第七話 言葉
全てが嘘に聞こえて、誰も信じられなくなる
自分さえ信じられないこんな時に
真っ直ぐな想いだけが、心に届く
それを信じても良いのだと
信じてみても傷つかないのだと気づいてくれよ
第七話 言葉
高田が家の倉庫を整理していると物陰からビニールに包まれた折れた釣竿が出てきた。埃の被り方からかなり前からあるのだろうが、いつからあるのか全く思い出せなかった。自分が釣竿を折った記憶はないし、他の誰かが折ってしまったのを隠したのだろうか。
昔から釣竿を色んな人に貸したりしてきたから折った人物の特定は出来そうにないし、今更しようとも思わないが。
昔といえば、中学生の頃だった高校生の頃だったか。少し離れた所に住む仲のいい小学生の兄弟らしき二人が借りに来たこともあった。元気で人当たりのいい兄と人見知りなのか、兄の後ろに隠れた弟。きちんと二人でお礼を言う姿が微笑ましかった。あの時貸したのももしかするとこの釣竿だったのかもしれない。
半分に折れただけなら直せたかもしれないが、ここまで砕けていたら修復は不可能だろう。しかし、高田はそれらを床に広げ破片を並べ始めた。丁寧に繋げられたそれは歪ながらもちゃんと釣竿の形を取り戻した。満足そうに出来を確認した後、作業台の置かれた壁に引っ掛けるための金具をつけ、そこに釣竿を飾る。
壊れたこれにも誰かの思い出が宿っている。例え壊れて使えなくなってもそれは変わらない事実だ。
今日は車をいじろうと思ったが、予定を変更して釣りにでもいこうかと愛車に釣り道具を運ぶ。久しぶりに遠出して海釣りにでも行こう。
四時間程釣り糸を垂らすも釣果は上がらず、椅子代わりに使っていたバケツは一度も表を向くことはなかった。
自宅に帰る途中、バイクを前にしゃがみ込む男の背中が見えた。何かあったのかと近くに車を停めて駆け寄ると、見覚えのある人物であることが分かり一瞬身体の筋肉が強張るのを感じたが、だからといってほかっておく訳にはいかないと深呼吸を一つして声をかける。
池江はあれから色々考えた。考えすぎた頭はパンク寸前で、一度頭を空にしようと愛車のバイクに跨る。長いこと走っていると、気づけば知らない場所に出た。並木道を出ると青い世界が広がった。海だ。
空と一体化した海はそれでも空より深い色で存在を主張していた。空に雲があるように、海には波が白い模様を描いていた。鳥が魚の群れを見つけて飛び回る。船がそれを目印に泳ぐ。
思わずバイクを路肩に停める。こんなところがあったのか、全く知らなかった。いや、知ろうともしなかったのかもしれない。知っていたとしても来ることはなかっただろう。どれくらい見つめていただろうか、既に太陽は頭の真上を通過していた。久しぶりに何も考えない時間を過ごした気がした。
エンジンをかけようとするが、上手くかからない。何度やってみても結果は同じだった。どうやら故障したらしい。これはレッカーを呼ばなければならないなと肩を落とした時、聞き覚えのある声が頭の上から降ってきた。
「池江くん、どうしたの?」
顔を上げれば高田が笑うのに失敗したような下手くそな笑顔で池江を見下ろしていた。その顔につられたのか池江の表情も固まって言葉もつっかえてしまう。なんとかバイクの状況を説明すると、高田は一通りバイクの様子を確認していった。それをぼんやり、慣れてるなと思いながら目で追う。
「うちでちょっと修理しちゃおっか」
「え?あ、ああ」
「じゃ、車の後ろに乗せちゃうね」
後部座席を倒してそこにバイクを乗せる。少し苦労していたが斜めにしてなんとか入った。促されるまま池江は助手席に座り車は出発した。道中、いつもは煩いくらいに喋る高田が喋らなかった事で二人の間に会話らしい会話はなかった。
気まずい空気を乗せた車はある一軒家に停まった。ちらっと見えた表札には高田ではなく、野々部となっていた。車からバイクを下ろした高田は車一台分のガレージの扉を開けるとそこへバイクを運び、池江を呼んだ。
「終わるまで適当に座って待ってて、なんなら家の中でもいいけど」
「いや、ここで見てる」
「そっか、そこら辺の椅子使って。暑かったら扇風機つけていいし」
そう言って高田は大きい工具箱を取り出し、バイクへと向き合った。普段の姿からは想像もつかないくらい真剣に点検している。
「大事に乗ってんね」
「……別に、普通だろ」
「……池江くん、さぁ」
「何?」
何か言いたいことがあるのだろう。何度も口を開いては閉じてを繰り返し、言葉にすることを躊躇っていた。言葉が発するまで池江は自分でも不思議なくらい穏やかな気持ちで待てた。いつも頭より先に言葉が出ているような男が、必死に言葉を探している。少しこちらから話しかけてみようか。
「……表札、名字違ったな」
「えっ?ああ。ここ爺ちゃん家なんだ。小さい頃親が離婚して、母さんが死んでから爺ちゃんと婆ちゃんと暮らしてるから」
「……悪い。変なこと聞いた」
「変なことじゃないよ。皆とは違うかもしれないけど、幸せだし、楽しいことばかりだから。……少し寂しいけどね」
少し会話すると、高田の方は変な緊張が解けたのか調子を取り戻していき、話している間も手を止めることはなかった。
「なぁ」
「んー?」
「ちょっと、そのまま聞いてくれるか」
自分で拒絶した人間にこんなことを言うなんてどうかしている。それでも、誰かに吐き出したい気持ちだった。高田なら、きっと聞いてくれると思った。その通り快く承諾する言葉に、池江は静かに話を始めた。こんな話、親にも叔父さんにも話したことはなかった。
「大事な、友達がいたんだ」
隣の家の一つ上の子で、俺はいつも後ろをついて回ってたまに手を引っ張って連れ回して、兄弟より兄弟のような友達だった。人懐っこいから俺以外にも沢山友達がいたのに、俺との約束を優先させてくれて。喧嘩だってしたけど、同じ数だけ仲直りして。
「大好きだったんだ」
俺より年上なのに少し小さい背も繋いでくれる手も、大きい声も優しい言葉も、全部大好きだった。
だけど、
「俺が小五の時に、死んじゃった」
小さな台風が過ぎた次の日、大人の注意を無視して二人で川に行ったんだ。下流の方は全然、穏やかだったから油断したんだ。
上流に近づくと川の流れは激しくなって怖くなった俺は帰ろうって、手を引っ張った時に、足を滑らして、川に落ちそうになった。
でも、痛いほどに手を引っ張られて一瞬何がなんだか分からなかったけど、水の飛沫と重くなった繋がれた右手に、庇われたことに気づいた。俺の代わりに友達が、川に落ちたんだ。
普通の時だったら、こんなところ落ちたって少し流されるくらいで、でも、その日は、違った。
馬鹿みたいな力で友達を飲み込もうとする川に全力で抗うけど、まだ小さい俺が勝てるわけなかった。ジリジリ自分も引きずり込まれそうになった時に、右手の重みがふわっとなくなった。
「おれのせいで、そのこは、あっくんは、しんだんだ」
震える声が、その瞬間を思い出していることを表していた。自分を抱き込むように膝を抱えて小さくなる姿は殻に篭って身動きがとれなくなってしまっているように見えた。
「今でも忘れられない」
人生で一番大声を出した日。必死に助けを呼んだ。台風の次の日だからと巡回していた大人が、泣きながら必死に叫ぶ俺を見つけて下流へ向かうと、目を閉じて川に浮かぶ冷たくなったあの子がいた。すぐに引き上げ、人工呼吸や心臓マッサージをするも、間に合わなかった。もう二度とその目は開かなかった。
「要らないのは高田達じゃない、俺なんだ」
「池江くん……」
「ごめん、重い話した」
「なんで、なんで俺に話してくれたの?」
「似てるから、かな。全力で俺に向かってくる所とか、気まずくなると黙るところとか、放っておいてくれないところとか」
自嘲するような笑みを浮かべる池江の隣に座り背中に手を当てる。じんわりと体温が移り、生きていることを感じる。
「寂しいね」
そうか、これは寂しいのか。寂しいと思っていていいのだろうか。自分のせいで一人の命が奪われたのに。
「俺は、池江くん要らなくないよ。友達になって色んなこと喋って、色んな所に行って、沢山のことをしたい」
「俺だけじゃない。森川も風見もあっくんも、池江と仲良くなりたいし、笑ってほしいと思ってるんだよ」
どうかこの言葉が届くように。想いが届くのならどれだけでも言葉を贈ろう。だって婆ちゃんが言っていたのだ。【言葉は贈り物だから、自分が贈られて嬉しい物を沢山送りなさい。どれかは必ず届くから】って。想いは言葉に変えられるのだから。どうか覚悟してほしい。これからずっと送り続けてやる。
「……ごめん」
「え?」
「この前、酷いこと言った」
あの時のことを謝っているのか。今日の池江はなんだか謝ってばかりだと苦笑して怒ってないことを伝えると少しほっとしたような顔をした。バイクを仕上げてしまおうと再び作業に取り掛かる。ギスギスしたあの雰囲気が嘘のように穏やかな空気が流れていた。
「よし、これで直ったと思うよ。また駄目になったら連絡して、うちの会社で安くしとくから」
そう言って渡されたのは団扇。表に祭りの絵が描いてあり、裏返すと【野々部自動車】という会社名と電話番号が記されていた。宣伝のために作って配っているようだ。野々部ということは高田の祖父がやっている会社なのだろう。
「あのさ池江くん」
「連絡先交換しない?携帯の」
「……いいよ」
お互いの電話番号とメールアドレスを登録する。高田の携帯にぶら下がる魚のストラップがゆらゆらと泳ぐように揺れている。今日会った時も釣りの帰りだったようであるし、本当に好きなんだということが窺える。
「今度、俺も誘ってよ。川は、無理だけど……」
照れて赤くなった顔を見られないようにそっぽを向いてしまったけれど、高田の笑うのが空気で伝わってなんだかむず痒い。忘れるわけじゃないけど、自分を許せたわけじゃないけど、これでいいのだろう。他に大切なものが出来るのを、独りにならないことを、自分以外が望んでくれたのなら、自分もそれを望んでも、いいだろう。
大きな家のダンボールだらけの部屋で、一枚の写真を見ていた。四人の男の子が映っていた。元気にピースサインをする二人と、その二人の裾をそれぞれ掴みながらぎこちない笑顔の二人と、対象的な四人だ。この四人で遊んだのはこの時の一度きりで、写真もここにある一枚だけ。
「俺じゃやっぱりお前みたいにはいかないな……なぁ、啓」
写真を本の一番最後のページに挟んでダンボールにしまう。本のタイトルは【小学生の昆虫図鑑】とインクの擦れた字で書いてある。
「ちょっと涼平くん何サボってんの?」
「悪い!懐かしいものか見つかってつい」
ひょっこりと束ねた雑誌を抱えた森川が片付けを中断していた清水を注意する。手伝ってと言われたから来たのに、呼んだ本人がやっていないなんて怒られて当然だろう。
「将貴くん、涼平いた?」
階段の下から女性の声が響いた。森川と同じく手伝いにわざわざ東京から来ていた清水の彼女だ。荷物の置く場所を聞かれたので答え、片付けられた部屋を見渡す。清水は十月から交換留学を控えていた。
卒業後は親の会社を継ぐために一般の社員として就職するため、上京することが決まっている。四年生に上がれば頻繁に東京とこちらの行き来が増えるため今のうちくらいしか引っ越しの準備が出来ないのだ。
「俺、涼平くんは会社継がないんだと思ってた」
ずっとこちらの祖父母の生家で過ごしていた清水は、親の会社を継ぐことなんて眼中にないのだと思われていた。
しかし、ずっと考えていたのだ。自分のやりたいことと、やらなければいけないことを。
親は無理に継がなくていいとはずっと言ってくれていたが、親が大事にしてきた会社を受け継ぎたいと自分が思ったのだ。色々な世界でボランティア活動をするのも国連やユニセフ等で働くこともとても魅力的だった。
しかしボランティア活動は、誰かを想う心があれば、言ってしまえば誰にだって出来る。親の想いを継ぐのは、息子の自分しか出来ないのだ。
ならばと清水は自分のやらなければいけないことを選んだのだ。
それに、同じ東京ならば恋人である彼女と今よりもっと会える機会が増えるだろう。お互い仕事に慣れて落ち着けば同棲する予定だが、近くに入れるに越したことはない。医師志望の彼女は、限界まで一人で頑張る癖があるから、傍で支えてあげたいという想いもある。
「俺、涼平くんみたいになれるかな……」
珍しくしおらしい森川に清水は昔のことを思い出した。あの頃は森川は誰のことも信じないマセた子供だった。大きくなったんだなと思った。周りの見れなかった子供が、今度は周りを見すぎて悩んでいる。本当に可愛い弟分だと同じくらいの位置にある頭をがしがしと撫でる。昔はもっと小さかったのに。
「将貴は将貴らしくいればいいよ」
「……うん」
全く、これだからここを離れるのが惜しく思えて仕方が無いのだ。
「お二人さん、いい空気を作るのは良いですけど、女一人に任せるのはいかがなものでしょうか」
先程の森川と同じようにひょっこりと彼女、泉が顔を出した。注意する言葉とは裏腹にその表情は微笑ましく思っているのが伝わる笑顔だ。森川と清水は顔を見合わせ一度笑うとそれぞれ片付けに戻っていった。
きっと全てが繋がっていく。啓によって清水の世界は広がり、清水によって森川の世界は広がった。森川も、誰かの世界を広げるのだろう。もしかしたらもうすでに広げているのかもしれない。そうやってずっと未来まで続いていけばいい。
人と出会い、別れ、世界は広がり塞がりまた広がり。形を変えて色を変えて運ばれる。想いの形が人それぞれな様に、未来も同じ形はひとつもない。自分の未来はどんな形になるのだろうか。今分かることは、それが少し怖くて、とても楽しみだということだ。