稽古場
気がつくと、辺り一面白いモヤに包まれていた。
あたりを見渡してみると、少し離れた場所で京子が微笑んでいた。
どこか、悲しげに。
慌ててそちらの方に走り出そうとしたけど、脚が動いてくれない。
戸惑っていると、京子は微笑んだまま口を開いた。
いつだって……貴方なりの最善を尽くそうとしてくれていたのは分かっているから
だから、もうこれ以上、私の逆恨みで心を煩わせる必要はないわ
じゃあ、私はこれで
さようなら、和順さん
「京子!……あれ?」
京子の方に手を伸ばして叫ぶと、目の前には障子越しの陽に照らされた和室が広がっていた。えーと、ここは……ああ、そうだ、山口課長のお宅の客室だったね。今日の準備もあるだろうからということで、昨日は全員泊めてもらったんだっけか。
状況を思い出しながら伸びをすると、段々と目が覚めてきた。ただ、さっきの悲しい夢のせいで、寝覚めはあまりよくないね……でも、落ち込んでいるわけにもいかない。今日は、京子と一条さんを助け出すんだから。よし、顔を洗って、気持ちを切り替えてこよう。
布団から起き上がり障子を開けると、中庭に面した廊下は眩しいばかりの朝陽に包まれていた。
「おはようございます。月見野部長」
思わず目を閉じていると、日神君の声が耳に入った。数回まばたきをしてから声の方に顔を向けると、藍色の着物を着た日神君の姿が目に入った。
「おはよう、日神君。昨日は、ゆっくり眠れた?」
「はい。昨日はお手数をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
日神君はそう言うと、深々と頭を下げた。髪の毛が少し濡れているから、お風呂に入ってきたのだろう。昨日は、酔い潰れて寝てしまってたからね。
「ううん、気にしないで!それよりも、随分とピシッとした格好をしているね」
フォローをしながら話題を変えると、日神君はゆっくりと頭を上げた。
「はい。山口課長が貸してくださったのですが、ちょうど良かったです」
「ちょうど良い?」
問い返すと、日神君は苦笑を浮かべて軽く頷いた。
「はい。これから信田部長に少し稽古をつけていただくのですが、和装の方が気が引き締まりますので」
「ああ、そうなんだ。信田部長の稽古か……」
今日の作戦、日神君の役割は陰陽師だったから、祭文の確認とかをするのかもしれない。それにしても、信田部長って、陰陽道や神道の呪い事にかなり詳しいし……やっぱり、某超有名陰陽師の母親なのだろうか?
「その可能性は、あるかもしれませんよ?」
昨日から抱いていた疑問を思い返していると、日神君が苦笑したままそう言った。何を思っているか分かったと言うことは、日神君も僕と同じ疑問を持っていたのかもしれない。
「うん、まあでも、可能性は低いよね、きっと……ともかく、引き留めちゃってごめんね。稽古、がんばってね」
「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
日神君は深々と頭を下げてから、姿勢正しく廊下の奥へと去っていった。さて、僕も顔を洗い終わったら、ウォーミングアップがてら少しランニングをしてこようかな。
そんなことを考えていると、廊下の奥からバタバタとした足音が聞こえて来た。顔を向けると、白い上衣と黒い袴を身につけた早川君の姿が目に入った。早川君は僕に気づくと、キュッと音を立てながら立ち止まった。
「おはようございます!月見野部長!」
そして、勢いよく頭を下げた。
「うん、おはよう。早川君もピシッとした格好をしているけど、これから稽古かな?」
僕が声をかけると、早川君は勢いよく頭を上げた。
「はい!課長から地下に弓道場があると聞いたんで、ちょっと練習しておこうと」
「そうなんだね」
そういえば、早川君は今日、儺人として鏑矢を撃つことになっているけど……
「早川君て、弓道をやってたりしたの?」
「はい!ちゃんとした部には入ってませんでしたが、高校の体育の授業でちょっとやってたんすよ!」
「そうだったんだ。弓は扱いが難しいから心配したけど、それなら安心だね」
「はい!任せてください!しっかり練習して、感覚をとりもどしておくっす!」
早川君はハツラツとした声でそう言うと、笑顔を浮かべた。
「それは頼もしいね。それじゃあ、練習がんばってね!」
「はい!ありがとうございます!それでは!」
早川君は頭を下げてから、軽快な足取りで廊下の奥へ去っていった。それにしても、地下に弓道場があるなんて、なんだか秘密結社の基地みたいだ……いや、変なところで感心していないで、僕も稽古をすることにしよう。後方支援担当ということになっているけど、受け身の稽古くらいはしておこう。
それから、顔を洗って、山口課長が用意してくれていたジャージに着替え、近所の道を軽く走って戻ってきた。これで身体も温まったから、本格的に稽古をはじめることにしよう。山口課長から、寝室として借りた八畳間を稽古場として使って良いと言われているから、お言葉にあまえさせてもらおう。
廊下を進み中庭にさしかかると、黒いジャージ姿の葉河瀨部長の姿が目に入った。右手には戈、左手には盾を持ち、素振りを繰り返している。方相氏はかなり特殊な武器を扱うことになるから心配していたけど、思いのほか動きは様になっているようだね。
感心しながら眺めていると、葉河瀨部長はこちらに気づき動きを止めた。
「おはようございます。月見野さん」
「うん、おはよう。葉河瀨部長も、朝の稽古かな?」
問いかけると、葉河瀨部長は、ええ、と言いながら頷いた。
「山口課長から扱い方が載っている書籍を借りたので、基本的な動きは大体分かりました」
「そうなんだ。でも、本を読んだだけでここまで動けるなんて、葉河瀨部長すごいね……戈も盾も結構重いでしょ?」
僕の言葉に、葉河瀨部長は首を横に振った。
「いえ、助川と手賀沼が軽くて丈夫な素材を使って用意してくれたので、見た目ほどは重くないですよ」
「そうか……社長直々の依頼というのは、その戈と盾の制作だったんだね」
しかし、たった数日でここまでの物を用意するなんて、助川君と手賀沼君もなかなか末恐ろしいね……
内心驚いていると、葉河瀨部長が軽く頷いた。
「はい。それと、今夜着る装束を用意してくれていたみたいです」
「ああ、だから川瀬社長が、葉河瀨君のスリーサイズだどうのって話をしていたのか……」
一昨日、川瀬社長が発したセクハラまがいの言葉に、ようやく得心がいった。すると、葉河瀨部長もどこか脱力ぎみにため息を吐いて、再び軽く頷いた。
「ええ、そのようです。ただ、二人には和裁の場合、必要な寸法は身長と裄丈と腰回りだということは、ちゃんと教えておきました。まあ、社長は信田部長あたりが教えるでしょうから、とくに訂正はしませんでしたが」
「そうだね、洋裁とちょっと違うからね……それにしても、随分詳しいね?」
まさか……革新的な素材の反物を開発して和装業界に参入しよう、と考えているのだろうか?そうだとしたら、今までまったく関わったことのない業界だから、かなり険しい道のりになりそうだ……
「ええ。七五三の着物を仕立てたときの採寸を覚えていたので」
脇道に逸れた心配をしていると、意外な言葉が耳に入った。七五三の着物を仕立てるって、結構すごいことだよね……そういえば、葉河瀨部長のプライベートについては、かなり謎が多い気がする。いや、部下達を含めた他の人のプライベートだってそこまで詳しく知っているわけではないけど、右目が義眼だということも、昨日はじめて知ったし、それに……葉河瀨部長が、なぜ接点が少ない一条さんに恋をした理由も、まだはっきりとは知らない……
今更ながらの疑問を抱いていると、葉河瀨部長は薄く微笑んだ。
「そのあたりの質問については、打撃を受け流す練習にお付き合いいただけたら、お答えいたしますよ」
そして、葉河瀨部長は、こちらの考えを見透かしたかのようなことを口にした。これも、昨日口にしていた、色々見える、ということの一巻なのだろうか?
……いや、考えていないで、その辺の疑問も直接聞いてみることにしよう。予定外の稽古になってしまうけど、身体を動かしておくにこしたことはないからね。
廊下の側に置いてあったサンダルをはいて中庭に出て、葉河瀨部長と向かい合った。
「それじゃあ、お手合わせいただこうかな。でも、お手柔らかにね」
拳を構えながら声をかけると、葉河瀨部長も盾と戈を構えた。
「ははっ。それは、こちらの台詞ですよ」
葉河瀨部長は、どこかひきつった笑みを浮かべて、そう答えた。
そんなに警戒しなくても、ちゃんと加減はするつもりなんだけど……熱中しすぎないよう、気をつけるようにはしよう。




