第二話 @という男
立ち止まったっていい。
自分を守るために殻に籠ったっていい。
いつかまた立ち上がるのなら、それでいい。
ゆっくり進もう。
僕らの生きた跡を残していこう。
第二話 @という男
強くなった日射しがじわじわと肌を焼く。
梅雨も終わり全体的に空気が湿気を帯びていて肌にまとわりついて少し鬱陶しい。紫陽花も見頃を過ぎ、色とりどりの花は身を潜め青い葉が存在を主張し始めた。
夏休みまであと三日。提出の期限と定められたのは新学期までだったが、池江はすでに新しく作ったチラシを持ってきていた。
写真はそのままでサークル名、活動場所、責任者の名前、連絡先を記しただけの簡単な造りだ。しかし、前のものと比べればチラシとして完成されているだろう。
清水からのあの無茶振りな要望は無視をした。
今日は二限まで試験があり、昼に一度ボランティアサークルへと顔を出すことになっている。
試験を終えると昼まで少し時間がある。図書館に行くほどの時間はないのを確認し、ギリギリまで教室で時間を潰そうと読みかけの本を手に取り開こうとした時、肩を叩かれた。それに振り向くと右頬に何か刺さった。人の指だ。
指の先を辿って顔を見るなり、池江は顔を歪めた。
「引っかかっちゃったね!最近皆これ避けちゃうからさぁ、ちょっと新鮮!どう?びっくりした?やられたー!って感じ?俺と一緒に部室行く?行っちゃう?そんな感じ?」
「高田さんお一人でどうぞ」
そう言って読書を再開しようとするも手は肩に置かれたままで、何故かもう片方にも手を置かれ肩を揉まれる。
「あの、触んないでくれない?」
「うーん、池江くんめちゃくちゃ肩凝ってるよ。猫背だから?しかもなで肩気味だもんね。ちゃんと背筋良くしとかないとせっかく身長高いんだから、もったいないじゃん」
「あんたには関係ないだろ、触んな」
肩に置かれた手を振り払い、本を鞄にしまう。ここではどうも静かに読書などできそうもない。先に部室に行ってもうるさいのはいるだろう、なら食堂でも行こうかと席を立つ。
「あ、もう部室行く?行きます?」
「ついてくるな。寄るな。触るな」
池江に続くように高田も教室を出る。結局高田が隣でついてくるので巻くことは不可能だろうと少し早いが大人しく食堂ではなく部室へと足を運ぶことにする。
「池江くんっていい人だよね」
「はぁ?いきなり何?今の流れで言う?」
いい人、というのは散々適当にあしらった上に、手まで振りほどいた人間にかける言葉ではないだろう。どうしてそうなったのか自分とは頭の作りが違うのか全く想像もつかないと自然と眉間に皺がよる。
「ウザイとか気持ち悪いとかそういう言葉は言わないじゃん?俺ってよく喋るし絡みも激しいししつこいからシカトされたりちょくちょくそういうの言われんだよね」
「まぁ俺も悪いし相手も本気で言ってないにしろ、ちょーっとは傷つくんだよね。そういうのってさ」
そんな言葉に傷つくくらいならば言動や行動を控えれば良いのにと思えど、それが高田の個性であるのだ。誰かの言葉一つで変わることなど難しいだろう。
それが人を傷つける言葉なら尚更だ。汚い言葉は誰かを傷つけはするが救うことはないのだから。
「別に、俺だけじゃないだろ、あんただって……」
「えぇ?俺?」
「初対面から態度悪いのに、なんも言ってこないだろ」
「いやぁ、だって池江くんのはなんていうの?野良猫に威嚇されてるっていうか?怪我した保護犬に吠えられてるっていうか?」
この言葉の多さが、人にウザイと言われる原因なのだろうが、池江は不思議とそういう感情は一切浮かばなかった。
確かにこの声量で沢山喋られるのはうるさいが、きっとそれは自分の思ったことを文字通り全て伝えようと言葉を尽くそうとしているからなのだろう。
そう考えると高田という男は誰に対しても馬鹿なくらい真っ直ぐに接しているように思う。そう接されると池江はたとえ構われるのが鬱陶しいと感じてもどうしても言葉には出来ない。
多少なりとも悪意があれば躱すことなど容易いというのに、相手が一切の悪意のない好意でくると上手くあしらうことが出来なくなるのだ。これが池江がお人好しと言われる所以なのだろう。
「今だって結局俺の相手してくれてるしね」
それは、無視をする理由も、罵倒する理由もないからであって、特に高田に対して気を使っているわけでも、ましてやいい人ぶっているわけでもない。
ただそう、普通にしているだけだ。それをいい人だと言うのなら、高田の方こそ余程人が良いのだ。
「別に、話しかけられてるから返してるだけだろ……」
「それがいいんだよね、池江くんの良いところ」
「……傷つくくらいなら、話しかけないとか多少控えるとかすればいいだろ」
「あ、照れた?話戻したね?」
「照れてない」
流石というか歳上なだけあって池江のそっけなさにも柔軟に対応してくる。もしかしたら歳上とか関係なくそういう性格なのかもしれない。
「いやでもやっぱり俺話すの好きだしさ、そう言われても嫌いじゃないのよ。だから話すのやめたりとか出来ないのよね。まぁ、俺がそいつから嫌われてるとかなら話しかけるの遠慮しとくけどさ。」
「それにうるさいのが俺のアイデンティティっていうの?静かなのもいいけど騒がしいのももっといいよねって。ボラ部とか本当にいいサークルだよ」
「どさくさに紛れて勧誘すんのやめて」
「バレた!いやでも、本入部のことちらっとでいいから考えといてよ。マジで楽しいからさ」
「着いたよ、部室」
そう言って会話を逸らした。
これ以上続けられたら絆されてしまいそうで、扉を開ける手に少し力が入った。中にはすでに数人の部員が揃っていた。風見は池江達を見つけるなり寄ってきたので、高田を風見に押し付けて空いてる席に座り腕を枕にして顔を伏せる。
全員が揃い、公園の清掃の予定を決める。今回参加するのは清水、池江、森川、風見、高田の他に三名の合計八人だ。池江はゴミ拾いグループに分けられた。
清水と森川、そして池江以外はゴミ拾いに加わる前に遊具の掃除をする。初めて参加させるメンバーへの気遣いなのだろうか。
遊具といっても滑り台と鉄棒、ブランコにベンチだけなので他の面々もすぐにゴミ拾いへと合流するだろう。その後もすらすらと話は進み、公園の時計前に十時集合と決まり、解散になる。
池江はどうしてか清水にチラシを渡すことが出来なかった。
一度家に帰ることなくバイトに向かうと先に着いていた風見がエプロンを付けているところだった。サークルに仮入部をした日からよく話しかけられるようになり、当たり障りの会話をするようになった。
風見は人と集まると騒がしいが、一体一でいると割と大人しい。兄弟が多いと言っていたし、人に合わせるのが得意なタイプなのだろう。
七時に閉店し家の方向が違うのでそこで風見とは別れる。走って帰る姿を見てあれだけ働いたのに元気なものだと感心し自分も帰る。
ポケットに手を突っ込もうとした時、カサっと音を立てて四つ折りにされたメモ用紙が落ちて少し開いた。
今日のとったメモをポケットに入れたのをすっかり忘れていたなと拾おうとするも、先に他の手に拾われる。
「あ、すいません……」
返してもらおうと手を差し出すも拾ってくれた人は一向に渡さず、広げ始めた。その行動に驚き先程までは全く見ていなかった相手の顔を見る。
その男の顔を見た時に身体が、例えるなら冷たい水にふれたように一気に冷えたように感じた。だがそれもほんの一瞬で、次に感じたのは既視感。
どこかで見たことがあるような、なんだか懐かしいような気持ちが腹の奥から湧いてきた。
「見ちゃってごめんね。ちょっと開いてたから気になっちゃって」
相手に声をかけられやっと我に返る。
「別に、大した事は書いてないので……」
メモを返してもらい再びポケットに入れる。早く離れなければと、お礼を言い少し頭をさげ男に背を向ける。最後に見た男はにこやかに笑っていた。
その顔が、あいつによく似ていてバクバクと心臓が嫌な音を立てていた。
今日は最悪だ、最悪の日だ。どうしてこうも上手く行かないんだ。
玄関を開ける時に力が入りバンッと大きな音が鳴る。その音を聞いて遊びに来ていた近所に住む池江の叔父、浩志が何事だと居間から出てきた。
何故か白いフリルのエプロンを付けて。手にはミトンの鍋つかみをはめていた。
「どうしたー!?何があった!?変質者か!?」
「叔父さんが今一番変質者だよ……!」
その奇妙な格好のおかげで、いつもの調子に戻れた気がした。居間に入ると台所から香ばしい匂いが流れてきた。どうやら本当に何か作っていたらしい。それにしてもそのエプロンはつけなければならなかったのだろうか。
「叔父さん、今日は頑張ってキッシュ焼いちゃった。キッシュ。翔はキッシュ好きか?」
「食べたことないから知らない」
「お!じゃあ初キッシュだな。きのこたっぷり入れといたから美味いぞぉ!」
帰ってきてから家で叔父以外に会わない。姉は上京し、父はつい先日から大阪に出張しているのでいないのは分かるが、母は何処へ行ったのだろうか。面白い番組のやっていないテレビを消し、夕飯の支度を手伝う。
「母さんは?」
「前から言ってたろ。笹木さんと山野さんと韓国旅行って」
言われてみればそうだったかもしれない。
なら一週間は帰ってこないのか、まさか今日からだとは思っていなかった。だから叔父さんが台所に立っていたのかと納得し、焼き上がったキッシュを取り出しテーブルの上へ運ぶ。
叔父は新たに料理を作っていた。箸とコップを並べ、冷蔵庫から自家製の麦茶と先に作ってあった大根サラダを取り出す。キッシュがあるのだから米はいらないかと一度手に取った茶碗を元へ戻す。
先に席につき麦茶をコップに注いでいると、二つの皿を持った叔父も池江の向かいの席に座る。目の前に置かれた皿には美味しそうに焼かれた豚バラ肉のしょうが焼きが乗っていた。
「これは、普通ご飯のおかずじゃない?」
非常に白いご飯と合いそうな食欲をそそる匂いをしている。申し訳ないがキッシュより白いご飯が食べたい。とりあえずキッシュは一応一切れだけ食べてご飯を盛ろうと決めて叔父が切り分けてくれたキッシュにフォークを刺す。食べたことない味だが悪くない、色々なきのこの食感が少し楽しい。
しかし、夕飯で食べるような味ではない気がする。残ったら明日の昼ごはんにでもしよう。
「どうだ?初キッシュ」
「美味いよ」
「いやぁ良かった。初めて作ったけど大成功だな!」
「初めてだったんだ……」
失敗していたらどうする気だったのか。いや、失敗していた時のためのしょうが焼きなのか。そうなのか。ご飯を茶碗に軽く盛り、しょうが焼きに手をつける。甘辛いタレが空いた腹にガツンとくる。すり下ろしたニンニクと生姜の風味が良く聞いていてご飯が進む味だ。
「で?何かあったのか?」
食事の片付けも終わり食後のお茶を飲んでいた叔父がテレビのチャンネルを変えながら聞く。流石に忘れてはくれないらしい。あれだけ音を立てて焦燥した顔をして帰ってくれば誰でも聞くだろう。
「……大丈夫。ちょっと、疲れただけ」
「そうか……話ならいつでも聞くからな」
「じゃあ、聞いてもいい?」
「ああ。なんでもいいぞ!」
「いつまでそのエプロンつけてんの?てかどこで買った?」
フリルがついていることは一先ず置いておいて、料理している時は百歩譲ってつけてるのはいいとしよう。
ご飯を食べるときも、その後に一服する時までもつけている必要は果たしてあるのだろうか。それに家にこんなエプロンはなかったはずだ。母のはチェック柄のものだし、フリルは姉の趣味ではないから残っていた姉のでもないだろう。まさかあれをわざわざ買ったのか。
「しっくりきすぎて外すのわすれてたなぁ。これなぁ、衣替えしてたらでてきてな昔大学の学祭でクレープ屋で売り子やった時のなんだよ」
似合うだろ、と言われてもフリルエプロンは齢五十を過ぎた世間一般ではおっさんと言われる男が着るようなものではないだろう。
学生時代はギリギリでセーフだったのが今は余裕でアウトに変わっただけだ。
汚れると目立つし、一枚しかない思い出の品だから明日からはいつものを持ってくると言われ安心した。一週間もあのエプロンを身につけた叔父を見るのかと思うと少し気が滅入るところだったので助かった。できれば今日も普通のにしてくれれば良かったのにと思わずにはいられなかった。
一服が終わった叔父は九時頃に自宅へ帰っていった。何時もならば泊まっていくというのに、これは気を遣われたなと苦く笑い沸かしておいてもらった風呂に浸かる。
こうやって時間や気持ちにゆとりが出来てしまうと今日のことを次々と思い出してしまう。今日はもうすぐにでも寝てしまおうと温まるのもそこそこにさっと身体を洗い風呂を出る。
時計の針は十時を少し過ぎていた。大学生にしては早すぎる時間帯だ。今時小学生でも起きているのではないか。
そう思っても今日は疲れたのだと誰に言い訳するわけでもないが、布団に入り目を閉じる。
きっと明日はいつもの一日が始まる。誰の言葉にも揺れずに、毎日を送るのだ。池江の時はまだ進まない。
幼い子供が、目を閉じて、両手で耳を塞ぎ立ち尽くしていた。
今日は試験が三限目まであり、その後はバイトが入っている。シフトでは風見は入っていなかったので厨房はオーナー夫妻の息子さんが入るのだろう。昨日とは違い特に目立ったこともなく、バイトを終えていつも通り帰路につく。
帰りは昨日と同じ時間だ。今日も家では叔父が夕飯を作って待っているのだろう。
「ただいま」
そう声をかけると、おかえりと返ってくる。しかし今日は聞き覚えのない声がした。声が若いように感じたが叔父の知り合いだろうか。それならばわざわざ夕飯をこちらに作りに来てもらわなくても良かったのだが。
一度自分の部屋に行ってから居間の扉を開ける。
「おかえりー。久しぶりだね」
そこに居たのは食事の準備をする叔父ともう一人。昨日、あの時にメモを拾った男が準備を手伝っていた。
「手ちゃんと洗った?」
「なんでここにいんの……叔父さん、こいつ、何?なんでいんの?」
昨日とは違い普通のエプロンをつけた叔父に詰め寄る。包丁を使っていたので掴みかかることはないが、気持ちはすでに掴みかかって問い詰めている。あの男は叔父の知り合いだったのか。なんでこの家で食事の準備を手伝っているのか。この男は何者なのか。
「あー、お前名前なんだっけ?」
名前すら知らずに人の家に上げていたのか。
「アットです。アット・マーク」
語尾にハートのつきそうな言い方で、明らかな偽名を堂々と名乗った。そしてそれを普通に受け入れた叔父に目眩がしそうだった。
大体アットマークってなんだ、あの単価記号のアットマークか?@なのか?とか、なんでバリバリの日本人の顔をしているのに日本名にしないのかとか久しぶりって言っていたけど、会ったの昨日だろとか最早よく分からない疑問で頭がパニックになっている。
その隙に叔父の夕飯が完成し、意識が飛んでいる内に池江も席に座らせられ、箸を持たされ意識がどこかに飛んだままの夕食となった。
結局何を食べたんだかイマイチ分かっていない。しかも叔父は見たいテレビを録画し忘れたと言って早々に帰っていき、池江とアットマークと名乗る不審な男の二人きりとなった。
「あんたいつまでいる気なの?早く帰ったら?」
「えぇ?冷たくない?」
「アットだかなんだか知らないけど早くお帰りください」
「アットマークだって、メールとかのアドレスで見るだろ?@。あれあれ。」
本気であの@だったのか。だとしたらいやしなくてもセンスの欠片も無いな。小学生の方がまだマシな偽名をつけるのではないか。
「本名は?」
「それはまだちょっと言えないかなぁ?」
「はぁ?」
人の家に、たとえ叔父が招いたとしても勝手に上がっておいて本名が言えないとはこの男は常識というものがないのだろうか。普通に考えてありえないだろう。背中を押してジリジリと玄関まで押しやる。しかしその間も@の口は止まらない
「あっ、もしかして言いにくい?じゃあ【あっくん】って呼んでもいいぜ!」
「誰が呼ぶか」
「やだぁ。つれなぁーい!翔ちゃん冷たぁい!」
「翔ちゃんって呼ぶな」
「んもう。今日は自己紹介も済んだしとりあえず帰るね。またね」
もう金輪際二度と会いたくはない。拒絶するように扉を勢いよくピシャンと閉じて鍵を閉める。塩を撒きたい気持ちを抑えて家の中へ戻る。今日は念入りに戸締りをしよう。そして今日も早く寝よう。きっとこれは夢だ、悪い夢だ。そうに違いない。
寝て起きたら全て元通りだ。
「あっくん」「翔ちゃん」
とても、懐かしい呼び名だ。
もう二度と呼ばれることも、そして呼ぶこともない名前。心の一番奥底にしまった大切な記憶。だというのに、それを平気で口にしたあの@という男。
それだけでも不愉快なのに、どうしてあの男の顔が、あの子と、あっくんと重なってしまうのだろう。そんな訳はない、だってあっくんはあの日、あの夏の日、目の前で死んだのだから。だからあの男があっくんなわけはないのだ。
ただ、どことなく似ているだけだ。よくあるただの他人の空似だ。