第一話
ザクザクと草木を掻き分ける音が、闇の中で響き渡る。
場所は森。空に浮かぶ満月、そして幾つもの星々の光すら届かぬ深い森の中、彼は駆けていた。
聞こえる。
幾つもの息遣い。枯れ枝をへし折る音。ガチャガチャとうるさい金属音。
最早隠す必要が無くなったとはいえ、雑すぎやしないかと彼は独り嗤う。
突如後方から光が差し、それを感じたときには既に彼は動いていた。
放たれた一条の光、それをヒラリとかわすと、そこでようやく足を止める。
訳ではなかった。
止めた足をそのままに、彼は大きく跳躍する。そして手頃な木の枝に飛び移ると、そのまま次の枝へと、重力を感じさせぬ動きで駆けていく。
しかし、
駆ける彼のすぐ横。闇が蠢いた、と同時に突き出された一振りの短剣。襲撃者だ。
それを素早くはたき落とし、返す刀で襲撃者の首を斬る。
血を勢いよく吹き出し、地に落ちる骸を一瞥することなく、彼はただ駆ける。
「1」
今度は後ろからだ。飛来する数本のクナイ。
このままの状態では迎撃は困難と、足を止め、振り返り様に一閃。
全てのクナイが弾かれたと同時に、迫る二振りの剣。
片方は柄で弾き、回し蹴りを喰らわす。頭部が爆ぜた。
片方は蹴りの勢いのまま剣を振り下ろす。胴が縦に分かたれた。
「2、3」
更に別の襲撃者が。更に別の。更に‥‥‥
数えが18を超えたところで彼は大きく息を吐き出す。
「ここなら、良いか」
地に降り、辺りを見渡す。既に包囲は完了済み。ここに集う戦士の誰もが武器を手にし、覚悟の光を灯した目で彼を見つめていた。
輪から一歩はみ出した位置にいるのはこの戦士達のリーダーか。
その名を彼は知っていた。
「オルフェル」
黒い髪を短く揃えた美しい女性だった。屈強な男達の前に立っていても尚、彼女が持つ覇気は絶えない。否、むしろ彼女が一際大きな覇気を放っていた。
「師匠‥‥‥」
男の姿を目にしたオルフェルと呼ばれた女性は、その瞳に僅かな後悔の光を宿す。しかし首を振った次の瞬間には既にその輝きは消えていた。
「説明は、いらないな?」
剣の切っ先を男に向けるように構える。
濃密な殺気を辺りに漂わせながら、彼女は口を開いた。
「ここに集いしは5000の兵。凡百はおらず、居るのは英雄と呼ばれし者ばかりだ。
貴方を殺すために、私達はここにいる」
殺気が、高まっていく。
男は息を吐いた。
「5000か‥‥‥随分と贅沢な話じゃないか」
何人か倒せば散り散りになって逃げるだろう。そんな甘い考えは彼には無かった。
ここにいるのは死兵。死を覚悟し、仲間の屍を超えても尚、立ち上がれるものばかり。
「ったく‥‥‥」
「贅沢、か。それもそうだ。それだけの価値が貴方にはある。」
言葉は続く。
「貴方は殺しすぎた。そして救いすぎた。
貴方は英雄なんかじゃない。人殺しだ。それでも‥‥‥」
そこで言葉を区切り、何かに耐えるように歯を食い縛る。
男は仕掛けない。周りの戦士もまた、前に出ようとはしない。
溢れ落ちた彼女の言葉には複雑な想いが籠められていた。
「貴方が居なければ、私は腐りきって死に絶えていた。だからこそ、これが私から与えられる最大の礼だ」
不器用だと、笑う筈もない。それが、彼女の心からの言葉であるならば。
「‥‥‥お前を殺したところで、ここにいる者たちは止まることはない。そうだな?」
「無論。たとえ私が死んでも、別の者が指揮を取る。最後の一兵になろうとも。貴方を殺すまでは、戦いは終わらない」
「そうか‥‥‥」
そうだろうな。お前達であれば。
「ならば、これ以上の問答は不要か」
男が刀を抜く。シャンと音が鳴り、一同に緊張が走る。
応えたのはやはり、オルフェルだった。
「あぁ‥‥‥『死神』。お前を今宵、」
剣を握る手に力を籠める。
息遣いが、止んだ。
「葬る!!!」
雄叫びじみた鬨の声が上がり、戦士達が駆け出す。
『デス』と呼ばれた男は、静かに嗤った。
◇◆◇
開幕と同時に飛来する数本の矢。
それを男は刀の一振りで払い落とす。
生じた間隙は僅か。しかし、
この場にいる者はその僅かですら見逃さない。
「シッ───」
超人じみた速度で幾つもの得物が男に迫る。
先頭に躍り出たのは、やはりオルフェル。
「ゼァ!」
速度が充分に乗った一撃が振りかぶられる。それを刀の僅かな動きで逸らした男は返す刀で斬りつけようとし、
「ッ!?」
直後に反転し後方より放たれた矢を弾き落とす。常識はずれの反応速度。しかし、彼等に驚きは無い。
男が振り返った時には既にオルフェルの姿はない。代わりに正面からは3人、後方からは2人の剣が同時に迫る。
ならば───
突然だが、彼は基本的に己の剣技に名を与えない。それに意味を見出だせなかったからだ。
故にその名に意味はない。ただ見たものを震え上がらせ、同時に魅入らせる故に付けられた名。
刀身が霞むほどの速度で刀が振られる。
睡蓮───瞬きの間に29の斬撃が繰り出されるその技は、まさに必殺。
だが、
(防いだ、だと‥‥‥?)
5人全員に29もの斬撃を浴びせた訳ではない。
それでもこの結果は、驚愕に値した。
防いだとはいえ相応のダメージを受けたのだろう。5人の戦士は素早く身を翻し、奥陣へと退いていく。
追撃を試みるも、またもや新たな戦士が投入され、断念を余儀なくされた。
(成る程な)
自惚れではなく、この場にいる者達では数度刀を合わせるだけで、その命を断てるだろう。それは彼等も十分に理解していた。
故に選んだ戦法は一撃離脱。
男は内心深く感心する。並みの戦士であれば一撃離脱すらも許すことはない。
だが相手は全てが英雄級。何より感嘆すべき点はその連携の練度だ。
(速い)
一撃を加えてからの離脱までの時間が恐ろしく短い。仮に追撃を試みようとも、その時には既に別の者がこちらに斬りかかってくる。
ならばと距離を開けてみるも、途端に矢と魔術の雨に降られる。対処する間にも剣をもった戦士達が斬り込んでくる。
これは一流だから、と出来る技ではない。これは何ヵ月にも及ぶ修練の末に得られるもの。
彼一人を殺すための技術だ。
「フッ!」
防戦一方とも見えるその戦い。しかし彼に術が無いわけではない。
事実彼は正面を向きながらも後方へと斬撃を繰り出す技を持っていた。
ウラギリ、或いは死神の鎌とも呼ばれる彼が最も得意とする剣技。
しかしその剣技は既に幾度となく使っていた。にも拘わらず、敵陣を崩せない。
理由は簡単。その剣技すら彼等は見事に防ぎきってみせるから。
ウラギリが描く軌道は確かに単純だ。だが、その威力は一撃必殺。
死角から入り込んでくる一撃を防ぐ術は無く、見たものはその殆どがあっさりと命を落とした。
この技は見てから反応出来るものではない。彼等の反応は明らかにその剣技の軌道、いや剣技の予兆すら知っているかのようだった。
まさか‥‥‥
「虚撃!」
凛と良く通る声が森の中で響き渡る。
戦士達の隙間を縫うように放たれた斬撃。
辛うじて防ぐものの、その剣技を見て彼は僅かに冷や汗を浮かべる。
と同時に確信へ至った。
「修得したか!俺の技を!」
嬉しそうに声を上げる男を無視し、今しがた剣技を放った戦士───オルフェルは大きく間合いを詰める。そして、
「処断の───」
腰を捻り、持てる力を全て乗せた大振りの一撃。
男の目が大きく見開かれた。
「一撃!」
彼が唯一自らの言葉で名付けた究極の剣技。
一切を赦さず、断ずる。絶対の剣。
籠められた思いは使い手が変わっても尚消えることはなく、
絶大な威力を孕んだ剣は狙い違わず、真っ直ぐに男の首へ向かっていき、
「見事だ」
彼の強さの理由はその数多の剣技ではない。
剣技とは所詮技の型。彼が多くの戦いの場で生み出してきた、効率的な殺し方に過ぎず、彼がそればかりに頼ることはまず無い。
強さの理由は唯一つ。
超人じみた判断力。
それだけだ。
その言葉を聞いたオルフェルは淡い笑みを浮かべる。
「貴方は‥‥‥」
誰もが成し得なかった彼の技の模倣。それを成し遂げた彼女に、しかし喜びはなかった。
今この瞬間までは。
殺すために、感謝を捧げるために、命をかけて模倣された究極の剣技。
彼女はこの瞬間、1つの極点へと至った。
それを彼は、
容易く防ぎきる。
この光景を誰もが予想してなかった訳ではない。誰もがもしやとは思っていた。覚悟を決めていた。
しかし、しかしだ。
それでも受け入れられるかは別。
覚悟に揺らぎがあったわけではない。彼等の目に宿した光は一度たりとも揺らぐことはない。
動きは止まらない。振りかぶった剣を下ろすことに躊躇を抱くものもいない。たとえそこに仲間がいようと、殺せるタイミングがあれば、彼等は躊躇わずやる。
だが、変化は訪れた。
「───」
オルフェルの口が僅かに動く。
その言葉を聞き遂げる間もなく、男の剣が彼女の首を断った。
その顔は僅かに涙で濡れており、
その顔に笑みが絶えることは無かった。
「19」
戦士達が吼える。仲間を失った悲しみを塗りつぶすかの如く、強く。強く。
連携に綻びは無い。しかし、男には届かない。
それでは、届かない───
「20」
また一人、戦士が倒れた。
マルクゥーラ。人族が誇る最強の細剣使い。
その剣先は音速すらも超え、目だけで追うのはまず不可能。
ガンクルシュ砦における防衛戦ではその才覚を遺憾無く発揮させ、見事に守りきってみせた英雄。
その男の強さを、彼は知っていた。
「21」
バゥファ。獣人最硬の爪を誇る戦士。
その爪を切り裂くことは男にとっても容易ではない。分厚い岩盤を容易く削りきるその硬さは、かの鉱石、バーチュールすらも超えると言われる。
その男の強さを、彼は知っていた。
「22」
ドゥルバ。フィンタン最速の戦士。
こと速さにおいては大陸五指に入り、人類を恐怖足らしめた存在。フィンタンが誇る六将に名を連ね、幾度となく勝利をもたらした傑物。
その男の強さを、彼は知っていた。
「23、24、25」
斬る度に彼の脳裏にその名が映し出される。
この場に集う、すべての戦士を彼は知っていた。
この場に集う、すべての戦士の強さを彼は知っていた。
名も武器も武勲も技も癖も。
彼は知っている。
「26、27」
知ることこそが己の役目だと信じて疑わないから。
知ることこそが手向けであると、そう信じて。
(戯れ言だ)
「28」
斬る
「29」
斬る
「30」
斬る
斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る斬る
もてる力を、速さを、技術を、知識を、命を。
すべてをかけて、ただひたすらに斬り続ける。
数えることを止めない。次から次へと、名が脳裏を過る。
止まらない。彼が生み出す死の舞踏は何者にも止めることは出来ない。
技術も力量も鍛練も充分だ。充分すぎるほどだった。
だが、何度でも言おう。
それでは届かない、と───
「4994‥‥‥」
半ばから折れた槍を力なく地面に落とし、男は大きく息を吐く。
久しく感じた死の予感。それを乗り越えた彼に、しかし喜びは無い。
「ハッ‥‥‥ハッ‥‥‥」
強かった。
宣言通り、誰もが臆することなく、最後の一兵になろうとも戦い続けた。
斬られ、裂かれ、穿たれ、抉られ、彼の身体は酷く傷つけられていた。
呼吸がなかなか定まらない。
(かなり、血が流れたな‥‥‥)
手足の感覚が殆んど無い。意識すら曖昧だ。もはや立っているのが不思議なほど。
だが、倒れることは無い。倒れることを許さない。
草木を踏み締める音が聞こえる。。
倒れ伏す幾つもの屍の向こうから、複数の人影が現れた。
これだけの死闘を目にし、多くの仲間の死を見届けながらも、己の役割に徹し続けた者達。
彼等の瞳に籠められた感情は怒りだった。仲間の死を見せ付けられながらも何も出来なかった自分達に対する怒り。
全てはこの時の為に。
足音の数は五名。
「ハッ‥‥‥」
魔王、獣王、剣聖、大賢者、覇王。
大陸全土に名を轟かせた最強の戦士。
互いに幾度となく拳を交えた者達が、今宵、肩を並べて男と対峙する。
「ったく‥‥‥」
疲れきったところに、この超戦力。
(確実に、殺すためか‥‥‥)
側に落ちていた剣を拾い上げる。半ばから折れているものだったが、彼にとってみれば事足りる。
「来い」
集団から1歩前に出た小柄な女戦士───獣王が高らかに吼える。
獅子王の咆哮。大地すらも揺るがす轟音が鳴り響き、
死闘が始まった。
男が腰を落とすのと同時に、獣王が爆発じみた跳躍で躍りかかる。
魔力で余れた、その身体に似つかわしくない巨大な爪。
風を唸らせ迫るそれを、男は紙一重でかわしてみせる。
大振りの一撃によって出来た隙。しかし男は前に出ず、更に退がる。
直後、先程まで男が立っていた大地が抉られ、粉塵が舞った。
「チッ」
渾身の一振りを外した覇王は舌打ちこそすれ、悔しがりはしない。
この相手ならば当然だと、納得すらしてしまう。
「序の剣───」
しかし彼等の攻め手が終わった訳ではない。
その逆、更に苛烈さを増し、男へと迫る。
瞬きの間に振られた神速の剣。
剣の一つの極点へと至ったその男が振るう剣技は、まさしく絶技。
何人もの目視を許さぬ、究極の剣技はしかし、
「───ッ!」
折れた剣を杖のように地面に突き立て、その勢いを利用し男の身体は空へ浮かぶ。
キンと甲高い音が響くのは外し、突き立てられた剣が砕けた証。男は踊るように宙で身を捻ると、そのまま足を振りかぶる。
しかし、流石は剣聖というべきか。外したのを認識するや否や、一瞬で後退する。
蹴りは空振りに終わり、男は地面に降り立った。いや、降り立つ間もなくすぐさま地面を転がる。
大地から火柱が上がり、大地を揺らす。
遠目では賢者が杖を前に突きだし、何やら呪文を唱えている様子がうかがえた。
「チッ」
舌打ち一つ。起き上がろうと手を地面に置くもいまいち感覚が解らない。
果たして自分が触れているのは地面か否か。
解らない。だが考える余裕は無い。見ろ。杖が輝く。彼方空より振り下ろされるは審判の一撃。
男が獣のように四つ足のまま疾駆する。後方からは耳をつんざくのほどの爆裂音。気にする余裕もない。
突如、男の身体が横に跳ねた。輝ける金色の爪。それを男は微かに目にし、
背中から大地に叩き付けられた。
「ゴ───ホッ」
肺から息が叩き出される感覚。思考の時間は一瞬。
男は徒手で大地を斬り裂いた。舞い上がる土塊が、今しがた剣を振り下ろした魔王の視界を覆う。
仕留めたつもりだった、と魔王は僅かに笑った。諦めではない、称賛からくる笑い。
フィンタン最強にして最高の戦士は、改めて認識する。
───この男はここで確実に殺さねばならぬ、と
土砂が舞う中、男は近くにあった槍を拾い上げるのと同時に振るう。
それを魔王は己の剣を振るうことで応える。ぶつかりあった時間は僅か。性能の差か、槍は容易く砕け魔王の剣は揺らぐことなく振り切られる。
しかし、一瞬出来た停滞の間。その僅かな時間で剣の軌道を読み切る。
身を捻る。大剣が耳のすぐ横を通り抜けた。槍のように突き出された掌。
それが届くことはなく、横合いから男の身体は吹き飛ばされた。
視界の端に映る緑の影。『覇者の衣』
その存在を、男は知っていた。
「ガ───ッ」
血塊が口から吐き出される。相当多い。アバラが何本か折れたか。
「ゴァアアアアアア!!!」
獣が吼えた。舞うように突き出された爪。
「───ッ!?」
だが届かない。僅かな挙動のみで爪を逸らしてみせた男は、勢いのまま迫る獣王の顔に拳を叩き込む。
舞う血渋き。呻きながら地に落ちる獣王と共に男もまた地に降り立つ。
止めを、そう思ったときには既に遅い。
「破の剣───」
睡蓮にも似たその剣さばき。14にも及ぶ斬撃は見事、男の身体を捉える。
───直撃は、ない。
「カッ!」
笑う。それでこそ、と。
「ゴブッ───」
重い一撃だった。剣聖を捌いたと思った次の瞬間には、腹部への衝撃。獣王が既に回復していた。
大地を滑るように吹き飛ばされた男の身体。踏ん張るように足に力を込める。
しかし、
「ギッ───」
無慈悲に撒き散らされた破壊の化身。『ケプラの卵』とも呼ばれる極大の炎弾。
踊るように、否、踊らされるように男の身体が宙に舞う。
そして、振り下ろされるは死の鉄槌。
極大化した覇王の拳が男の身体に叩き付けられた。
衝撃が走り、背後の大地が割れる。
(ヤベェ)
吐き出される血塊。もうどれだけの血が流れ出たのだろうか。自身の呼吸の音すら聞こえない。
それでも、彼は───
「止めだ!死神!」
獣王が飛びかかる。賢者が杖を構えた。
跳ね上げられた男の身体。そこに極大の落雷が突き刺さる。
遠目から見ても解るほどボロボロの身体のまま、彼は地面へと落下していき、
ズン、と大地を踏み締めた。
「フゥ、フゥ───」
あぁ、そうだ。ボロボロだとも。
もはや痛みすら感じない。視界だって定まらないし、自分がどんな状態にあるのかすら解らない。
彼には立つ理由がある。それが折れぬ限り、倒れることは無い。
「化け物が‥‥‥ッ!」
吐き捨てるように呟く覇王。
その言葉は焦りから来るものだった。倒せぬ焦り。
焦りが生まれてしまった。故に、起こり得たのは必然。
男の身体がぐらりと傾く。疲れから足が縺れたのか。いずれにせよ、奴の身体が崩れた。
矢のように駆け出す覇王。『衣』が巨大な爪へと容を変える。
彼がもつ全ての『衣』使って、確実に止めをさすために。
この爪はかつて龍の皮膚すら切り裂いた。故に、それは正しい。
見誤ったのサイズ。人相手には余りあるサイズ。
全てを使う必要は無かった。そう、身体を覆う量すら使って。
男の足が、力強く大地を叩く。覇王の目が大きく見開かれた。
判断は一瞬。爪の容を変え、防御に───
「ゴッ───」
強烈な後ろ回し蹴りが直撃。僅かに出来た防御膜すら貫通し、覇王の内部を破壊する。
痛みに呻く間すら無い。敵は正面にいる。
その筈なのに───
(うご、かねぇ‥‥‥)
男が剣を構える。いつ拾ったのか、それすら解らなかった。
隔離刃───男が持つ剣技。
知らなかった訳ではない。だが男が一度も使わなかった事で、意識することを怠っていた。
一秒にすら満たぬ時間の後、己に死が訪れることを予期した覇王。
しかし、そこに割って入る一つの影。
「急の剣───」
彼だけは、この状況下で冷静に場を見ていた。故に、これもまた必然の出来事。
放たれた神速の突き。男は此方に背を向けている。
場は宙。回避は不可。
(あぁ───)
男が息を吐く。
(やはり貴方は、俺の憧れだった───)
剣が折れる。驚愕に目が見開く。
それだけは、有り得ぬ結果だった。
彼にとっては、だが。
「見事───ッ!!」
男が選択したのはウラギリ。
「4995」
───成る程、自分も焦っていたのか。
斬られる直前、剣聖は己の失態に気付き、薄く笑ったのだった。
「ォォォオオオオ!!!」
雄叫びを上げ、覇王が拳を振り上げる。彼の『衣』は宙にいようと自在に容を変え、自在に動く。
しかし、依然として彼の身体は正面に向いたまま。
ならば如何にその力があろうと
彼に勝てる道理も無し。
拳よりも速く、
彼の剣が振られる。
「処断の一撃───」
放たれた必殺の一撃。剣聖が誇る『序の剣』を超えし、究極の一撃。
覇王の半身が吹き飛ばされた。
チクショウと呟きつつ、彼は笑いながら地へと落ちていったのだった。
「4996」