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博士の無常な実情

 恋した相手が身体に触れ、こちらを見下ろしている。そんな姿が、仮面に小さく明けられた穴から見えた。喉に軽く食い込む鋭い爪と、相手の顔を覆う赤錆色のモヤさえなければ、悪くない景色なのだろう。


「葉河瀨部長!?」

「葉河瀨君!?」


 少し離れた場所から、早川と月見野さんの焦った声が聞こえてくる。


「っ……八卦相……錯って往を押……し、来を……」


 日神も祭文というのを唱え続けてはいるが、所々声がつまっている。


「ふん、祭文は耳障りだが……まあ良い。そこの儺人ども、少しでも妙な気を起こしたら、この男がどうなっても知らぬからな」


「くそっ」

「そんな……」


 赤錆色のモヤの言葉を受けて、早川と月見野さんが悔しそうな声を漏らした。これは、本格的に厄介な状況みたいだな。

 

「さて、このまま喉を抉ってやっても良いが、どうしてほしい?」


 赤錆色のモヤが、一条さんの声を勝手に使ってこちらに問いかける。


「なら、とっとと降りてくれますかね」 


 睨みつけながら答えると、モヤが口の辺りを歪めて笑みを浮かべた。


「ははは、懸想した相手と肌を重ねているというのに、随分とつれないな」


「貴女なんかに恋心を抱いた覚えはないんですけどね……っぐ」


 軽口を叩いた途端、手に込められた力が強くなった。呼吸が止まる程ではないが、爪の食い込みが強くなる。

 なんとかして戈を取り戻そうと手を動かしているが、柄に手が触れる気配すらない。


「ほう、右の目玉が抉られたというのに、随分と余裕があるな……ん?」


 不意に、喉に食い込んだ手の力が弱まり、モヤが目の前まで近づいた。


「なんだ、元々右の目玉は作り物だったのか。へえ、そうかそうか」


 モヤは満足げな表情を浮かべながら、数回頷く。とても苛立たしい仕草だ。


「……それが、どうしたというのですか?」


「いや、なに。せっかくの美丈夫が、その目のせいで台無しだと思ってな」


「余計な、お世話ですよ」


「まあ、それもそうだな……ああ、そうだ」


 モヤが再び口を歪めて笑みを浮かべた。それと同時に、指の先が戈の柄に触れた。あと少しで、手が届く……


「この声は、依代の物を使っているから、少し面白いことをしてやろうか」

 

 不意に喉元から手が離れ、代わりに左目を塞いだ。視界が、赤錆色のモヤに包まれる。



「あ、あの葉河瀨さん」



 ……赤錆色に染まった視界から、一条さんの困惑した声が聞こえた。声を使っているのは、モヤだということは分かっているはずなのに、思わず戈をたぐり寄せる手が止まってしまう。

 まずい、早く戈を取り戻さないと……



「ずっと、言おうと思っていたのですが……」



 一条さんの声が、言葉を続ける。

 せめて、身体の上にのっているモノを振り払わないと……

 発作で色々と見えすぎる状態で、言葉の続きを聞くわけには……




「その気色の悪い目で、これ以上こちらを見ないでいただけますか?」




 声と共に、嫌悪感に満ちた表情でこちらを見つめる一条さんの姿が現れる。

 一条さんはゆっくりとこちらに背を向け、去っていこうとする。


「一……条さ……ん」


 声をかけても、一条さんは足を止めずに進んでいく。

 その後ろ姿が、徐々に別の人物のものに変わっていく。

 鼓動が、異常に早くなっていくのを感じる。

 

「……あ」


 いつの間にか、後ろ姿が母さんのものに変わっていた。

 母さんは足を止めると、こちらに振り返った。

 それから、悲しそうな表情で何かを呟いて、また歩き出した。


「行か……ない……で」


 声をかけても、母さんは歩き続け……



 宙に浮かんで全身を脱力させた姿を見せた。


 

 こんな光景、ただの、発作が見せた幻覚だ。

 それなのに、うまく呼吸ができない。

 早まり続ける鼓動に合わせて、胸が鋭く痛む。


「ははは、随分と可愛いらしい表情をしているではないか。何か、恐ろしいモノでも見たのか?」


 心地の良い声が耳障りな言葉を放ち、小さく柔らかな掌が不快な手つきで頬に触れる。

 確かめたい表情が、モヤに包まれて見えない。

 早く、この声も、手も、表情も、一条さんに返さないといけないのに。

 指を僅かに動かすだけで、胸の痛みが強くなる。


「それに、随分と苦しそうだな」


 呼吸の乱れと胸の痛みのせいで、視界がぼやける。ぼやけた視界の中で、頬に触れていた手が喉元に移動していくのが見える。


「いっそのこと、息の根を止めてしまえば、楽になるかもしれないな」


 再び喉元を掴んだ手に、ゆっくりと力がこもる。

 胸の痛みもジワジワと強さを増し、視界が狭まっていく。


 ……ここまで、なのか。

 なんとか、差し違えてでも、一条さんを取り戻したかったのに……

 それも、叶わないなら、せめて……



「貴女……が心か……ら、好……きでし……た……どう……か幸せ……に」



 ……届かなかった言葉を、もう一度だけ伝えよう。彼女が戻って来たくなったときの、道標になれるように。


「何をふざけたことを……ぐぁっ!?」


 不意に、モヤの悲鳴と共に、喉元の圧迫感が消えた。狭い視界の中に、額を抑えてうな垂れるモヤの姿が映った。

 

「ええい!今更、何の用だ!?……何?約束が違う?……はっ!約束通り、手駒にはしていないだろうに……ああ、もう!うるさい!少し黙れ!」


 モヤはうな垂れながら、なにかイザコザとしている。これは……間違い無く、好機だ。

 首をよじると、徐々に広がっていく視界の中に、戸惑った表情で弓を構える早川の姿が見えた。早川も俺の視線に気づいたらしく、軽く目を見開く。早川はモヤの方に視線を動かしてから、軽く頷いた。そして……



「くらえ!必殺・根性のスーパー主任アロー!」



 ……なんとも気の抜ける必殺技を口にしながら、鏑矢を放った。

 あー、そういえば管理部にいたころに、山口課長にかなり懐いていたから、その影響か。


「え、は、早川君?」

「……は?あー、ゴホン、巽を角と……」

 

 納得していると、月見野さんと日神が困惑した声を上げ……


「ぎゃあっ!?」


 ……赤錆色のモヤは悲鳴を上げながら、俺の身体の上から飛び退いた。

 あの、必殺技の名前はどうかと思うが、早川のおかげでなんとか体勢を立て直すことができそうだ。本当に、あの必殺技名はどうかと思うが。いや、大事なことだから二回繰り返していないで、ひとまず戈を取り戻さないと。


「……っこのっ……ふざけたことを……」


 戈を手に取って杖代わりにしながら立ち上がっていると、赤錆色のモヤも憎々しげに声を漏らしながら立ち上がり、早川に身体を向けた。

 まずい。この状態だと、間に合わない……


「早川っ避け……」

「貴様から、始末してくれる!」


 俺の声を遮るように声を上げながら、モヤは早川に向かって飛びかかり……


「うわぁっ!?」


「くら……え!?」


「一条さん、ちょっとだけ我慢してね」


 早川に向かって爪を突き出そうとしたところを月見野さんにつかまれ……


「とう!」


「……きゃっ!?」


 ……そのまま気の抜けたかけ声と共に、進行方向に放り投げられた。

 うん……まあ……たしかに、今表に出ているのは、一条さんじゃなくて、赤錆色のモヤではあるが……


「こ、この坊主!お前、この依代がどうなっても良いのか!?」


「たしかに、今喚いている人の安否はどうでも良いですが、一条さんの身体はもう少し丁重に扱ってほしいと思いまーす」


 珍しく意見が一致したので加勢してみると、赤錆色のモヤはこちらに苛立った表情を向けた。


「貴様は黙っていろ!」

 

 赤錆色のモヤはそう喚くと、右足を踏みならした。せっかく加勢したというのに、そこまで怒らなくてもいいと思うんだが……


「あ、う、うん、そうだよね。二人とも、ごめんね?」


 呆れていると、月見野さんの申し訳なさそうにそう言って、軽く頭を下げた。そして……


「でも、一条さんの身体を使って、誰かの命を奪おうとするのは、何としても止めたかったから」


 ……苦笑しながら、反論のしようのない言葉を口にした。


「それに、ほら、君だって、本当はこんな物騒なことしたくないんじゃないかな?」


 続いて苦笑を浮かべたまま、赤錆色のモヤに向かって、首を傾げた。モヤは唖然とした表情を浮かべ、月見野さんを見つめている。

 まあ、嫌な流れが変わってくれたことには違いなさそうだが……なんだか話が混沌としそうな予感もするな。

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