第三話 揺れる青
大切なものと分からなければなくした時に傷つくことはない
目を閉じて見ないふりをする
しかし見たくないと目を背けては、何もわからない
なくした頃には手にはもう何もない
目を開けろ、大切なものを取りこぼさないように
第三話 揺れる青
昨日、最後の試験を終えて他の学科より一日早い夏休みに入った。
朝の九時に遅めの朝食をとっていると呼び鈴がなる。平日のこの時間に来る人等何かの勧誘だろうと、一旦手を止めて玄関へ向かうがまた呼び鈴がなる。しかも何故かリズムを刻んでいる。
叔父さんがふざけているのかと少しイラつく。さっさと出てやめてもらおうと扉を開けた先にいたのは@だった。いきなり開いた扉に驚いたのか呼び鈴を押した手をそのままに目を丸くしたのも一瞬、すぐにこちらを見て破顔した。
「来ちゃった!」
「お帰りください」
すぐに扉を閉めようとするも手で抑えられ、しかも足を玄関の中へ滑り込まされた。無駄に力が強く全力で抵抗してもビクともしない。
「あーそびっましょー!」
「間に合ってます……!」
「そんな頑なに籠るなよぉ。翔ちゃんカタツムリかよ。目玉ほじくるぞ」
「うるさい。翔ちゃんって二度と呼ぶな」
目玉ほじくるってそれカタツムリじゃなくてまっくろくろすけじゃないのか。一瞬の力が緩んだ隙をついて玄関の中へ入られる。
「あ!パンの匂いだ!お邪魔しまぁす!」
そのまま居間とへ直行され、家主の池江が後を追うようについて行く。テーブルの上には食べかけのトーストとスクランブルエッグ、少し冷めて湯気の出ていないインスタントのスープがある。その向かいの席に@が座った。
「……なにしてんの?」
「俺も食べる!翔ちゃん作って!」
失礼ここに極まれり。
何故その思考に至ったのか、どうしたら人様の家に勝手に入ってその家の家主に飯の催促が出来るのか。
そしてなぜイヤイヤ言いながらも素直に作ってあげているのか。最近こんな流されることが多いなと思い、トーストとスクランブルエッグを乗せた皿を音を立て飛び散らない程度に乱雑に置いた。
「わーい!ありがとう!いただきます」
「うまーい!翔ちゃん上手じゃん!いつからこんな料理作れるようになったんだよー」
「お前は俺の親戚か何かか?別に普通だろこんくらい」
自分も席に着き食事を再開する。食べる前にはしっかり手を合わせ、にこにこと笑いながら美味しそうに食べる@を横目でチラリと見て視線を下に落とす。
ただ卵を焼いただけで大袈裟な反応をする男だと呆れるが、その表情は少し緩んでいるような気がした。
「ごちそーさま!」
二人とも食べ終わり片付けをする。食べる前とは違い片付けは手伝ってくれるらしく池江が洗った皿を拭いていってくれる。無意識なのかご機嫌に鼻歌を歌っている。
「懐かしいな、その曲」
「え?ああ、結構前になるんだっけ」
十年ほど前に流行った曲だ。名前は忘れたが、同じ年代なら一度は見たであろうアニメの主題歌だった。学校へ行けば皆が話していた。最終回を迎えてからは代わりに他の話題が上がる。気づけば誰もが忘れていた。
それでも何故か池江はずっと忘れられなかったし、今もずっと好きでいる。
「よしっ!これで終わり!」
手元を見ると何もなくなった流しを水が流れ続けていることに気付き、慌てて水を止める。
@は既に拭き終わった皿を手際よく棚へ戻していた。もう終わりそうなのでそれは@に任せ、一度部屋へ戻る。
いい天気なので今日は山の方にでもバイクを走らせようかと携帯とウォレットチェーンを付けた財布をポケットにしまい最低限の物だけ持って居間へ戻る。寛いでいる@を立たせ玄関に置いてある黒のグローブと青色のヘルメットを持ち家を出て@が出たことを確認し鍵をかける。
「なになに?お出かけ?」
「お前は帰れよ」
「えー?いいじゃん!俺も行きたーい!」
「待て、お前なんでヘルメット持ってんだ?」
@の手には黒ベースにオレンジ色のラインの入った池江のヘルメットと同じフリップアップのヘルメットが抱えられていた。勘違いでなければあのヘルメットは池江の姉が昔使っていたやつのはずだ。
「玄関にあったから!持ってきちゃった!」
結局、押し切られるようにして@がバイクの後ろに乗り、二人乗りをして今は山を登っている。いつもより重いからか少しスピードが落ちるが、それでも叔父さんを乗せた時よりは全然軽い。
山に入って十分程するとハイキングやサイクリングをする人のためにベンチが二つと自販機が置いてあるだけの簡易休憩所のような場所が見えてくる。
そこから更にもう十分程進むと頂上までとはいかないがなかなか見晴らしの良い開けた場所に着く。
そこから続く車やバイクで通れないような道を進むと渓谷があり、この渓谷の滝から流れる水が麓の川に繋がっている。オイカワやモツゴ、時々鮎等が釣れるためたまに釣りに来る人もいる。
一台停まっている白い車は多分釣りをしに来た人なのだろう。平日の朝から来るのだから持ち主は公務員ではないことは確かだ。
先に降りた@はすごいすごいとはしゃぎながらこの高台から見える景色を眺めている。
「翔ちゃんの家あったよ!あの畑の向こう!」
指さされた場所をよく見ると池江の家から畑を挟んだ一つ隣を指さしていた。この辺りの家は造りがよく似ているから間違うのも無理はないが、池江家とは違い隣の家にはイチョウの木が植わっている。
「違ぇよ、手前だよ」
「あれ?え、じゃあ誰さん家?」
「誰でも良いだろ」
「翔ちゃんが教えてくれないから後でお邪魔してこよ」
「迷惑だからやめろ」
さぁ教えろと言わんばかりに池江の顔をキラキラとした笑顔で見続ける。ここで教えなければ本当に突撃しに行く行動力があるのは自分で実感済みだ。それだけはなんとしても阻止しなければならない。
「……萩森だよ」
「萩森さん家!珍しい名字だね」
全国探せば他にもいそうな名字だがこの辺りではこの一軒だけだ。それももう後数十年だけの話だろう。長男は既に家を出て上京して、あの家には結婚を来年に控えた娘が一人いるだけになってしまった。
「萩森さん家の子とはお友達なの?」
「……いないよ、もう」
「え?」
何か聞きたそうな@に気づかないふりをしてヘルメットを押し付けた。自分もヘルメットを被りバイクのエンジンを入れる。ブォンというエンジン音に遮られ池江の耳には@の言葉は届かなかった。
「翔ちゃんはばかだなぁ……」
@が後ろに乗ったのを確認し、更に山を登る。どうやら当初の予定通り山を一周するらしい。この時期に二人乗りなど暑くてたまらないのに、後ろに乗る@が自分より冷たいせいか暑さを感じることはなかった。
@は引っ付いていて暑くはないのだろうか。
頂上を過ぎ、山の中腹辺りに降りてくるとポツポツと雨が降り出した。空は明るいので軽い通り雨なのだろう。
少しでも濡れないように速度を上げて山を降り、一番近くの喫茶店で雨宿りがてら昼食をとることにした。遅めの朝食に早めの昼食だが朝食が少なかったからかしっかりしたランチセットでも食べられそうだ。
「お前、決めた?」
「え?俺はお金持ってないしいいよ」
向かい合わせに座って何が楽しいのかにこにことこちらを見ている。最初から頼む気などなかったのか池江がメニューを見ている間も一度ももう一つあるメニューを手に取りもしないで店内を見渡していた。呼び鈴を鳴らすとすぐに店員がやってきた。
「ランチセットとドリンクバー二つずつで」
店員は注文が間違っていないことを確認するとドリンクバーの場所を教えてから静かに下がった。ぽかんとしている@に声をかけてドリンクバーへと向かうと@は慌てたように席を立つ。その際にゴツンとぶつけた場所を痛そうに押さえながら後をついてきた。
「ねぇ、俺本当に持ってないよ?」
「食べない奴の前で俺に一人で飯食えって?」
コーヒーを注ぎ終わった池江はまだドリンクを選んでいない@にコップを渡して先に席に戻っていった。
受け取ったコップを見て不器用な分かりやすい優しさに笑いジュースを選んで池江の待つ席に戻る。にやにやとした顔はどうやら抑えられそうにない。
@のその顔を見た池江は一瞬嫌そうな顔をして目を逸らした。
その先に見えたのは変な色をした液体の入った@の手に持たれたコップだった。
「お前それ何入れた?」
「ぶどうとりんごとオレンジとピーチでフルーツジュースにしてみました!」
あの変な色はオレンジとぶどうの色が混ざりあったからかと納得するが、果たして美味しいのだろうか。フルーツで揃えているからそこまで不味くはならないだろうが、やはり別々で飲んだ方がおいしいのでは。
その前にいい歳してドリンクを混ぜるのは如何なものなのか。一口飲んだ@は一瞬不思議そうな顔をして首を傾げてもう一口飲んでうんうんと唸っている。
「ちょっと翔ちゃんも飲んでみ?」
「はぁ?いらねぇよ」
「いいからいいから、ね?」
強引に手にしていたコーヒーを取られ@の特製フルーツジュースを持たされる。
匂いは特に変な匂いはしない、むしろフルーツのいい匂いだ。仕方なしに一口飲む。口の中を色々なフルーツの味が交互にくる。混ざった味ではなく、確実にオレンジとぶどうとりんごと最後に申し訳程度にピーチの味がする。
恐らく池江の顔はこれを飲んだ時の@と同じ表情をしているだろう。
「……不味くはない」
「ね!美味しい!ってわけじゃないけど不味い!って感じもしないよね?」
@に返すとコーヒーも返され口直しに一気に流し込む。もう一度入れ直しに行こうと席を立ったと同時にドアが開き新しい客が入ってきた音がした。どうやら昼時とあって満席でどれくらい待つのか聞かれているらしい。
ドリンクバーに行くまでにドアの近くを通った時、その客と目があった。
「池江くんじゃん!店員さん、友達いたから相席でいいよ!」
「は?」
背を押され手に持つ空のカップを見たからかドリンクバーへと連れていかれ、その場で先程の店員に自分のドリンクバーを頼んでカフェオレを注ぐ。池江がコーヒーに砂糖を入れていると隣から目線を感じた。
「池江くんめっちゃ砂糖入れんね?」
池江の手元にはスティックシュガーの殻が三つ置かれており、四本目を入れている途中だった。マドラーで混ぜるとカップからは底に溜まった溶けきらなかった砂糖がザリザリと音を立てた。
本場イタリアではエスプレッソは飲み終わった後に底に残った砂糖を食べるというがあれはエスプレッソただから許される行為だろう。普通のコーヒーに溢れんばかりの砂糖を入れたそれは最早砂糖味のコーヒー、もしくはコーヒー味の砂糖水なのではないのか。
この喫茶店のコーヒーはそこそこ良い豆を使っているのでファミレスよりは苦くはないが、そこまで砂糖を入れるくらいならばミルクも入れるか、カフェオレを入れれば良いだろう。
「あれ、ミルクは入れないの?」
「色が変わるから入れない」
混ぜ終わったマドラーとスティックシュガーの殻をゴミ箱に捨て、席に戻るとランチセットのサラダとスープが置かれていた。
初対面の人と隣に座らせることに抵抗を感じたのか@に席を詰めるように言って隣に池江が座り、向かいの席を空けてそちらに座るように言うと@をジロジロ見つつ大人しく座った。
「翔ちゃんお友達?」
「ではない」
「えっ?嘘でしょ」
友達ではないと言われたショックなのか池江の方に顔をバッと向けた。顔に吃驚ですと書いてあるように感じる程顔に出ている。
「俺らにはちゃん付けすんなって言ったのに!?はじめまして!池江くんと同じサークルの高田剛士です!二十五歳彼女募集してます!」
「@です。あっくんって呼んでね。」
「おっけー!あっくん!よろしく。君もすごいサラリとタメ語だけど全然良いよ。むしろ嫌いじゃないよその距離の詰め方」
コミュニケーション能力がお互い高いせいかすぐに意気投合したようだ。テンションが高めな二人に挟まれた池江は我関せずとサラダを口に入れた。
自己紹介が終わったところで高田が店員を呼びカレーセットを頼んだ。その時なんとなくカレー好きそうな顔をしてるもんなと納得してしまったのは秘密にしておこうとコーンスープを飲んで誤魔化す。カリカリのクルトンが数個乗っているコーンスープはコーンの味は少し薄いがクリーミーでなかなか美味しい。
多分じゃがいもか何かが一緒になっているのだろう。玉ねぎのみじん切りも入っていて既製品やレトルトにはない美味しさだ。
@特製のフルーツジュース(仮)についてはしゃいでいた@と高田は今はボランティアについての話で盛り上がっているようでどんなことをするのか、どんなことをしてきたのか高田が説明をして、それの一つ一つに相槌を打ったり詳しく聞いたりしている。
注文の品が全て揃っても食べている分先程より会話のペースがゆっくりになるだけで二人の会話は途切れることはない。ランチセットのオムライスとカレーを一口ずつ交換して食べているのを見るとどこの女子高生だとつっこみたくなる。
カレーが辛口だったのか@が急いで水を流し込み、口直しと言わんばかりにオムライスを頬張った。
あまりに多く入れすぎたため頬袋ができてしまっている上に口の端にデミグラスソースが付いている。紙ナプキンを渡して拭き取るように言うと@がお礼を言おうとするも口に詰めすぎたせいで喋れずにとりあえず身振り手振りで感謝を伝える。
ボリュームのあるオムライスの後にデザートはきついなと思ったが、デザートのオレンジのゼリーは甘さが控えめで口に残ったデミグラスソースのこってりさをサッパリとさせてくれつるりと食べることが出来た。
食事を終えた三人は会計に向かうが相席のお礼と言って遠慮する二人を押し切り三人分、二千百円を剛士が払った。二人がお礼を言うとむしろこっちこそと相席してくれたお礼を言われる。
「あ、あっくんボラ部興味あるなら明日さ来なよ」
「え?いいの?」
「大学のサークルって言ってもボランティアだからね、会費もないし誰でも参加して大丈夫なんだよ」
時間があれば是非来てよと言い残して見たことのある白い車に乗り込み去っていった。ついでに貰ったボラ部のチラシを興味津々にキラキラとした目で見ている。
どこにでもある、なんなら普通のチラシよりも出来の悪いものを何故そんな顔で見れるのか。
「翔ちゃんも行くんでしょ?」
「まぁ……一応」
「んふふ、楽しみだね?」
「……変な笑い方してんなよ」
チラシを大切そうにポケットにしまい池江の後ろに跨る。
「頑張ろうね」
たかが公園の清掃に頑張るもないだろうとその言葉に返事をすることはなく、雨の上がった道を走った。
雨を吸ったアスファルトから香る匂いも、湿気を帯びた風が肌にまとわりつくこの感じも少し鬱陶しいが不思議と嫌いではない。天気雨は普通の雨天より虹が出やすいらしいが生憎今日は出ていないようで少し残念だ。
そんなことを思う傍らで久しぶりに雨上がりに虹を探していることに気づく。
陽の光が眩しくて視線を戻す池江は空を見上げる@には気づかない。
空を覆う広い青を映していた@の瞳が波打つように揺れてみえた。