第二十二話
我々が目にしたのは白の死であった。
おおよそ生物の存在を許すことはなく、氷牢へと誘う。
まもなく私は死ぬだろう。寒さはもはや感じることはなく、既に視界の半分は白に覆われていた。
魂すらも凍てつかせるほどの境地。進みゆく中で我々は目にした。
ねじれ切った枝葉を持つ蒼の樹木。白き息を吐く怪鳥。雪を散らし駆ける棘だらけの獣。
見上げる程の巨躯。
私はここに記す。
挑むものよ。焦がれるものよ。
忘れることなかれ。汝が挑むのは死。
死そのものである。
◇◆◇
ハクト山頂にあるとされている絶界、ユグドシャリア。
そう。山頂にある。つまりはたどり着くまでの道のりもあるわけで、
「中々なもんだな。こいつは」
吹き付けてくる雪を見つめながら彼女は煩わし気に唸る。
登頂開始から4日。そろそろ到着かと思えた矢先、一行を襲ったのは猛烈にうねる吹雪であった。
「目に影響が無いのは幸いでしたね。流石鉱人族といったところでしょうか」
そう言ってミルシィは感心したように己の目元に覆う物に触れる。
覆眼とよばれるガラス製の道具。雪山に登る際は必須だと言われ手渡されたものであったが、アイーシャ自身ここまでのものとは思っていなかった。
「難点は地味に痛いとこだがな。雪のうっとうしさよりはマシだな」
「違いない」
サーマもまた同調するように頷く。因みにグレイにもちゃんと与えられているので悪しからず。
「扱いがヒデェな‥‥‥」
「んー?」
「‥‥‥何でもない」
サクサクと雪道を踏みしめ、一行は更に上へと登っていく。
辺りは吹雪で覆われ、舗装された道などあるはずがなく、頼れるのは己の感覚だけというこの状況。しかし先頭を行くアイーシャの歩みに迷いはなかった。
「どういう理屈なんだが」
「うーん。理屈というより勘、でしょうね」
むしろ彼女からすれば何故わからないのか、らしい。つくづく化け物だとグレイは厚手の布の下で口元を引きつらせる。
「しかしこの吹雪はある意味僥倖かもな」
「?というと?」
「こちらからも見辛いように、敵からもこちらを窺うのは難しくなる。こう厚手だと戦いづらいってのは確かだしな」
ちらりと自分の格好を見下ろし。
不凍の力はあくまでも凍らなくなるだけ。寒さを防ぐ力はなかった。
「それに印の発動には魔力を常に使わなければならない。節約できるところはしていかなきゃな」
アイーシャの戦闘力は確かに高い。しかしそれは過去の経験からくる効率的な体の動かし方、そして無意識に会得していた精密な魔力操作によるところがある。つまり極力戦闘を避けるのもまた、魔力の節約につながるというわけだ。
「それは貴女だから言えることなんですけど‥‥‥」
「あぁ。だから言っている」
「‥‥‥」
成程、道理であるとミルシィは呆れたように首を振ってみせた。
「で。その感覚によればあとどれぐらいで絶界へ?」
「さて、あと2日か3日か。もうすぐなのは間違いないな」
もう間もなくと聞いたサーマの足が僅かに軽くなる。
それを察したのだろう。アイーシャが僅かに苦笑しながら、
「はやる気持ちも解るが、まだ先なのは変わりない。焦ると痛い目にあうぞ」
「‥‥‥解っている」
気恥ずかし気に唇を曲げるサーマだったが目に映る期待に陰りはない。
仕方がないと肩をすくめるアイーシャであるが、彼女もまたその瞳に映る期待を隠すことは出来ていなかった。
絶対凍土と呼ばれる所以はその環境に厳しさにあることは間違いない。
しかし、その名は所詮人が付けたもの。そう、まだ表層をなぞっただけに過ぎないものが呼ぶ名である。
楽しみだと彼女は薄く笑う。
更に進むこと数刻。
太陽の気配は覗えないが、そろそろ夜半だろうとあたりをつけたアイーシャは面々に休憩の指示を出す。
拠点づくりも手慣れたもので、ミルシィがすぐさま雪で半円型の家を作り、サーマが雪を互換で土へ変える。魔術さまさまだなとアイーシャは苦笑した。
「そういえばアイーシャさんはこういう場合、どうやって夜を過ごしてたので?」
「ん。ここまで寒くはなかったというのもあるが‥‥‥基本は土の下だな」
「oh‥‥‥」
疲れた様子を見せるサーマを中へ運び、毛布で包む。やはり互換の消耗は激しいなとアイーシャは改めて認識した。
連発の出来ないとっておき。成程、悪くはない‥‥‥
「んじゃあこっからは俺達の仕事だ。行くぞグレイ」
「あぁ」
そう言って出ていった2人の背をぼんやり眺めながら、ミルシィははぁ、とため息を吐くのであった。
「人使いが荒いと言いますか‥‥‥普段は見向きもしないのに」
「グレイのこと?」
「ええ。まぁ‥‥‥」
今回の旅路、いや全ての旅路においてグレイはあくまでも観測者である。それ故に彼は同行を許されているものだと思っていたが‥‥‥
「どうにも少し違うみたいなんですよね~」
「何?嫉妬?」
「ちが!‥‥‥わなくもないですけど‥‥‥うーん」
グレイの話はサーマも聞いていた。というより直接本人から聞かされたのだ。
もしも。本当にもしもの話だが選択の時が来た時には。俺のことは真っ先に切り捨てろ。俺は、あくまでも観測者だ。お前たちの冒険を見届ける資格はなかった。ただそれだけの話だ。
言葉に揺らぎはなかった。本音だと、素直に感じ取れた。
「まぁ彼女なりに思うところがあるんじゃないの?流石に可哀想だとか」
「いやーーーーーあの人にそんな殊勝な心がけは‥‥‥むしろ便利に使ってやるとかそんな気が‥‥‥」
「‥‥‥じゃあそれで良いんじゃない?」
「いや!それはそれでモヤモヤするものがあるというか!」
「‥‥‥」
面倒くさいと頭まで毛布で包み、外界の音を断ち切る。
未だうんうんと唸り続けるミルシィを他所に、サーマの意識は緩やかに落ちていったのであった。
場所は離れ、とある森林部。
山頂付近であり、これだけの極寒でありながらもここには緑が存在し、必然獣たちの息遣いも感じ取れた。
「特殊な山ってのは間違いないんだろうな」
木の上に立ち、遠方を見つめながら彼女は言う。
指を丸の形にして覗き見た景色には確かに獣の姿が映っていた。
ディル───懐かしいなと彼女は薄く笑った。
「見つけた。さっさと狩るぞ」
ひらりと軽やかに降り立ち、下で待っていたグレイにそう告げる。静かに頷いた彼は袋から大きな弓を取り出した。
「ほぅ。そいつは初めて見るな」
「まぁな」
基本的にグレイの戦い方は徒手空拳。武具と言えば拳を覆う丈夫な布だけであった筈だが。
グレイが得意げに鼻を鳴らす。
「練習がてら、な。行くぞ」
「ハッ!じゃあお手並み拝見と行こうか」
軽口を飛ばし合った彼女たちは、しかし静かな足取りで獲物へと迫っていく。
(速ぇ)
なるべく音を立てることなく、しかし素早く。足音を殺す術は依然と比べれば遥かに上達した。
だが慢心することなく己を鍛え上げられ続けられるのは前を走る彼女がいるからだろう。
足音はなく、それでいてグレイよりも遥かに速い。いや、これでもまだ手を抜いている方だ。
その事実が、ただ歯痒い。
(まだだ)
はやる気持ちを抑え、雑になりかけた動きを立て直す。
まだ追いつくことは出来ない。だが、いずれは───
アイーシャが不意に手を軽く振るう。それが停止の合図であることは事前に聞かされていた。
足を止め、すぐさましゃがみ込み気配を殺す。見つけた。
荒くなりかけた息を整え、機会を窺う。敵はすぐそこにいる。外すことは、ない───
「フッ───」
小さく息を吐き、矢をつがえる。キリキリと僅かな異音。それを察したのか、ディルが顔を上げ辺りの様子を窺うように鼻を動かす。
「───牙突」
矢に魔力を宿す。瞬間、グレイの身体から猛烈な殺気が放たれた。
殺気に当てられたディルの身体がほんの一瞬固まる。その一瞬で十分。
放たれた矢が美しい放物線を描いて飛翔し───
───バキン、と
ディルの角へと直撃した。
「ぉ───」
「下手糞がァ!」
甲高い声を上げ、慌てたように駆けだすディル。しかし遅い。数歩行った時には既にアイーシャの矢が放たれていた。
「ったく。止まっている的にすら当てられんのか」
「ぐっ‥‥‥」
血抜き処理をするアイーシャの後ろでグレイは悲しそうに弓に手を当てる。こんな筈ではと呟く姿が一層哀愁を漂わせていた。
「常に現状を頭に叩き込んでおけ。地上と同じ感覚でやっていると痛い目を見るぞ」
「‥‥‥肝に銘じておこう」
処理を終えたアイーシャが立ち上がり、うんと伸びをする。
「ま、ともあれ収穫だな。さっさと帰るぞ」
「あぁ」
ディルの死体をグレイに預け、アイーシャは軽く辺りを警戒する。
大丈夫そうだとグレイに合図を出すと、彼女たちは早足にこの場を後にしたのであった。
「順調だな」
帰路の道中。
彼女が発した小さな呟きにグレイは同感だと返す。寒さも予想を超える程ではなく、手持ちのもので十分にしのげる。また食料も道中で採れるもので十分に補えていた。
「と、なると。やはり絶界と呼ばれる由縁は中にあるわけだ。正直、拍子抜けと言えばそうだな」
「道中も過酷なものであるのが望ましいと?」
「これだけの魔力地帯だ。惹かれる獣もいるかと思っていたが」
ゆるゆると軽く首を振るう。確かに、これまでの遭遇で危機的状況に陥ることはなかった。
まぁ、それもこの化け物女の実力があってこそだが。
(モルスク・ディン。ダクウ。タロタロ。どいつもこいつも雪山で遭遇したら尻尾巻いて逃げるべき相手だ。
だってのに‥‥‥)
笑いながら嬉々として挑む彼女の姿は常軌を逸しているものであった。長い時を生きるサーマですら顔を引き攣らせるほどに。
だが
(それでこそ、なのだろう。その姿に俺は‥‥‥)
何がそこまで彼女を駆り立てるのか、グレイは知る由もない。
命を捨てるためではないことは明白。挑戦という言葉通り、彼女は唯の一度も相手を侮ることはなかった。
相手を観察し、知り、勝つ。それが彼女の戦い方であると、この短い付き合いの中でも理解してきた。
(観察‥‥‥観察か)
彼女が観察から力を得るように、或いは自分も───
「止まれ」
思考をそこで止め、顔を上げる。
吹雪に揺らされ騒めく木々の向こう側。広がる闇の中で確かな殺意を感じ、グレイはゆっくりと背負っていたディルを降ろした。
「数は?」
「5だ」
頼もしい断言に僅かに頬を緩める。軽く首を鳴らすと、腰を低く落とし構える。
「ザッハだ。もういいな?」
「あぁ」
彼女が観察してきたように、自分もこの道中でひたすら見てきた。
ただの一度も、後ろから見続けてきた傍観者であったつもりはない。
「下がってろ、アイーシャ。俺がやる」
拳を握り、息を吐く。
俺は、いつか───
「ハッ───」
そんな男の背を見て、彼女は軽く笑うのであった。
「今度はしくじらないようにな」
「‥‥‥耳が痛いな」
グレイは泣きそうになった。




