第九話 灰と燃え殻
例えば、大切なものをなくしたとして。
その大切だった想いもどこかへ消えると言われればそれはきっと違うだろう。
想いだけはずっと心に残るものだ。
もしかしたらそう思いたいだけかもしれない。
それでも、そう考えた方がもっと世界は美しいものになると思うから。
第九話 灰と燃え殻
「初めて寝たけど、寝袋って思ったより寝れるね!」
「それな!つか、よく人数分の寝袋なんかあったよなぁ」
「俺が二つ持ってて、あとは森川が清水先輩から借りてきてくれたんだよ。あの人よく山登るらしいから」
賑やかな声が三人組テントの方から聞こえてくる少し遅れて池江と森川もテントを出る。どうやら既に起きて朝ごはんの準備をしてくれているようで、いい匂いが漂ってくる。
「うっっま。え、すごい美味くない?」
つまみ食いをした高田が思わずといったように声をあげた。その声につられ、興味をしめした@もちょいっとひとつまみ口に運んだ。
「お、おいしい……。お店の味だ……!」
風見が今作ってる焼きおにぎりより先に出来上がっていた具がゴロゴロと入ったスパニッシュオムレツがどうやらびっくりするくらい美味いらしい。高田と@はスパニッシュオムレツの名前を知らずに卵焼きと呼んでいたのを池江の隣で森川が訂正していた。
池江は「……あれって卵焼きじゃないんだ」と思ったが言葉には出さず静かにその料理の名前を頭に刻んだ。
おにぎりも焼き上がり、大皿に乗ったおにぎりとオムレツを各々小皿に取り分ける。醤油の焦げた匂いが寝起きでも食欲をそそる。二人のはしゃいでいたオムレツも断面からごろっとしたジャガイモが覗いており、いかにも美味しそうな見た目をしている。
「うま……」
「ね!ね!美味しいよね!翔ちゃんが好きな味だと思ったんだ!」
再度高田と@が騒がしくなる。高田はどうやら森川に絡んでいるようだが、箸が止まらないのか森川はもくもくと食べ進めている。
風見はそんな賛辞を苦笑をして謙遜しながらも嬉しそうに受け取っていた。
なんでもないそんな光景をどこか遠くで見ているような感覚だった。もしかしたらこんな関係がこれからずっと続くのかもしれないと思った。思ってしまった。そしてそれを望んでしまった自分がいるのに気づいた時、池江は姉の言葉の意味を理解した。
その未来を望むのならば、覚悟しなければ。
池江は自分の指先が冷えていくのを感じた。それとは逆に熱く心臓が波打つ。
「翔ちゃん、大丈夫……?」
顔色が悪く、焦点のあっていない眼をした池江を心配そうな@が覗く。@と目を合わせると、少し呼吸が落ち着いた。少し顔色の戻った池江に@はホッと息をつき、冷たくなった池江の手をとった。@の手は同じくらいに冷たかった。
「大丈夫だよ。翔ちゃん」
その言葉に背を押されるように、池江は皆が食べ終えた頃、少しだけ時間をもらって話し始めた。いつにない表情をした池江に自然と高田たちも真面目に聞く姿勢に入った。
「……皆に、聞いてほしいことがあるんだ。楽しい話では、ないんだけど……」
俺はずっと、十年前のあの夏の日を生きている。
俺には生まれた時から一緒にいた啓という幼なじみがいた。啓は生まれた時危険な状態で、そのせいで俺より早く生まれたのに退院するのは俺と同じ時期だった。学年で言えば一つ上だけど、家も隣同士だった俺たちは双子みたいに一緒に育った。気弱だった俺はずっと啓の背中に隠れてるような子供だった。
幼稚園の一歳差なんてないようなものだった。啓が小学校に上がる時、もちろん俺も一緒に行くんだと思っていた。離れることを泣いて嫌がって、啓は小学校の友達よりも俺を優先した。別に啓が学校で友達がいないというわけではなく、むしろ友達でない人がいないのではと思うほど皆と仲良くやっているようだった。
何度か啓の友達と遊ぶこともあった。俺が人見知りをするから、大抵は一度きり。
そんな平和な日々がずっと続くと思ってた。
啓が中学に上がる前の小学校最後の夏休み。前日は台風だった。直撃はせず、近くまできて逸れただけの雷を伴った少し風と雨が普通の雨天より強かっただけだった。台風の去った次の日はとても晴れていた。雲ひとつない青空が広がっていた。学校の通学路にある川の下流も穏やかで、まるで台風なんて無かったかのようだった。だから、大丈夫だと思ったんだ。
いつものように啓が家に来て、俺の手を引いて外に行く。母の「いつもより気をつけて遊ぶのよ」という声なんか聞こえてもいなかった。啓の友達から古い釣竿を一本借りて川に行こうと誘われた。橋のかかったいつもの通り道にある川だと思っていた。その日だけは違った。数日前に、少し山に入ったところの上流に魚の群れを見つけたんだと興奮したように啓が言っているのを俺も嬉しそうに聞いていた。
「危なくないの?」
「大丈夫だって!何度か行ったし、もし翔ちゃんがいつもみたいに転けても俺が助けるから!」
「最近は転けてないじゃん……!」
そうやって軽口を叩きながら前日の雨で湿った土を蹴りながら進んだ。
この時止めれば良かった。雨の次の日は危ないよって、今日は叔父さんの家にでも行こうって誘えば良かった。母の注意をちゃんと聞いておけば良かった。
そうしたら、あっくんはしななかったかもしれない。
俺は一度も来たことは無かったから知らなかったんだ。この上流が増水していて流れがいつもよりずっと速くなっていたなんて。
上流が危ないと思った啓は川には近寄らないようにしようと言った。折角来たのに、と俺がもらすと啓は「じゃあ少しだけ近くを見たら家に戻って遊ぼう。翔ちゃんの好きなゲームでもやろうよ」と言うのでそれならと、帰ることに同意した。
そこで気を抜いたのが悪かった。俺は泥濘に足を取られて滑った。しかも身体が川の方へと投げ出されるような形だった。襲い来るであろう痛みと水の冷たさを覚悟して身体が強ばり目を閉じると、身体が反対の方へとすごい力で引っ張られた。
思わず目を開くと、啓が、俺を引いた反動で川の方に飛んで行った。啓と目があった。ほっとした顔をした啓の瞳には絶望した俺の顔が映っていた。
ボチャンッと大きな音を立てて水面が揺れた。啓が川に落ちた音だ。地面を飛び出した木の根に運良くしがみつけた啓は必死で水から上がろうとする。俺は急いで啓を助けようと駆け寄ろうとした。
「来るな!!」
聞いたことの無い啓の大きな声にびっくりして、駆け出そうとした足が止まる。こうしている間にも啓は流されそうになっているのに。怖くなった俺は泣きながら川と反対の方へ走った。俺は、あの時啓から逃げたんだ。俺があの時手を伸ばしていれば、俺があの時滑らなければ、手を振り解けていれば、啓はきっと今でも生きていたはずなのに。俺が啓を殺したんだ。
そこからはあんまり覚えてない。いつのまにか冷たくなった啓がいて、大人たちも皆泣いていた。俺はその時、なんでか泣けなかった。
学校でも啓の死が知らされて、皆泣いていた。何日も何日も泣いて、啓のことを話していたよ。
でもいつからか、啓の話は聞こえなくなっていった。「昨日のテレビ見た?」「この間弟が」「最近ね、犬を飼ったの」「新作のゲームもうやった?」啓を悼む言葉はそんな話題に変わっていった。
大人たちも、一ヶ月もすればそんなこと忘れたかのように楽しそうに笑っている。
啓がいなくなったって思った。皆の記憶からも消えていくのを感じて震えるほど怖かった。こうして俺もいつか、啓を忘れていくんだって思った。あんなに大切だったのに。だったらもう、思い出なんか作るのをやめよう。そうしたら啓はずっと存在する。新しい思い出や記憶になんか上塗りされない、一番上にいる。そうしてそんな俺を見て思い出せばいい。啓という存在を。
啓が忘れられないように。啓を消さないように。俺は人と付き合うのをやめた。
本当に馬鹿みたいに独りよがりなことを今まで続けてきた。俺一人がそんなことをしたって時間は進むし、記憶は薄れるのに。それでもこの生き方しか分からなかった。止まってしまったら二度と進めないと思った。だけど、清水先輩が引っ張って連れていかれたところでお前らがいて、普通に友達みたいに接するから、馬鹿みたいに優しいから。もしかしたらって思っちゃうんだよ。
「うん。それで、池江はどうしたい?どうしてほしい?」
「俺は、」
幼い子供が泣いている。叫んでいる。その先の言葉は言ってはいけないのだと。許されてはいけないのだと。それでも俺は、
「許されたい……!友達になりたい、もうやだ。つらい、たすけて、ほしい。」
「うん。分かった」
泣きながら下がっていた顔を上げると、全員こちらを向いていた。
「もう俺たち友達じゃん!」
「ズッ友だぜ……!」
「で、とりあえず何したらいいんだ?」
その言葉にそこにいた全員が笑った。
「とりあえず……改めて自己紹介、とか?」
皆に受け入れてもらえた池江はずっと何か言いたそうにこちらを見ていた@の手が強く握られていたことに気づかなかった。
「……やっぱり……やだなぁ」
誰にも聞かれることの無かったその言葉は風に流された。
もうすぐ、秋が来る。
「じゃあ、名前と学校入った理由、趣味とあと将来の夢とか!」
森川の提案通り、改めての自己紹介が高田進行の元行われることになった。まるで小学生のレクリエーションのような雰囲気でイエーイと元気よく返したのは風見だけ、森川は控えめに拍手を送っていた。
「高田剛志二十五歳です!今働いてる会社の社長に今からでも遅くないから大学は出ておけって言われて皆より遅れて入学して今って感じかな!将来の夢は笑顔の素敵なお嫁さんをもらうことで、趣味は小さい頃から釣りが好きです!」
先陣を切ったのはもちろん高田。前に自己紹介をされた時に皆より歳上とは聞いていたが、その理由を聞いたのも初めてだった。こんな田舎で多少の需要はあるもののこれから先、高齢化の進むこの地域で自動車業が続くとは考えてるいないから、社長はきっと次の就職先でも有利なように高田に大学を出ておけと言ったのだろう。
高田の紹介が終わると次は隣に座っていた森川の番だ。
「森川将貴。大学はこの辺だと一番色んな学部があるからってのと、涼平くんの誘いで。将来の夢は海外に行きたいってことくらいかな。家のこととかもあるからまだ考え中。趣味は色々あるけど一番はカメラかな」
ぼうっとしていて話し始めない@の肩を森川が揺らすとハッとしたように@目を瞬かせた。「次、あっくんの番だよ」と高田が進行らしくフォローを入れると@も笑顔で話し出す。
「あっくんです!気になることがあったからこっちに来ました!趣味は外で、遊んだりとか。将来の夢は……よく、わかんないや」
段々と弱々しく話す@にらしくないと具合でも悪いのかと高田や風見が心配するが、@は笑顔で気にしないで大丈夫と言うだけだった。そんな@を池江は心配そうに見ていた。
そして池江の番が来る。
「池江翔、大学は近いから。趣味は、バイク。将来の、夢……は考えたこと無かったな」
前二人の暗さを払拭するように風見が元気よく自己紹介を始めた。
「最後は俺だな!風見洋介。A型、 彼女は募集中。大学は学費が安くて近いところを選んだらここだった。将来の夢は上京してそこそこ給料の良いところでサラリーマンすること。趣味は貯金と料理」
「え!料理人にならないの!?」
「無理だって」
「絶対なれるって!俺だったら毎日通いたいくらい美味かったもん!サラリーマンよりそっちの方が……」
「だから無理なんだって!!」
五人しかいないその場に風見の叫び声が響き渡る。その声に一番驚いていたのは本人だった。「でかい声出してごめんな。ちょっと頭冷やしてくるわ」と力なく笑いその場を離れていった。急な出来事に吃驚して動きが止まった。先に我に返った「謝ってくる!」と高田がすぐさま風見の姿を追った。残された三人はとりあえず高田に任せることにした。
「……洋ちゃん、大丈夫かなぁ」
「高田に任せとけば大丈夫だろ」
「翔ちゃん、つっくんのこと信頼してるんだ?いつの間に仲良くなったの?」
体育座りをして膝に顔を埋めながら@が池江に聞く。なんだか邪魔をしてはいけないような気がした森川はそっとその場を離れることにした。
幼い自分と対峙する。いつもの夢だ。
「どうして、どうしてあっくんがいないのに笑ってるの」
「ごめんな」
「許さない。お前のせいであっくんは死んだのに」
小さい子供の自分が歪んで学ランを着た姿に成長する。さっきとは違う、怒りに満ちた顔で池江を見て必死に叫ぶ。
「違う!皆が悪い!俺を責めない皆、あっくんを忘れる皆」
「違うよ、皆忘れたんじゃない。ただ、あの時はもう過去になったんだ」
また学生姿の自分が歪み成長し、まるで鏡に映ったような自分になった。沢山の言葉に縛られて身動きが出来ないそれの目を学生の自分が覆い隠し、幼い自分が足に張り付いて雁字搦めになっていた。
「自分だけずるい。どうして救われようとするの。どうして僕らを置いていくの」
身動きの取れない自分に近づく。幼い自分の手を外す。目にある手を外す。どろりとした光のない黒と目が合う。
「置いていかない」
ひとつひとつ丁寧に言葉の鎖を解いていく。
「全部連れていく。その覚悟をしたんだ。夢で見る俺はずっと泣いてたり辛そうだったりしたけどさ、あっくんとの思い出はずっと楽しかったから。ひとつの悲しい辛い出来事で、無かったことになんてしたくないよ」
全ての自分をそう言って抱きしめた。泣いてる自分も、怒ってる自分も、諦めた自分も全てひっくるめて池江翔という人間だから。許せなかったのは自分自身。嫌っていたのはいつまでも今を見ることが出来なかった自分自身。ずっと知っていた。あっくんはもういなくて、時を止まることは出来なくて、あっくんがいなくても生きていける自分に絶望していたこと。自分が一番、あっくんのことを忘れていたこと。
「洋介!!」
「な、なんで着いてきたんだよ!?」
「だって、俺のせいじゃん!」
ガタガタと枝や石のある道を歩く風見を見つけた高田は声をかける。その声に振り向いた風見は高田の姿を確認してギョッと目を見開き歩く速度を少し上げた。転ばないように気をつけながら最大限の早歩きで進む。今は誰にも会いたくなかった。こんなかっこ悪い自分を誰にも見られたくなかった。ぐらりと風見の体が大きく横へ揺れた。投げ出されるような浮遊感を感じた時に、風見は高田が大きな声で自分の名前を叫んでるのを遠くに聞いた。




