれ、突き立てられはしなかったものもその衝撃で獣の前足を弾く。
突如支えを失った獣が横に倒れる。その直前、アイーシャが滑り込むように獣の眼前へと迫った。
斜め下からの切り上げ。頬を強かに叩かれた獣は、のけぞり腹を見せる。
畳みかけるように体当たりで獣の身体を吹き飛ばす。更に身体をねじり、槍を放った。
獣の顎を捉え、その体を大きく後ろへ吹き飛ばす。
(これで残数3)
シュドゥラが持たせた特殊な武器。素材の限界から本数は多くはないが、不意を衝くにはかなりの効果が期待されていた一品だ。
しかし、やはりというか手応えがまるでない。
鋼鉄すらぶち抜くほどの威力を宿した投擲。それですら獣の身体には傷一つついていないだろう。
理由はその魔力にある。
魔力による防御への応用。
練り上げられた魔力は自身の攻撃力を増すのにも使え、同時にいかなる攻撃をも弾く盾にもなる。これはこの世界にいる人間であれば勿論、アイーシャもまた無意識のうちに行っているものである。
では何が違うのか。それは魔力の密度にあった。
高密度であればあるほど盾としての機能は極まっていく。しかし、その分だけ他の場所への防御が落ちる。そのためか、無意識的に行われる魔力による防御は全身に行き渡る。
これを意識的に行うことは可能だ。しかし、それでも体は本能的に防御の構えを取ってしまう。
獣もまた、本能による防御を取っている。にも関わらずその防御は的確だった。
(けた外れの反応速度の恩恵か。崩すのは、まぁ恐らく不可能だな)
不意を衝いた筈の攻撃は何度か当てた。であるのに、返ってくる手ごたえはどれも同等のものだった。
獣は本能に応じながらも、その場所以外の防御は全く行っていなかった。それは、恐らく神代からの戦いの経験から来るものだろう。
故に最硬。ただでさえ火力に劣るこの身ではその防御を破ることはとても敵わないだろう。
ならば狙うは───
一瞬の思考の隙間。割り込んできたのは牙を打ち鳴らす音。
反射的に動かした首筋を温かな吐息が通り過ぎる。
「───ッ!?」
気付かなかった。気付けなかった。
それほどまでの速度であると、彼女は獣の実力を改めて認識する。
息をつく暇すら無いとは、と彼女は薄く苦笑いを浮かべた。
(上等───ッ!)
下段に構えた棒を上に振り上げる。巻き上がる雪。獣の視線、きらめきの向こうに彼女の姿は見えない。
驚きに目を見開く獣。衝撃は眼前から訪れた。
『隔離刃』の応用。完全な隠形を見せたアイーシャはしかし、軽く舌打ちをする。
瞬時に振るわれる爪。素早く後ろへ下がったアイーシャは、腕を振るう。
飛来する小さな玉。獣の眼前で弾けたそれは強烈な閃光を発する。
だが、
「チッ───」
棒を縦に構え、身体の横に置く。遅れてやってくる衝撃に苦悶の顔を浮かべながら、横へ吹き飛ばされる。宙で体勢を整え、迫りくる獣に棒の先を向けた。
「───ッ!」
急の剣。獣の身体が一瞬霞む。
外したと感じた時、腕に走ったのは確かな熱さだった。
転がるように着地し、獣との間合いを空ける。
腕を見ると深くはないが長い傷跡が付いていた。
(瞬時に固まるのは幸いだったな)
噴き出した血が刻印の加護を離れ、瞬時に固まる。腕を振るい、感覚に変わりないと判断したアイーシャは再び構えを取る。
とはいえ、だ
(どうするか‥‥‥)
既に動きは見切られ始めた。息や体力も最早限界に近い。
棒を握る手に力を籠める。一か八かの賭けをしようか、そう思った時だった。
風を切る音。獣の頭部が大きく横へ動く。
何が、と思う間もなくアイーシャの身体が動いた。
(ハッ!)
疑問はもたない。それは彼には無かった信頼という感覚。
「ォォオオオオオオ!!!」
彼女は───
雄叫びをあげ、棒を振るう。




