第五話 峭突
自分と他人の間には壁がある
その壁を壊すのは容易く、越えるのは難しい
山のように高く積み上げられた壁ほど脆く、容易に手を出せない
しかし、その壁の向こうには誰かを待つ人がいる
本当は、自分では越えられぬこんな壁など壊して欲しいと願っている
第五話 峭突
カーテンから漏れる光に起こされる。病院に行った時に点滴をされたからか、久しぶりに夢を見ることなくよく眠ることが出来たからなのか、昨日より身体が軽く感じる。
少しの倦怠感はあるが立ちくらむこともないし、熱が篭っているような感じもしない。
部屋から出ると隣の部屋からドタバタと音が聞こえ、思わず肩が跳ねる。ガラリと引き戸が開き慌てた顔をした@が出てきてキョロキョロと辺りを見回して池江と目が合うとへにゃりと眉を垂らして笑った。
「翔ちゃんより早く起きようと思ってたのに寝坊しちゃった……」
今日は朝ごはんは俺が作るから!と惚けている池江を残し階段を降って行った@を慌てて追いかけると、既に冷蔵庫の中を物色している。
ボウルに卵とベーコン、もやし等いるものを入れていっているのを見て、もう任せておこうと半ばヤケクソ気味に諦め洗面所に向かう。
やばいとか殻がとか焦る声は聞こえないふりをした。
洗顔と寝癖だけを直しキッチンに戻る。
テーブルの上には少し焦げた目玉焼きが鎮座していた。
戸棚からお椀を出し、そこにとろろ昆布と顆粒だし、鰹節を入れてお湯を注げば簡易的なお吸い物が出来る。冷蔵庫から常備菜の金平ごぼうを取り出し小皿に盛る。
ついでに厚揚げをオーブンで軽く焼き鰹節をかける。そうこうしている内に@も作業を終わらせ嬉しそうな顔で先程まで炒めていたものを乗せた皿を置いた。
「あっくん特製もやし炒めです!」
それにはもやしとベーコン、さつまいもが入っていた。一口食べる。胡椒で味付けされていてベーコンの塩気とさつまいもの甘さが程よくてなかなか美味しい。
もやしがシャキシャキするので恐らく後から入れたか、さつまいもをあらかじめレンジで温め熱を通していたんだろう。
懐かしい味がした。
「おいしい」
「本当!?良かったぁ……俺これくらいしか作れないんだよね」
その後は特に話すこともなく、ただ黙って食事をした。言葉のない空間ではあったが気まずい空気ではなく、穏やかな時間だった。片付けは前と同じように池江が洗い、@が拭いて慣れた手つきでしまっていく。
手元以外から水の落ちる音がして、ふと窓を見ると雨が降り始めていた。空は一色に染まっていて、これからだんだんと雨の勢いが強まるのだろう。
今日が何もない日で良かった。しかし雨が降る前に公園の掃除が出来て良かったと捉えるべきか、せっかく掃除したのに一日二日で雨が降ってしまったと捉えるべきか。
「翔ちゃんこれでおわりー?」
「ああ……それで最後」
「りょーかい!」
着信を知らせる音が鳴り、携帯の画面を見ると母の文字が出ていたので通話ボタンを押す。
どうやらあちらでは大豪雨の上雷で本当は今日帰るつもりだったが便が欠航となったらしく、帰りは早くて明日の夜となるとのことだった。一応、叔父さんにも連絡を入れるというので戸締りだけはしっかりねとだけ言って通話は終わった。
「体調、良さそうだね」
「……おかげさまで」
「昨日、悪かったな。色々、迷惑かけて」
「えぇ?迷惑なんてかかってないよ」
「あ、そう。……ありがと」
「どういたしまして!」
地面に溜まった水が歪な鏡のように空を映し出す。今日はもう止むことは無いだろう。
梅雨が過ぎてからこれ程の量の雨が降るのは久しぶりだ。
庭に植えられた萎み始めた朝顔から雨が流れ落ちる。あの朝顔は小学生の時に学校で育てていたものを母が花壇に植え替えたものだ。
朝顔というのは青か紫しかないものだと思っていたが、池江の朝顔だけは何故か白の花が咲いた。
皆と同じ種のはずなのに自分だけ違うものが咲いた事実に池江は当時泣いた。
先に朝顔を持って帰っていた姉が、そんなことで泣かないのと怒りながらも両手で池江の朝顔を抱えてくれ、泣いていた池江は手を引かれながら家に帰ったのだ。
皆と同じ色が良かったのではなく、ただ、あの子と違う色が悲しかった。それを手を繋いでくれてたあの子に言うと、自分の家から朝顔の咲いたプランターを持ってきて、色は一緒じゃないけどこれなら一緒に育つでしょと、池江の朝顔の隣に置いたのだ。
それが嬉しくて池江は更に泣いた。
「じゃあ翔ちゃん、俺帰るね」
「……外雨だけど」
「傘借りるね」
「風も、凄いけど」
「うん、これ以上酷くならないうちにね」
「……外まで送る」
玄関で自分の青い傘を@に貸し、靴を履く@の旋毛を見下ろす。どんなに視線を浴びせても靴紐に何故か苦戦している@は此方を振り向かない。結局、靴紐は上手くいかず縦結びになり歪んでいる。
「じゃあ、ゆっくり休んでね!何かあったら叔父さんのとこにいるからいつでも呼んでね!」
「は?お前、叔父さんって」
「じゃ!またね!傘ありがと!」
ピシャンと音を立てて閉められた玄関の扉を見つめる。叔父さんの家なら自分の家でも良かったのではないかと思うも、それを口にすることは出来なかった。
降り続く雨に辟易としながら、溜まった洗濯物を洗濯機へ放り込む。乾燥まで終わらせてしまおうと洗濯から乾燥を選びスタートボタンを押す。
今日はもう何もやる気が出ないなと、ソファに沈みこんだ。
やることもないのに無意味に携帯をいじる。必要な機能以外入れていないため暇を潰すようなものはなく、とりあえず天気予報を確認する。明日の明け方からは曇りを表すマークに変わっているので、夜には弱まるのだろう。そのまま池江の意識は闇に飲まれた。
誰かの声が聞こえる。小さい子供の声だ。
ぼそぼそと小さな声で、どうやら泣いているらしい。声のする方へ近づくと、その内容もはっきりと聞こえるようになった。
「どうして?」
「どうして君は、笑っているの?どうして楽しそうなの?」
閉じているのにその目からは絶え間なく涙が流れていた。
「君も、忘れてしまうの?皆と同じように。僕は、忘れられないのに?」
「僕はこんなにも苦しいのに、辛いのに、怖いのに、怒っているのに。僕を、置いていくの?」
起きた時、服が濡れる程の汗をかいていた。
いつもより速く刻む鼓動の音がやけに大きく聞こえるのを無視して風呂へ向かう。頭から思い切りシャワーを浴びる。
汗で冷えた身体が体温を取り戻しつつあるのにも関わらず、池江の身体は震えていた。発した言葉は音にならず、どうしようもなく独りなんだと思い知らされる。
ポタポタと水を滴らせたまま風呂場を出る。洗面台の鏡に映る顔が一瞬あの声の子供と重なり血の気の引いた顔をした池江を馬鹿にした気がした。
雨のせいだ。全部、全部雨のせいだ。
あの音が、あの匂いが、一人になった状況が、あの頃の記憶を鮮明に呼び起こす。雨音が聞こえないようにテレビの音を上げる。内容なんて頭に入らないけれど、あの、水の流れる音が聞こえさえしなければなんでも良かった。
サークルなんかに入らなければ、こんなことにはならなかった。あの男に会わなければこんなことにならなかった。もっと無難に自分は生きていくはずだった。
もうやめよう。人に関わるからこんなことになるんだ。先輩には悪いけど断ろう。バイトも別のところを探そうか。授業が一緒なのは仕方がないけど、ギリギリに教室に入るようにすればいい。
「あいつは、どうしよう……」
あの神出鬼没な男のことはどう避ければ良いのだろう。あの男を避ける術を池江は知らない。
あの子がいなくなってから池江はひたすら人と距離をとっていた。にっこり笑って無難な回答をしていれば大抵の事は流してこれた。どうして今になってそれが出来なくなったのか、浮かんだ答えを見ないふりをした。
夏休みが始まる前に戻るだけだ。全部無かったことにして、いつもの毎日を過ごそう。もうその時に考えればいいやと、今は考えることすら放棄した。
「一体いつまで見ないふりをする気なんだ?」
パシャパシャと足元からは水の跳ねる音が、上からはポツポツと傘に雨粒が当たる音がする中、ここにはいない誰かに向けてそう言葉を放った。
クルクルと傘を回し雨粒を弾き、でき始めた水溜まりを避けながら進む。周りに人は一人もいない。
「もうちょっと強く出るべきだったかな…」
小さな水溜まりに両足で着地するが、その音は鳴らなかった。
開いていた傘を横によけるも、彼が雨で濡れることはなかった。しかし、何故か彼の体温は雨と同じ温度をしていた。空はまだ灰色のままだ。
再び傘をさして鼻歌を歌いながら歩いていく。その歌は雨音にかき消され誰の耳にも届くことはなかった。
思い立ったが吉日だと池江は直接サークルには入らないことと、仮入部の取りやめを伝えに行こうと思い一度清水の自宅に連絡を入れ、十一時に会うことになった。
心臓のどこかが重い気がする。何かを断ることを気にするような質ではないと思っていたが、どうやら違っていたようだと、他人事のように思う。
今更人との縁が切れることなど池江にとったは取るに足らないことだったのに、この息苦しさは何だというのだろう。
あの時渡せなかった作り直したチラシを折れないようにファイルに挟んで鞄に仕舞い家を出る。
バイクで行っても駐車場がない可能性があるので歩いていくことにしたが、家を出て数分でそれを後悔することになるとは。
「池江くんじゃーん!どっか行くの?そりゃ行くんだから外にいるんだわな。俺と洋ちゃんはこれから釣りに行こうか話してたんだけど」
「釣りは、やめといたら……雨、雨が、すごかったし……」
釣りという単語を聞いた瞬間池江の表情が青ざめ、言葉もしどろもどろになりなんとか発せているような状態で、池江の様子がおかしいのは一目瞭然だった。それに気づいた高田と風見は慌てて池江に駆け寄る。
「池江!?おいっどうした!?」
差し出された風見の手を力ない池江の手が振り払う。
「おれは、大丈夫……」
「大丈夫って……全然大丈夫じゃねぇだろ」
「顔真っ青だよ、目だって焦点があってないし」
「翔ちゃん……!?」
驚いた顔をした@がこちらに駆け寄ろうとしているのが目に入った瞬間、それまで弱り切った様子の池江が大きな声を出した。
「来るな!!」
「池江……?」
「頼むから、来ないでくれよ……」
「翔ちゃん……」
よろよろとふらつく足になんとか力を入れて@を睨む池江の目に気圧され高田と風見は動くことが出来ないでいた。
だが@はそんなもの知ったことかと池江との距離を縮めていく。池江の足は無意識に後ずさっていたが、それを咎めるかのように@は池江の腕を掴んだ。
掴まれた箇所がひんやりとする感覚に池江の喉がヒュッと音を立てて息を呑んだ。
「やめろって、言ってんだろ!!放っておけよ、構うなよ俺なんか、」
腕を勢いよく振り払い、力を込めて叫ぶ。そうでもしなければ、振り切れない。張りぼての自分が剥がれて弱い自分が出てくる前に、離れなければ。
そのためならば、他人だって自分だって傷つけてやる。
「ちょっと落ち着きなって池江くん」
見ていられなくなったのか高田が声をかけるも、その言葉は池江には届かなかった。
「うざいんだよ!!お前ら全員さぁ!!」
「勝手なことばっかして、知ったようなことばっか言って、人のこと振り回してさぁ!!煩いんだよ!!鬱陶しいんだよ!!」
「俺にとってお前らなんて少しも価値がないんだよ!!俺はお前らなんかいらないんだよ!!二度と俺に構うな!!」
振り返らずに走り去る背中を三人は見つめることしか出来なかった。
池江の放った言葉は褒められたものではない。人を傷つけようとして出た言葉だ。
しかし、その言葉を向けられてもどうしても酷い奴だなんて責められはしなかった。何故ならここにいる誰よりも池江が一番傷ついた顔をしていたから。
今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「俺、池江くん追いかけるわ」
そう言って高田が池江の去った後を追う。追いつくことは難しいかもしれないが、放っておくことは出来なかった。
「あっくん大丈夫?」
「え?」
「泣きそうだよ」
@の目には水の膜が張られゆらゆらと揺れて、今にも零れ落ちそうになっていた。手で擦れば水滴がその手に映った。
「俺が言うのもあれだけど、あんま気にすんなよ。池江は、その、ちょっと気が立ってただけだって。あんなん言うやつじゃないし」
「うん、わかってる。違うんだよ」
泣いたのはそんな理由じゃない。
きっとあの言葉は自分に向けての言葉だ。
ずっと、ずっとそうやって、人を遠ざけて自分を傷つけてきたんだと思ったら、悲しくて、悔しくて。
「俺が、ずっと翔ちゃんを傷つけてるんだ」
あの冷たい夏の日からずっと。
気がつけばもう少しで清水の家が見える所まで来ていた。
それほど遠い距離を走ったわけではないのに息は乱れていた。整えようと深く息を吸い込むと、少し湿ったような土と草の匂いが肺を満たした。
生暖かい風がいっそ肺を焼ききってくれたら、この苦しさもなくなるのに。
手を一度強く握り震えを抑え込み呼び鈴を押す。
見上げればここらでは一番大きい家と呼ぶより屋敷といった方が正しいような紫がかった青い屋根が特徴の一軒家が視界に広がる。こんな家を建てるほどの金持ちが何故こんな田舎にいるのか。
しばらくしてから門が自動で開き、少し離れた玄関から何故か森川が出てきた。
「いらっしゃい。涼平くん待ってるよ」
まるで自分の家のように中へ通された。中も外観を裏切らずシンプルだが高級そうな絵画や花瓶が華美にならない程度に置いてあり上品な空間を醸し出している。
「涼平くんぽくなくて驚いた?」
「……少し」
長い廊下を歩き階段を上ってすぐ右手に見える清水の自室の前に着くとうっすらと話し声が聞こえた。
「誰か来てる?」
「いや、多分電話だと思う」
小さめにノックをすると返事があり、森川がドアを開けて入るのに続いて恐る恐る足を踏み入れる。至るところに物が散らばっており、床に置かれたそれらを踏まないように気をつけて歩く。
森川が適当に片付けて二人分の座るスペースを確保してくれたので、清水の電話が終わるまでそこで待つことになった。
「今日、俺もいて大丈夫な話?」
気まずい雰囲気の中その辺に落ちていたペンを回しながら森川が池江に尋ねる。
「べつに、大した話じゃないし」
そう、なら良かった。と回していたペンを置き携帯をいじりだす。まだ清水の電話は終わらないようなので失礼にならない程度に部屋を見回す。
びっしりと文字の書かれたカレンダーや紙が乱雑に貼られたコルクボード、年季の入った時計に写真立て、そして本棚。
様々な国の言語だったり地理だったり歴史の本だったりが本棚を埋め尽くす中、一冊だけ異彩を放つ本があった。
「昆虫図鑑……?」
虫が好きなら他にももっと虫関係のものがありそうなものだが、ざっと見た限りはこの一冊だけだ。
その図鑑を池江はどこかで見たような覚えがある気がしたが、清水に話しかけられたので図鑑なんて大体のものは同じだろうと自己完結して意識の外へと追い出した。
「じゃ、話聞こうか。どうした?」
「先にこれ渡しときます」
そう言って鞄からチラシを出し清水に手渡す。渡されたそれを一瞥すると池江に視線を移し話の続きを促す。清水の手元を覗き込むように森川もチラシに目を通す。
「俺、ボランティアサークルはやりません」
清水と森川はその言葉に一度驚き池江の表情を伺うが、俯いており正確には読み取れない。
「そうか、悪かったな。付き合わせて」
「……すいません」
「なんで!?」
静かな三人の空間にもう一人の声が響いた。
「お前こそ、なんでいるんだよ。高田」
高田は追いかける時に、森川に池江を見かけたら教えてくれと連絡していた。先程森川が携帯を触っていたのはその連絡をしていたのだろう。
「なんでやめるんだよ?涼平先輩もなんでそんなすんなり認めちゃうわけ!?」
「お前には関係ない」
「関係ないって……友達だろ!?関係なくないよ!!さっきも様子がおかしかったし」
その言葉を池江は鼻で笑った。その様子は清水や森川から見てもやはり違和感があった。
「おめでたい奴だな本当に。いつ俺が友達になった?勘違いも大概にしとけよ。様子がおかしい?俺の事よく知りもしないくせに?」
言葉に詰まる高田を睨みつけ鞄を手に取りその横を通り去る池江を、今度は追いかけることは出来なかった。
「知らないって……池江くんが教えてくれないんじゃん……」
落ち込む高田から視線を移し森川は清水に目を向ける。
「本当にいいの?」
「やめたいなら止めないよ」
「あんなに無理矢理入れたのに?」
清水は少しだけ口を尖らせ、いつもでは考えられないほど小さな声で俺だって続けてほしいけどさ……と言い訳をするが、森川は聞く気がないらしく高田を慰めている。
「昔の将貴くらい壁がある」
「そう?俺よりかは簡単に壊せると思うけど?」
「池江は根が素直で良い子ちゃんだから」
これからどうやってあの意地っ張りなお子様を攻略しようかと頭の中で考える。とりあえず今日ここに来るまでに何があったのかを高田から聞き出す必要があるなと森川は不謹慎かもしれないが少しこれからを楽しみに思った。