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落ち葉

 池のほとりにあるベンチに腰掛け、噴水を眺めていた。今日は天気も良いし気温も暖かいから、のんびりとした気分になれて良いね。これから会う相手も、同じように思ってくれると良いな。

 そんなことを考えていると、視界の端に黒い影が見えることに気がついた。顔を向けると、黒いロングのトレンチコートを着込み、黒いロングスカートを履いた女性の姿が目に入った。女性は紅色の菊と竜胆の花束を手に、ヒールの高い靴で落ち葉をふみ鳴らしながら、こちらに近づいてくる。

 ベンチの前までたどり着くと、女性は無表情に軽く会釈した。

「お待たせいたしました。月見野さん」

「いえ、待ち合わせ時間にぴったりですよ。それよりも、今日ばかりは、よそよそしい呼び名はやめませんか?烏ノ森マネージャー」

 そう伝えると、彼女は煩わしそうに溜息を吐いて顔にかかった髪を掻き上げた。そして、軽く溜息を吐きながら、僕の隣に腰掛ける。

「そう仰るなら、そういたしましょうか。和順さん」

「うん、そうしようよ。京子きょうこ

 彼女は再び煩わしそうに溜息を吐いた。

「では、早く行きましょう。こんな所で時間を潰していても仕方がありませんから」

「あ、うん。そうだね」

 立ち上がりこちらに振り返ることなく歩き出す彼女を小走りに追いかける。隣に追いつき表情を確かめると、彼女は口を堅く結んでいた。話すことなど何もない、きっとそう思っているのだろうね。

「今日は天気が良くてよかったね」

 それでも話しかけてみると、彼女は眉を顰めた。

「感慨深そうに言わずとも、良いのではないでしょう。少なくとも今年に入ってからは、二人で出かける日に雨が降ったことはないのだから」

 うん、思いっきりご機嫌を損ねる発言をしてしまったみたいだね。僕としては、話すきっかけが欲しかっただけなんだけどな……

「まあ、貴方にとっては、至極どうでも良いことなのかもしれませんが」

 不意に、彼女が視線を向けさえもせず吐き捨てるように呟いた。

「そんなわけないじゃないか!」

 心外な言葉に思わず声を荒げてしまったが、彼女は動じることなく鋭い視線をこちらに向けた。

「そう。なら、そういうことにいたしましょう」

 そして、抑揚のない声でそう言うと歩みを早める。奥歯を噛みしめながら、こちらも歩みを早めた。さっきの発言について撤回を求めようと思ったけど、彼女の表情を見てその気は失せてしまった。睫毛の長い目は伏されて、口元が震えている。花束を握る手にも、力が込められているように見えた。

 ……あの日から随分と長い月日が経ったけど、彼女にとってはまだ昨日のことのように思えているのだろう。

 勿論、僕にとってもそれは同じことだ。

 しばらくの間二人で黙り込んだまま歩き、公園を抜け、目的地のある寺院にたどり着いた。

 手桶に水を汲み、歩き慣れた道を進むと、少し萎れた花が飾られた黒い花崗岩が目に入る。その隣には、少し風化した地蔵像が佇んでいる。二人して無言で、萎れた花を下げ、落ち葉が散らばる敷地の掃き掃除を行い、墓石と地蔵像に水をかけて磨く。掃除が終わると、彼女は手にしていた花を墓石と地蔵像の前に備える。その後ろで線香に火を着け、燃え上がった部分を手で風を送って消し、二つの束に分ける。花を備え終わった彼女に束の一つを渡すと、軽い会釈が返ってくる。線香を受け取るために差し出された彼女の掌には、爪の痕がくっきりと付いていた。

 それから二人で線香を供え、手を合わせた。

 

 線香の煙が、やけに目にしみる気がする。


 長い間無言で手を合わせていたけど、不意に彼女が立ち上がった。

「では、私はこれで失礼いたしますので。来月もご都合のよろしい時間をご連絡いただければ、調整いたします」

「……少し、待ってくれないかな」

 踵を返して去ろうとする彼女に声をかけると、振り向きざまに怪訝そうな表情を向けられた。

「たまには、美術館でも見て行かない?折角近くにあるのだから」

 我ながら場を読まない提案だとは思うけど、このまま帰してしまうのは少し不安だった。彼女の憤りや恨みが、僕に向いているだけならばそれでいい。でも、彼女の掌には、まだはっきりと爪の痕が残っている。

「……そうですね。たまには」

 彼女はそう言うと、軽く溜息を吐いた。

「じゃあ、そうしようか」

 彼女に笑顔を向けて立ち上がり、線香の香りが漂う墓所を後にした。


 叙事詩の一節をモチーフにした門のブロンズ像を横目に美術館に入り、ブロンズ像や絵画を眺める。時折彼女の方を確認すると、相変わらず無言だけど、先ほどのように何かを堪えるように身を震わせてはいない。少しでも気が紛れたならば、良かったかな。

 しばらく館内を進んでいたが、不意にとある絵画の前で脚が止まってしまった。

 

 乱れた長い髪に緑色の帽子被り赤い服を着た女性が、身をすくめて自分の身体を抱きしめている。女性の目は力強く見開かれてはいるが、焦点がどこにあるのか定かではない。まるで、周囲の全てが彼女の目には入っていないように見える。

 その絵に、何故か一条さんの姿が被って見えた。

「……和順さん、どうなさったのですか?」

 長い時間脚を止めてしまっていたからか、隣にいる京子が怪訝そうな表情で首を傾げている。

「ああ、ごめんね。ちょっとこの絵が気になってしまって」

 苦笑しながら答えると、彼女は、そう、と短く呟いて絵画に目を向けた。

「……この絵を見ると、何故か部下を思い出すわね」

 彼女は意外にも僕と同じ印象を受けたようだ。

「仕事が不完全なうえに、被害妄想が強くて困っているのよね」

 彼女は溜息混じりに、心底煩わしそうにそう言った。

 うん、僕には一条さんの仕事ぶりはわからないよ。

 でも……

「……自分の部下に、そういう言い方はないんじゃないかな?」

 僕の言葉に、彼女の視線が鋭くなる。

「あら、貴方には関係の無い話ではなくて?」

「そうかもしれないけど、一条さん、かなり思い詰めていたみたいだよ?」

 僕の言葉に、彼女は鋭い視線のまま、だから?、と聞き返す。

「……ミスのフォローをするのも上司の仕事なんじゃないのかな?」

「随分とあの子の肩を持つようだけど、何故かしら?」

 彼女がそう答えると、思わず言葉に詰まってしまった。

 

 あのくらいの歳の子をみると、どうしても考えてしまう。

 あの子がもしも生きていたら、同じくらいの年齢だったろうと。

 

 だから、一条さんが悲しそうにしているのは、あまり見たくないと思う。ただ、このことを彼女にそのまま伝えて良い物かどうか、悩むところなんだよね……

 そんなことを思いながら問いかけに答えあぐねていると、彼女はこちらの考えに気づいたのか、嘆息を吐いて視線の鋭さを少し和らげた。

「……あのくらいの歳の子だからこそ、少し厳しめに見てしまう節はあるのかもね。ただ、私の元で完璧に仕事をこなせるようになれば、どこへでも自由に行けるくらいの実力は付くのだから、それでいいじゃない。それに、今の時勢なら転職先探しも数年前よりは容易なのだから、移りたいなら早く移ればいいのよ」

 彼女はほんの少しだけ悲しげにそう言うと、しばらく目を伏せて黙り込んだ。しかし、彼女はすぐに嘲笑を浮かべた顔をこちらに向けた。

「それに、慕われすぎるのも、かえって部下に負担をかけると思わない?」

「……それは、どういう意味かな?」

 彼女の質問を聞き返すと、嘲笑を浮かべたまま彼女は口を開いた。

「以前、日神さんに弊社の担当営業を変えていただきたいと話したとき、最初は難色を示されたのよ。でも、実力不足の担当者を指名するような責任者がいるならば、御社に名指しでクレームを入れないといけない、と伝えたら面白かったわよ。最初はご自身のことだと思ってみたいだけど、その上の責任者のことだと気づいたら、表情はあまり変わらなかったけど、顔色が真っ青になっちゃって」

「それで、日神君は君の依頼を受けたってことなんだね」

 絞り出すように声を出すと、彼女は鼻で笑ってから言葉を続けた。

「いいえ?私はあくまでも御社の担当営業の方に対して、率直な感想を述べただけよ?まあ、その後の世間話で、そのときの上司が日和見主義だから、仕事を進めるのに苦労することがある、って伝えたけど。そうしたら、あの子、諸々のことについて善処いたしします、って震えながら言うから。でも不思議よね、担当があの子に変わってから、当時の上司が何故か脚に大けがをして休職した挙げ句に、辞めていったんだから」

 ……そうやって、担当者を日神君に変えるように仕向けて、当時の上司を傷つけさせたってことなのか。

 彼女の言うとおり、その責任は僕にもあることは確かだ。でも、だからと言って……

「……何か、言いたそうね?」

「……君は、人の命や人生をなんだと思っているんだ?」

 声を荒げそうになるのを堪えて聞き返すと、彼女は眉を顰めた。

「さあ?『今回は運が悪かっただけ』だったんじゃない?日神さんにしても、そのときの上司にしても」

 吐き捨てるように言う彼女の言葉が、胸に刺さった気がした。

 

 その言葉は、いつか僕が彼女に伝えた言葉だった。


 返す言葉が見つからずに黙り込んでいると、彼女は深く溜息を吐いた。

「……少し、話しすぎましたね。今日はお付き合いいただきありがとうございました。私はこれで、失礼させていただきます」

 彼女はそう言うと深々と頭を下げてから、踵を返して背を向けた。

「それでは、また後日打ち合わせでお会いいたしましょう。月見野部長」

 そして、そう言うとこちらに振り返ることなく去って行った。

 僕に彼女の事を責める資格なんてない。

 ただ、今のまま進めば、彼女に関わる人たちは不幸になっていくばかりだろう。

 周囲の人だけではなく、いずれは彼女も……これは、もう遅いのかもしれないけど。


 しばらくやり場のない気持ちでその場に立ち尽くしていたけど、いつまでも立ち止まっていると他のお客様のご迷惑になってしまうか。ひとまず、この場を移動しないといけないね。

 

 そう考えながら、踵を返して絵画の側を離れた。

 何故か、絵画の女性の視線が背中に向けられているような錯覚に襲われながら。

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