脱毛症が繋いだ双子の再会
ひどい脱毛症にかかっていたときのことです。洗髪の度に、浴室の目皿にお団子さんみたいに髪の毛が貯まり、眉毛も髭も抜けて、肌はつるつる。ひげ剃りが朝の習慣から抜けていた時期がありました。痛くはないし、身体の機能が衰えるわけでもない。医者からは「必ず回復します。早ければ2,3ヶ月で」と言われても、知り合いに会うたびに、丸坊主となったいきさつを説明するのに辟易した頃、通い慣れた温泉宿の主人が、肩をたたくように語ってくれたのが、離れて暮らす境遇の異なる双子がお互いの身体に仕込まれた時計がベルを鳴らすように同時に脱毛症にかかった話でした。
双子のといえば、こんな話を聞いた。
以前、ひどい脱毛症にかかった時期があった。髪の毛から始まり、眉毛はおちて、髭も生えなくなった。毎朝のひげ剃りの習慣はなくなり、急に子供に戻った感触を肌に空いた穴のひとつひとつに埋めて暮らしていた。それでも、全てに慣れは生えてくる。ひょんなものを一瞥している視線が、それが多少なりと関わりの伴った人であるとわかれば、普段は持ち合わせない軽やかな親密さやいきさつやら心持ちやらを甲斐甲斐しく小脇に抱え、恐縮から鼻が曲がりそうになる一歩手前までの挨拶の術を身に着けていった。
そうなんです。見た目が変わっただけで痛くも痒くもないんです、目をつむれば昨日までと何ら変わっていないんです。シャワーを浴びたあとの排水口に溜まる髪の毛が、泥遊びのお団子さんの丸く膨らんでいる形以外は何も変わっていない、そんな毎日なんです。「そんなやせ我慢しなくても」と、相手が困ったような爽やかな感心を残して別れたがってた顔を出しても、固まったジョーカーの笑顔は気付かないふりをした。
それは、妻の里にある温泉宿で、そこの管理人の主が聞かせて呉れた話だった。
なかば道楽でやっているような温泉宿で、他の客を見かけることのないがらーんとした佇まいが気に入って、訪れたときには必ず通っていた。管理人兼従業員の夫婦が料理を除いて大概を賄っているようで、その少し隠棲した日常を湯船に浸り想像しては、日々の塵芥を湯に流し込んだ。
以前の素性や生業は勿論分からない。湯上がりの世間話のついでといった体でお互いの名前を紹介しあう代わりにこうして親しく話している互いの人となりを分け合けあって話し始める輩もいるが、そうしたやり取りが取り交わされている光景についぞ出くわすことはなかった。
湯上がりで寛ぐ背中越しにそんな世間の塵芥がまみえないよう配慮がなされていたのやもしれない。
と、そんな囁きに似た憶測が起きるほど、此処は宿を賄う作業よりほか、何の音もして来ない。
それでも、管理人の主が身体の一部になるまで長くこの生業に就いていないのだけは分かった。帳面をめくりながら事務を執る音と届いた荷物を右から左へ左から右へ送る流れは、手伝いでそこに入っているひとの立ち居振る舞いから未だ抜け出ていない。無駄なく物事を運んでいけば何れは倦怠の入いる隙間が出来てくる。そんな倦怠とは無縁の所作に囲まれてる安心から湯上がりの身体を任せられた。
それは、「脱毛症の挨拶」が無聊の型まではまって、そのしこりの硬さが鼻についてきた、そんな頃だった。
湯から上がると、面長の顔の主が珍しく声をかけてきた。いつもなら会釈と取って付けたお天気の話よりしないこの人が、これから何往復かのやり取りでもしようとする身構えだった。しかし嫌な気は起きなかった。彼の顔には、とても心配している様子が見えていたから。頭よりも先に優しさが出ている顔だった。
「わたしの知りあいに双子の兄と妹という人がおりまして」
話は、唐突にそう始まった。
知り合いといっても、あなたと同じ此処のお客さんのような間柄の、それも会ったことのあるのは妹さんの方だけで、お兄さんの方は、その人の口から「兄さん」と出てくるだけなのですが、もう、かれこれ五年前でしょうか、どこが気に入ってか年に二度は必ず寄ってくれまして、いつものようにガラッと元気よく戸を開けて、そのまま立ち話を続けていたら、その真ん中で急に「おじさん、これ見てよ。驚かないでね」って言ったあと間も置かずに、肩まで整えたオカッパ頭に手をかけると一気に持ち上げて、剃髪したての若いきれいな尼さんみたいにツルツルした顔を向けて来たんです。
「驚いちゃうわよね、私だって何度も驚いちゃうんだもん。でも、心配しないで、抗癌剤治療ってヤツじゃないから。お医者さんも原因は分かんないけど、円形脱毛症のひどいやつだって言ってた。円形脱毛症って、髪の毛の中にあるから丸くて円形に脱毛していくんだけど、あなたのは「重度なんです」って、頭全部がそれよりも大きな丸の中に取り込まれていって抜けていく症状なんですって。フンフンってうなずいて聞いてたけど、最後に膝半分だけ近づいてきて、そっと、こんなこと言うのよ。
瞬き一つしないで、こっちが目を離しそうになるまで、じーと見続けられてから、
来年は厄年ですよね。いろいろと出てくる年齢です。弱ったところに疲れが溜まって、潰瘍になったり腫瘍になったりする人がいっぱいいるんです。あなたの場合、それが痛くもなければ死にもしない、毛が抜けるだけで済んだっ考えてみませんか。女の方に、髪の毛が抜けるだけで済んで良かったなんていったら怒られてしまいますが、いずれすっかり元通りになります。一ヶ月先か、半年先かは言えませんが、必ず回復します。ものは考えようです。身体にとっては、痛くもないし苦しくもない。必ず治る。だから気に病まないようにしてください。女性の方の場合、むしろ、そちらでダメージを作る方がいますので、くれぐれも気に病まないでください。
そう言って、保険適用のウィッグのカタログ、貸してくれたの。
最後は、なんだか久しぶりに可笑しなキャッチに口説かれて、変なもの買っちゃった気分だった。
それから3週間たった後だったかな、兄さんからメールが届いたのは。正確に言えば、「兄さん」と名のった人からだけど・・・・いつ別れたかも覚えてない位小さな頃に別れたっきりなんだもの、「双子の兄」なんて母と周りの「おばさんたち」が聞かせた話の記憶でしかない。それでもね、それが作り話でないことはわかるの、ちっちゃいときの写真ならべても、あたしじゃないあたしはすぐに分かる。お気に入りだったっていうウサギの耳のついたベビードレス着て、葉のついたミニニンジン得意げに振り回しているのを見ても、「これは、あたし」「こっちはお兄ちゃん」ってトランプを配るみたいに綺麗に振り分けられた。でも、写真はお兄ちゃんだけ、パパの写真はひとつも残ってない。写真どころか話だって一つも漏れてこない。あんなにおしゃべりなママもおばさんたちも、男の匂いは漏らさなかった。
おばさん達から「丸坊主の写真みせられて、本当にびっくりしたんだ」って、そのびっくりしたまんま「メール送って来たんだ」って。こっちだって、勝手に急に、こっちの居場所にそんなもの持ち込まれたらオタオタするわイ。だいたい、なんでこっちの居場所だけ知られているの。教えたのは、どのおばさん、あたしの方はいっぺんだってパパに会わせてもらったことなんかなかったのに、お兄ちゃんの方はずっとお母さんと繋がってたの。って、いろんなクエすチョンが、髪の毛ない頭の周りを人工衛星みたいに廻り始めた。
写真の彼は男の格好をしていた。ボックスタイプのメガネに、首を締め付けそうなカラーの目立つ白いシャツを着て、喉仏にえぐみの影は出ていなくて、そこだけがフェミニンな感じはしたけど、丸坊主以外あたしと同んなじとこなんて見つけられなかった。いろんな言い訳、先に読んでもらうより、こっちを見てもらおうと思って送ってきたんだって。「それがフェアな感じ」がしたんだって。フェアなんて取ってつけてような絶対にあたしが使わないフレーズを使うんだなって思った。だから、あとから送ってきたメールを読んでも、最初は、書いてあること以外何も入ってこなかった。
「こんなのいきなり送りつけて、きっとびっくりしてるんやと思う」から始まった。あー、住んでるのは西の方なんだと、それだけは息遣いが聞こえた。
どないな手を使っても、「お兄ちゃんなんやけど」って近づいたら驚かすに決まってるんで、小出しにするよりみんないっぺんがエエと思って、おんなじ丸坊主を先に出してから、「お久しぶり」やらしてもらいます。
お母ちゃんのこと、去年やったな・・・・おばちゃんらの両の掌つうじて遠いとこから合掌させてもらいました。普通やったら、お互い新しい家族作っとる歳なんやもの、、こればっかりは避けて通れんことやな・・・・・こっちは10年前やった。「おばさん達の処から来ました」ゆう人がたった一人でやって来て、後始末をみんなしてくれた。頼まれ仕事でやって来た人と思っていたら、最後にその人、何度も何度も咀嚼した言葉繰り返すみたいに「お骨、半分頂いていっていいですか」って。そのために、わたし此処まで来たんです。って続きそうな目でじっと見続けられて、うちらが生まれる以前の大きな因縁がその間に横たわっていおるの、すぐに分かった。そないに大切に思ってくれる人に身体そっくり預かってもらった方がいいと思って、そう話したらその人、きっぱり首を振って拒みよった。「あなたがどのように思われようと、この人に一番近しいのはあなた方なのです。それは事実であり、お母様も含めた私達の願いなのです。世間一般で言う「普通」をあなた方から取り上げた私達を憎んでも恨んでも構いません。でもどうか、それだけは踏みにじらないでください。」
好き勝手に生きてきた男親なんて、死んでもそれで仕舞いやろう思っておったけど、無うなってしもうたらだんだんに若こうなってくる。隣に居る自分も小さい子に戻りそうになってくる。そんな妙な感じ、あと2年も経ったらきっとそっちにも起こってくる。と、思う。
すこし話がそれたな。本題に戻ります。こっちもな、3か月前からや、始まったの。髪の毛から始まって、3分の1まで落ちたら、ひげも無うなってきて、完全につるつるになって、そっちと同んなじ女子はんのもち肌に戻ったわ。そんで、最後は眉毛やった。でも、大丈夫、生えてくるて。ほらほら、眉毛のあったあたり、拡大すると少しは産毛みたいなのが生えてきてるの見えるやろ。生えるのは逆の順番だってセンセイが言いよった。そっちはひげの順番がないから、もう少し髪の毛が落ち着いたら、眉毛に行くやろ。扱い馴れたアイブロウで上手に細いきれいな線で書けるようになった頃に、産毛が生えてくる。そのまでの辛抱や。
双子いうのはな、全く一緒のもの持って生まれてくるんやて。顔貌が似てるだけやのうて、目に見えん、まだ出てきてへんものも同じもの持ってるんやて。こんなの読んだら、余計に嫌な気おこすの承知やけど、言わせてもらいます。タイムカプセル覚えているやろう。「記念や」ゆうておばさんらが花かざりまでしてくれたのに、一番大事にしているもん埋めようって指切りまでしたのに、お前、プーさん持ってこなかったな。おばさんたちからもらったたくさんの2番めに好きな中のテディベア差し出して「一番大事にしているもの埋めたらあかん、魂まで土ん中に吸い込まれてしまう」なんて勝手な屁理屈こしらえて、うちのプーさんだけ、箱に詰めて埋められたんや。それからうちの周りからくまさん達、みんな居なくなった。テディベアばっかりやのうてお前もママもおばさんたちもみんなみんな居なくなった。みんな眠ったまんまになった。それでも、眠ったのならいつかは目が覚めるときがくる。それを、そーと、ずーと、思ってた。
神様が埋め込んだタイムカプセル、開けるときが、きたんや。いま。
来年は厄年やったな。いろいろ出てくる齢や。弱ったとろろに疲れが溜まって、潰瘍になったり腫瘍になったり、痛い思いするもんも仰山におる。それが、頭の毛だけで済んだんや、それもいっときだけや、アイブロウやウィッグの世話になるのんは世間のみんなが暖かくなるまでまでや。「髪の毛ぬけるだけで済んで良かった」なんて口の効き方、そんな間柄まで自分勝手につめんといてって言われそうやな。一ヶ月先か半年先かは言えんけど、必ず回復します。ものは考えようや。身体にとっては、痛くもないし苦しくもない。必ず治る。だから気に病まんことやないことや。女の場合、その性で大きな怪物を作ることがある、くれぐれも変な気鬱背負わんように。
音の何もない一人っきりの部屋で勝手なあんな長ぜりふ聞かされていたら、「フェア」なんて使う男の声が自然と幼かった自分の声に変わっていた。最初まで戻ってメールを読んでも、もう歯の浮いたような知らない男の声はしてこない。声ばかりではない。何処かわからない西方の抑揚が今朝見た夢の一番遠い記憶のように肌の暖かみと一緒に戻されてくる。術にかけやれたのか。眠い。読むのをやめようとしても眠りが抗いを拒むように文字が体の中へ入ってくる。「来年は厄年やったな。いろいろ出てくる齢や。弱ったとろろに疲れが溜まって・・・・潰瘍になったり腫瘍になったりするのが仰山におる。それに比べて、痛くもなければ死にもしない、毛が抜けるだけで済んだんやないか。必ず回復もする。ものは考えようや。身体は、痛くもない、死にもしない。必ず治る、、必ず・・・・・
湯の冷めた身体で我に返った。仕事場の奥にもどったのか、既に管理人の主の姿はなく事務か何かしている作業の音だけが聞こえてくる。天井ばかりが威勢よく高いロビーの真ん中で、模造皮で作られた昭和時代のソファは身体を揺らす度にキュッキュッと鳴る。
管理人の主が真っ直ぐに「双子の兄と妹という人がいまして」と語りかけてから「心配しないでください、必ず良くなります」と結んだのは確かだ。煙草の吸いすぎで粘ったあんなアブクの声が、空耳で済ませられるはずがない。しかし、その声は、頭蓋を麗しいボブヘアーでくるんだ女のようでもあり、見ず知らずの男のようでもあり、可愛い二つの鈴を並べて転がしたような幼子のようでもある。
ザラつきを忘れた下顎に親指を立てて起きがけの夢の続きの呪文を繰り返しても、あんなに饒舌だった人は一声も発してはくれない。
たぷたぷした中の解けない知恵の輪のように、遺伝子は回り続ける。軸から一番遠くの薄っぺらな針金で拵えた突起がオルゴールの仕掛けを外し、細い金管を束ねた音楽を鳴らし始めた。別々の地上を掴んでいた二人は地球の丸みを離れて再び出逢い、暗い静かな宇宙でまた手を繋ぐ。
ひとりは永遠の宙に留まり、ひとりは落下して地上へと舞い戻った。対になるものが失せたせいで、少し隙間が広がり、同質化したものばかりの匂いがした。
オルゴールがどんな金管の束を操り音楽を鳴らしたのか。それを聞くことはできなかったが、私の髪の毛は寝癖の直らない真っ黒な直毛から少しウエーブのかかった細い栗色に変わり、顎鬚はもう生えなくなった。髭の生えない顎は少しは寂しくもあったが、亡くなった親をずっと手こずらせていた親指を立てる癖はなくなった。
ひどい脱毛症にかかっていたときのことです。洗髪の度に、浴室の目皿にお団子さんみたいに髪の毛が貯まり、眉毛も髭も抜けて、肌はつるつる。ひげ剃りが朝の習慣から抜けていた時期がありました。痛くはないし、身体の機能が衰えるわけでもない。医者からは「必ず回復します。早ければ2,3ヶ月で」と言われても、知り合いに会うたびに、丸坊主となったいきさつを説明するのに辟易した頃、通い慣れた温泉宿の主人が、肩をたたくように語ってくれたのが、離れて暮らす境遇の異なる双子がお互いの身体に仕込まれた時計がベルを鳴らすように同時に脱毛症にかかった話でした。