10 フィオナのわくわく新生活
フィオナとアロイスのゆっくりお茶を飲もうという約束は、まだ果たされてはいない。
フィオナはガタゴトと馬車に揺られていた。外にはのどかな田園風景が広がっていた。青々とした緑が眩しい。そのうち、景色にも飽きてフィオナはいつの間にか眠っていた。馬車の旅は快適だが、刺繍にも読書にも向かない。彼女は気持ちよくまどろんだ。
そして、馬車に揺られること数日、フィオナは海辺の街についた。公爵領の飛び地、海辺の街ルクレシアだ。
フィオナは白い石造りの屋敷の前に降りたった。王都にある屋敷より少しこじんまりした感じだった。もちろんキャリントン家よりずっと大きくて立派だ。
そして、屋敷はまるで南国を象徴するかのような開放的な雰囲気をまとっていた。フィオナは一目で気に入った。
敷地に入った途端、使用人揃ってのお出迎えにフィオナはすっかり恐縮してしまった。
この屋敷の執事ジェームズに案内され、マリーとアリアをともなって広い吹き抜けのエントランスをぬけ、中央階段を上る。そこかしこに光がさして中は明るい雰囲気だ。
廊下をすこし歩くと、この屋敷の主寝室と思われる両開きの扉の前についた。
「こちらが、奥様のお部屋でございます」
扉の向こうには広々した贅沢な空間があり、フィオナお気に入りの寝心地のよい天蓋付きのベッドがあった。窓辺には、涼し気な籐家具のテーブルセットが置いてある。王都の屋敷とは趣向の違う部屋に気持ちが浮き立ちつつも、頭の片隅で、やはりアロイスとはここでも別室なのだなと思った。
部屋の中に足を踏み入れると、主を歓迎するように色とりどりの花々がそこかしこに置かれていた。そして正面の大きく開いた窓からは、眼下に綺麗な街並みが広がり、その先には煌めく海が見渡せた。
窓辺のカーテンを大きく揺らし、気持ちの良い風が部屋を通り抜けた。文句なしの素敵な部屋だった。
「そしてこちらの扉ですが、お隣の旦那様の部屋とつながっております」
ジェームズが左手の壁にある扉を指し示す。どこかでみた光景だ。
「しかし、この扉は開けてはいけません。とは言っても鍵がかかっていますので開けるのは不可能でしょう。
旦那様に用事があるときは、なるべくこの部屋のドアではなく、廊下側の正面扉をノックしてくださいませ」
以前、チェスターにされたのと寸分たがわぬ説明だ。
「不公平だわ」
フィオナの唇からふとこぼれでた。
「はい?」
ジェームズが首を傾げた。
「ふつうは鍵って女性の側からかけるものだと思うの。私もうち鍵をつけようかしら」
フィオナがそう言った途端、場の空気が凍った。マリーもアリアも固まった。その時になって、ようやくフィオナは自分の失言に気づいた。彼らを困らせたかったわけではない。ただ思い付きを口にしただけだった。
「ごめんなさい!今のは、ちょっと不思議に思って言っただけなの。忘れてください!」
慌てて取り消した。使用人たちは、目に見えてホッと胸をなでおろした。
この屋敷に来ることについてはアロイスが短い時間ではあったが、直接フィオナに説明してくれた。「屋敷はまだ片付いていないので、それまで領地でのんびりしていてくださいね。景色も気候も食べ物も素晴らしいところですよ」といつもの微笑を浮かべて。
なるほど、領地については、その言葉に嘘はなかった。だがしかし、おそらく王都の屋敷はとっくに片付いているのだろう。
あれだけ堂々と言い切るのだから、詰め寄って真実を確かめようとしても、彼はかたくなになるだけだろう。
フィオナはアロイスのすすめに素直に従った。正直、王都から追いやられるのかなという気持ちは多少ある。だが、アロイスはフィオナにもキャリントン家にもとても良くしてくれている。約束を律儀に守る誠実さと隠し事をもつ不実、どうやって心を開かせよう。とりあえず複雑な夫の難しい問題は棚上げにした。
この屋敷にも十分な数の使用人がいるのに、マリーやアリアなど数人の馴染みの使用人をつけてくれた。さらにフィオナの好みに合うように部屋まで改装してくれた。そして私設騎士まで彼女の護衛の為につけてくれた。ここまでされて不満の言いようがない。
という事で海辺の街ルクレシアでフィオナは新たな快適生活を過ごすことにした。
箱は変わったが、周りの人たちは気持ちのよい人たちばかりでほとんど変わらない。
そして、ここはもうフィオナの実家ではない。父や母の不平不満を聞くこともない。そしてこんなに遠くなら、メリッサもイーデスも訪問してくることはないだろう。フィオナは、不意にとてつもない解放感に見舞われた。王妃との約束もどこかに追い払われてしまうほどに。
大きな窓から見える美しい景色に心は踊った。
これから、何をしよう。荷解きが終わったら、まずはお茶を飲もう。それから、屋敷を見てまわろう。そして庭に出るのだ。ここの庭もとても広そうで楽しみだ。高い木はあまりないようだが、リスや小鳥は来るのだろうか。
花壇にフィオナの好きな草花を植えてもいいだろうか。アロイスに聞いてみよう。彼がいいと言ってくれたら、とても嬉しい。
フィオナは南国の開放感にわくわくしはじめた。