明日になれば
目が覚めると、相変わらず廃屋の中にいた。
起き上がってみると、眠りにつく前よりも、身体が容易に動いた。
しかし、まだ結界を破るほどの力はないようだ。
それでも、この依代の中身が完全に消える頃には、力も戻っているだろう。
もうすでに、消えかかっていたようだから、力を完全に取り戻すのもそう遠くないはずだ。
これ以上葉河瀨さんを巻き込まないでもらえませんか?
ふと、依代の中身が消えかけながら、願った言葉を思いだした。
まったく、随分と健気なことを願ったものだ。
……相手のことを想ったところで、いずれは裏切られることになるものだというのに。
かつての私のように。
……まあ、良い。
あの男が懸想した相手と私の区別もつかないことが分かれば、依代も絶望して消えることだろう。
「あら、目が覚めたの?」
不意に、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、黒尽くめの女がこちらに近づいてきていた。
ふむ、丁度良いところに来たな。
依代のふりをするなど容易いが、あの男と対峙する前に試しておくのも悪くない。
「あ、はい……おはよう、ございます。烏ノ森マネージャー」
私が答えると、女は足を止めて目を見開いた。
「一条……さん?」
ふむ、面白いくらいに動揺しているな。
これで、依代のふりに問題がないことは分かった。
しかし、他にすることもない。
そうだ、この女には、しばし戯れに付き合ってもらうとしよう。
「はい。あ、あの……ここは一体、どこなのでしょうか?」
依代のふりを続けて問いかけると、女は息を飲んだ。
「……東京湾岸の廃倉庫よ」
しばらくの間を置いて、女は私の問いに答えた。
ふむ、微かに潮の匂いがすると思ったら、海の近くだったのか。
「そう、なんですか……でも、なぜこんな所にいるのでしょうか?」
「一条さん、貴女、何があったか、覚えていないの?」
「は、はい……頭の中に、その、モヤがかかったように、記憶が曖昧で……」
「そう……なら、何も覚えていない、のね」
「……はい」
返事をしてやると、女は目を伏せてため息を吐いた。
その反応に、こちらを疑っている様子はない。
どうやら、私のことを本気で依代だと思っているようだ。
「覚えていないなら仕方ないけど、貴女はここ数日間でとりかえしのつかないことをしたの」
「とりかえしのつかないこと……ですか?」
「ええ。だから、しばらくの間、ここにいなくてはいけないの」
「そう、なんですか……」
「ええ。残念だけどね……」
そう言う女の声は、とても沈んでいる。
少し戯れるだけのつもりだったが、これは使えるかもしれない。
「あ、あの、烏ノ森マネージャー?」
「……何かしら?」
「えーと……その、少しだけでも、ここから出ることはできませんか?あの、家族に連絡もしたいですし……」
「……だめよ」
……さすがに、そう簡単にはいかないか。
「ご実家には、昨日の朝の時点で会社から連絡を入れて説明したわ」
ふむ。
他の依代達にも、この状況を伝えたのか。
それならば、この女の同情を誘ってみるか。
「そう、ですか……あ、あの家族は何と……」
「……今の事態を引き起こしたのならこの対処も仕方がない、という旨の言葉を頂いたわ」
女は簡潔にそう言った。
しかし、あの依代達のことだ、本当はこの依代に対して文句の二つ三つはこぼしていることだろう。
ならば、寂しげな表情でも浮かべておくか。
「そう、ですよね……」
依代達は呪い事に携わることに矜恃をもっている。
しかし、それ以上に私を身に宿すことを恐れている。
まあ、依代として未熟だったため、生きたまま腐り落ちたり、正気が保てずに他の依代を壊したりしたものもあったから、当然か。
それでも、この依代が私を宿したことを理由に他から切り捨てられたとあっては、この女は同情せずにはいられないだろう。
なにせ、この依代に相当目をかけていたようだからな。
「私のことを待っていてくださる方もいないですし、私のせいならば、仕方がありませんよね……」
自嘲的にそう言ってやると、女は口惜しそうに俯いた。
女はしばらく俯いたままだったが、手を握りしめると顔を上げた。
「……少し、時間をちょうだい。川瀬社長に、相談をしてみるから」
そして、私の求めていた答えを口にした。
ふむ、こんなに簡単にことがすすむとは……
「……一条さん?」
思わず笑みがこぼれてしまい、女は怪訝そうな表情を私に向けた。
それから、目を見開くと、鋭い目付きでこちらを睨みつけた。
どうやら、気づかれてしまったようだな。
「……貴女、こんな戯れをして、何のつもりなの?」
「ははははははは!気づかれてしまったか!」
怒気を隠せない女の声がおかしく、声を立てて笑ってしまった。
女は眉間の皺をさらに深めて、私を睨みつけた。
「そう怒るな。なに、することもなくて暇だったものでな」
「……悪趣味、極まりないわね」
「そう言うな、お前とはしばらく共に過ごすのだから、仲良くしようではないか」
「ふざけないでちょうだい……っ!」
女は低い声で、静かにそう言った。
それから、口元を抑えてむせかえった。
「ふむ、まあたしかにお前の言うとおり、馴れ合うこともないか。どのみち、短い付き合いになるのだから」
「……ふん」
咳が止んだ女は、忌々しげに鼻を鳴らした。
それから、口元の血を拭い、再びこちらを睨みつけた。
「……二度と、一条さんのふりなんてしないでちょうだい」
「おお、怖い怖い。そんなに睨まれてしまっては、恐ろしくてあの依代のふりなどできそうにないな」
おどけて見せると、女は小さく舌打ちをした。
これは、少しなだめてやらねば。
たしか、この女は依代のことを娘に重ねていたはずだ。
ならば……
「そんなに、怒らないでください。お母さま」
そう言ってやると、女は目を見開いた。
ふむ、こう易々と動揺するものなのか。
これは、いい退屈しのぎになる……
「ふざけたことを……抜かさないでちょうだい!」
「っ!?」
突然、右頬に痛みが走った。
少し混乱したが、向かい合った女の姿を見て、何が起こったのか理解できた。
女は平手打ちを振り抜いた姿勢で動きを止め、肩で息をしている。
どうやら、戯れが過ぎたようだ。
「目をかけていた部下の身体を相手に、随分と乱暴なことをしたものだ」
「……そうね。葉河瀨部長にでも見られたら、殺されるかもしれないわね」
女は冷静さを少し取り戻して、そう言い捨てた。
「ああ、あの男なら、それもやりかねないな。また会う機会が会うのなら、依代のふりをして、お前に暴力をふるわれたと伝えてみよう」
「ふん」
女はなぜか私の言葉を鼻で笑った。
「……何がおかしい?」
「別に?あの葉河瀨部長が、貴女なんかにそう易々と騙されるものかしら?」
「……ふん。簡単に騙された奴がよく言う」
「ええ、そうね。でも、あの方の一条さんに対する執念も、相当のようですから」
女はそこで言葉を止めると、再び嘲笑うような笑みを浮かべた。
「そうね……運が良ければ明日にでもあの方に会えるでしょうから、そのときにでも試してみるといいわ」
「ほう、随分と煽るではないか?あの男が騙され私の言いなりになるようなら、どうするつもりだ?」
「そのときは、私が手段を厭わずあの方を止めるわよ。貴女に騙される程度の男に、一条さんを任せておけないもの」
女は顎を上げて、こちらを見下しながらそう言った。
女の顔には、嘲笑も浮かんでいる。
まったく、逐一腹の立つ仕草をする女だ……
まあ、良い。
明日になれば、もう少し力も戻り、この女ももう少し消耗するだろう。
それに、都合のいい手駒も手に入るのだ。
そうしたら、やはり真っ先に、この気に入らない女を始末させよう。
ああ、明日が待ち遠しくて仕方ない。




