心あらば
微かな光を感じ、目を覚ました。
立ち上がり見渡すと、西側の壁についた窓から半端に膨らんだ月が覗いている。
昔、月も巡ってきた季節も自分以外のものは全て変わってしまった、と嘆いて詠った男がいた。
そんな物語を気の遠くなるような昔に読んだ気がする。
その時は、時が流れても相手を想い続ける男の姿をあわれと感じたことを微かに覚えている。
いつか、自分にも、そんな想いを懸けてくれる男が現れればと、夢見たりもした。
それなのに……
あの人は、私の元に帰ってこなくなった。
いつ帰ってきても良いように、毎日髪も整え化粧もしていたのに。
香もあの人が好む物を焚いていたのに。
夜遅くまで待ち続けて身体を壊しても、高熱に臥せっても、あの人は帰ってこなかった。
周りの者達は、私に同情していた。
それでも、私を置いて去ったあの人と、あの人をたぶらかしたあの女を責める声はなかった。
口々に、新しい女の元に去って行くのは仕方がないことだ、と話していた。
中には、私を嘲笑う者さえいた。
そんな奴らに、心底腹が立った。
だから、毎夜病床を抜け出し、釘を打ち続けた。
あの男も、あの女も、周りの奴らも全部ぐちゃぐちゃになってしまえと。
それから……
「あら、また目が覚めたの」
突然聞こえた声に振り返ると、黒尽くめの服を着た女が立っていた。
「なんだ。また、お前か」
声をかけると、女は眠そうに目を擦り、小さく欠伸をした。
「当たり前でしょう?ここには、今のところ私と貴女しかいないのだから」
たしかに、女の言うとおりではある。
だが、あからさまに呆れた口調で言われると、少し腹が立つ。
血反吐の一つでも吐かせてやろうか……
「一条さんが目覚めたのかと思ってきてみたけれど、そうじゃないようね。なら、私はまた休ませてもらうわ。明日は、バタバタするみたいですから」
苛立つ私をよそに、女はつまらなそうにそう言うと、再び小さく欠伸を漏らした。
「ふん、援軍とやらは来ることになったのか。てっきり、怖じ気づいて、逃げ出すかと思っていたのに」
私の言葉に、女は再び眠たそうに目を擦った。
「……まあ、何人来るかまでは定かではないけれど、少なくとも一人は確実に来るでしょうね」
そして、どこか呆れたように、そんな言葉を口にした。
一人、というのは、この依代に懸想していたあの背の高い男のことだろうか?
いや、この女はあの男に対して、良い感情を持っていなかったはず。
ならば、誰のことを言っているのだろう……
……ああ、そうか。
「へえ。昔の男を懲りずに信じているなんて、随分と殊勝なことではないか」
そう言った途端、女は眉を動かし、鋭い目をこちらに向けた。
しかし、すぐに呆れたような表情を浮かべ、ため息を吐いた。
「……いつ、誰から、どこまでの話を聞いたかは、大体の察しがつくから、あえて聞くことはしないわ」
女は吐き捨てるように言うと、西側の壁へ顔を向けた。
多分、窓から見える月を見ているのだろう。
とても、真剣な眼差しで。
「……なぜ、そこまで信じられるのだ?」
この女は、あの坊主から手ひどい裏切りを受けて、絶望の淵に追い込まれたはずだ。
それなのに、なぜ、まだあの坊主のことを信じられるのか、どうにも解せない。
純粋に疑問を抱いていると、女は小さく息を漏らした。
「……そうね。あの人は、いつだって側にいる者を救おうとしていたから、かしらね……」
女はそこで言葉を止めると、自嘲するように息を漏らしながら口元を緩めた。
「……ただ、その救おうとする方法が、いつもことごとく間違っていたのだけど」
女の言葉や表情からは、恨みは感じられない。
「……お前は、自分を不幸にした相手を許したのか?間違っただけだから、と」
私が問いかけると、女は顔を下ろしてこちらを見つめた。
「あら、私を不幸にした相手には、報いを受けてもらったわよ?薄く血の繋がった自称家族の方々にも、血の繋がっていない自称家族の方々にも、死に絶えてもらったのだから」
そして、笑顔でそう答えた。
あくまでも、あの坊主は自分を不幸にした者のうちには入らない、ということか。
「……随分と甘いのだな」
「べつに、色々な物事をあそこまで的確に間違えるのだから、私が直接手を下さなくてもそこまで長生きはできない、と思っただけかもしれないわよ」
「五十路も半ばまで生かしているくせに、よく言う」
私の言葉に、女は、そうね、と呟いた。
……一度裏切られたのに、まだ信じられる相手がいるとは、羨ましいことだ。
力が全て戻っていたら、妬ましさのあまり、とり殺していたかもしれない。
「……っ」
私からの殺気を感じたのか、女は微かに声を漏らして眉を動かした。
何か抵抗されるのかと思ったが、女は私を見つめるだけで何もしようとしない。
飛びかかってくれば、頬の一つでも抉ってやろうかと思ったのだが……
それから、しばらくの間見つめ合っていた。
しかし、不意に、女が呆れたようにため息を漏らした。
「あら、何もしないのね」
「……ふん。無抵抗なお前をいたぶったところで、気晴らしにはならないだろうからな」
「あら、人のことをどうこう言うわりには、貴女も随分と甘いのね」
「甘い、か……」
女の言葉を繰り返してみると、思わず笑いがこぼれた。
途端に、女の顔に焦りの色が浮かぶ。
「……何を笑っているのかしら?」
「いや、心から信じる相手の前で八つ裂きにさせようと考えている者に対して、甘いなどと言うとは、お前も随分とおめでたい頭をしているな、と思っただけだ」
私の言葉に、女は冷や汗をかきながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「……私の生死がどうであれ、明日が来れば貴女は二度とここから出られなくなるでしょうから、覚悟しておくことね」
女は強がりを吐くと、踵を返して去って行った。
「ああ、楽しみにしておくことにしよう」
遠ざかる背中に向け声をかけてやったが、返事はなかった。
つまらないと思いながら窓に顔を向けると、まだ僅かに月が見えていた。
……何だか気分が悪いが、我慢することにしよう。
明日は、きっと楽しいことになるのだから。




