強張れ!
乗り換え駅から徒歩10分程の位置にある、焼き鳥をメインメニューにした居酒屋にやってきた。このご時勢にしては珍しく完全喫煙だが、同席する相手のことを考えるとどのみち喫煙席になっただろうから別に問題はない。それに、値段の割に、うまい焼き鳥と鳥モツ煮が出て来るしな。
「日神、今日は急に呼び出して悪かったな」
目の前に座った、盛大な寝癖と無精ひげが特徴的な男、製品開発部部長の葉加瀨明がビールを一口飲んでからそう言った。
「まあ、たまになら構わないけれども、俺に相談事なんて珍しいな?」
ぐい呑に並々と注がれた日本酒をこぼさないように一口飲んでから尋ねると、まあな、という返事が返ってきた。また、変な製品を思いついたとかじゃ無いと良いのだけれども……
こちらの心配を気にする様子もなく、葉加瀨は鳥モツ煮を取り皿に運びながら口を開いた。
「相談事は三つ。まず、しばらく早川の事を注意してやってくれ」
「早川?ああ、今日いきなり脱臼して来たし、無理をさせすぎないようにはするよ」
意外な言葉に少々面食らいながらネギマを串から外していると、そうしてやれ、という呟きが返ってくる。しかし、葉加瀨に脱臼のことは伝えてなかった気がするが、早川から直接聞いたのか……?
「あとは、最近は気にならなくなってきたけど、あまり人に対して刺々しい態度とるなよ。見てると怖くなるから」
情報の出所が気になっていたが、失礼な言葉に現実に引き戻された。
「悪かったな。目付きが悪くて」
不貞腐れ気味に返してネギマを串から外す作業に戻ると、葉加瀨は、そういう訳じゃない、と呟いて鳥モツ煮を口に運んだ。じゃあ、どういう訳だというのだろうか。
……まあ、気にしても仕方ないか。
「……それと、もう一つが本題なんだが、どうも恋をしたらしい」
「ふーん。そうなのか……え?」
意外すぎる言葉に、危うくネギを吹き飛ばすところだった。こちらの混乱に気づいたのか、葉加瀨は不服そうな顔で鳥モツ煮を一口食べてビールを煽った。
「そこまで驚愕した顔しなくても良いじゃないか」
ビールを半分以上飲み干すと、葉加瀨は恨めしそうな目を向けて来た。
「ああ、すまない……念の為聞くが、それは葉加瀨がか?」
「当たり前だろ」
「そうか……相手は社内の人間か?」
「いや、取引先の受付を担当してる子……一目惚れというやつだろうな……」
またしても意外な言葉に驚いたが、なんとか正肉を飛ばさずにすんだ。しかし、あの葉加瀨が恋ね……
「……わりと真剣に悩んでるんだから、笑わないでくれるか?」
思わず口元が緩んでしまったらしく、またしても恨めしそうな目を向けられてしまった。
「ははは、すまない。でも俺に相談するよりも、いつもの製品開発のように、恋の仕組みでも調べればいいんじゃないか?」
変な製品を売る羽目になっていることの鬱憤晴らしのために茶化してみたが、葉加瀨は意外にも冷静に、そうだな、と呟いた。そして、ビールを一口飲んで鳥モツ煮をつまむと軽く目を伏せた。
「一応、恋の仕組みの解明と、効果的なアプローチ方法開発のために、昨日は半休使って、哲学書、医学書、人気の恋愛漫画及び小説まで揃えて全部読んだ」
「……すまん。俺が悪かった」
……葉加瀨は所謂天才だとは思うけれども、どうもどこかズレている気がする。
「それで、効果的なアプローチ方法、というのは思いついたのか?」
まあ、あまり効果的なものが思いついているようには思えないけれども……
「ああ。まず彼女が婚約破棄をされて、国外追放されます」
……うん、予想以上の回答が返ってきた。
「ひとまず、その彼女というのは何者なんだ?」
「だから、取引先の受付を担当してる子」
「それで、婚約者は居るのか?」
「詳しくは知らないが……多分、婚約者は居ないな」
「国外追放……というか、現実的には国外逃亡か?ともかく、そんな事態になるような悪行を働いたのか?」
「何てこと言うんだ!?彼女がそんな事するはずないじゃないか!」
「お前が先に言い出したんだろ!?」
二人して急に声を荒げてしまったため、周囲の客達の視線を集めてしまった。しかも、中年の男二人が声を荒げてする会話でもないのに……
ひとまず気を落ち着かせるために、正肉とネギを口にして酒を飲んでいると、葉加瀨は気まずそうに寝癖頭を掻いた。
「……声を荒げて悪かった。まあ、こんな感じで、仕組みもアプローチ方法もサッパリだったから、モテたうえに最近結婚した日神に参考意見を聞きたくてな」
良かった。サッパリという自覚はあったのか。しかし、参考意見をと言われてもな……
「とりあえず、その彼女とは業務以外で交流はあるのか?」
「……昨日偶然にも、昼飯を一緒に食べることできた」
へえ、意外にも進展のチャンスはあったのか。
「それで、その時はどんな感じだったんだ?」
「まず、甘いものが好きだという情報を伝えて、重そうな荷物を代わりに持った」
「そうか」
「あとは、寝不足が深刻そうだったから、下らない事で悩んでないで寝たほうが良いとアドバイスした」
まあ、言い方にもよるかもしれないが、葉加瀨なりに体調の心配をしたわけか。
「それで?」
「以上、だ」
確かに、葉加瀨が色恋沙汰が得意だとは思っていなかったけれども……
「……食事を一緒にしたのならば、頼んだ物を引き合いに出して、好きな食べ物を聞き出せば良かっただろ。そうすれば連絡先を聞いて、別途食事に誘うとかも出来ただろうに……」
「でも、俺そんなに店知らないし」
「アポイントだけ取って、期日までにリサーチして予約すればいいだろ?」
「ただ、流石に寝癖頭の無精髭に食事に誘われたら、女の子引くだろ?」
……外見についても自覚はあったのか。まあ、元の顔立ちは整っているのだから、少し気をつかえばそれなりの見た目にはなるだろうとは思うけれども。
「この間も社長と二人で外出したら、また職質を受けたしな……」
「……だったら、身だしなみを整えろよ。せめて、社長と二人で外出しても職質されない程度に」
職質の前についた、また、という言葉には触れずにそう返すと、そうか、という小さな呟きが聞こえた。まあ、これを機に葉加瀨が身だしなみに気をつけるようになれば、急な来客対応の際も焦らずにすむから良いのだけどな……
「でも、見た目を整えたとしても……彼女、好きな人がいるっぽいし、あまり積極的になり過ぎるのも良くないかもな」
葉加瀨はそう呟くと、ビールを再び一口飲んで溜息を吐いた。色恋沙汰に疎い上に、競合がいるとなれば、落ち込みもするか。
それでも葉加瀨だって、多少変人ではあるけれども、部下の面倒見は良いし、悪人という訳でもないのだから、諦めるのは勿体無い気もする。
「まあ、でもまだ望みが潰えた訳じゃないだろ。その相手ってのは、知り合いだったりするのか?」
競合相手の特徴が分かれば、参考にするなり、正反対のアプローチをするなり対策は出来るかもしれない。
「ああ。月見野さん」
「前言撤回。お前に勝ち目はない」
思いもよらず上司の名前が出たため言い切ってしまったが、葉加瀨も溜息を吐きながら力なく頷いた。
まあ、唯一望みがあるとするなら、月見野部長も色恋沙汰に疎そうなところか。たしか、今は独身だったはずだけれども。
気を落とす葉加瀨を励まし、仕事の話を軽く交えたりしながら、特に問題もなく食事を終えた。
ひとまず泥酔にはならなかったし、日付けが変わる前に帰ることもできそうだ。ただ、妻には先に休んでいるように伝えたから、もう眠ってしまっているかもしれないな。
そんなことを考えているうちに家に着き、玄関で靴を揃えていると背後から足音が聞こえた。
「お帰りなさい。#正義__まさよし__#さん」
振り返ると、灰色の寝間着を着た妻が笑顔でこちらに近づいていた。怒ってはいないようなので良かったが、負担をかけてしまったかな。
「ああ。ただいま、たまよ。遅くなってしまって、すまない」
頭を撫でながらそう伝えると、妻は小さく首を横に振り、いいえ、と答えた。
「数少ないお友達とお会いする、という貴重なお時間なのですから、楽しんでこられたなら何よりです」
屈託の無い笑顔で言っているから、悪気はないのだろうけれども……
「正義さん?いかがなされましたか?」
「いや、なんでもないよ。とりあえず、風呂に入って来るから、たまよはゆっくりしていてくれ」
「かしこまりました。では、追い炊きをしておきますね」
妻は頭を下げると、給湯器のスイッチがあるキッチンへと向かって行った。背後から、ありがとう、と声をかけてその後に続く。
少し前までは一人で悪夢に魘されていた事を思うと、今はとても幸せなのだろう。悪夢もしばらく見ていないしな。
そんな油断をしたためか、久しぶりに夢を見ているようだ。
気がついたら、一面灰色の景色の中に一人で立っている。
妻の姿は見当たらないが、それで良いのかもしれない。
先刻からずっと、背後に嫌な気配を感じる。
しかし、振り返っても誰の姿も見えない。
ただし、前を向くとまた嫌な気配が付き纏う。
気色が悪い。
「彼の方にご迷惑をかけるのがいけないのですよ」
不意に聞きなれない声が聞こえ、脚を止めた。
というよりも、脚が止まった。
脚どころか、全身が動かせないくらいに重く感じる。
さらには悪寒が走り、冷汗まで滲み出てきた。
これはすぐにでも目を覚まさないとマズい。
しかし、思いとは裏腹に顔が声のした方向に動いていく。
視界の端には丹色の渦が見える。
これ以上は、見たくない。
そう思って固く目を瞑った。恐る恐る目を開くと、安らかな表情で寝息を立てる妻の姿が見えた。
どうやら、悪夢からは覚めたらしい。
「正義さん……明日のご飯は……白菜の天ぷらです……」
……別の悪夢が待っている可能性は、あるのだけれども。
ひとまず、寝言で斬新なメニューを考案する妻の頭をそっと撫でた。久し振りの悪夢で寝汗をかいてしまったから、着替えをしないとな。
妻を起こさないように、出来るだけ静かに身をよじってベッドを降りた……のがいけなかった。
足が床に着いたと同時に、腰から鈍い音が聞こえ、激痛が走った。
「ぐっ!?」
思わず呻き声を上げ、ベッドから転がり落ち
「正義さん!?大丈夫ですか!?」
結局、妻を起こしてしまった。
「大丈……夫……だ。問……題な……い」
「正義さん!?死なないでください!?」
妻の泣き声に包まれながら、ぼんやりとカーテンの隙間に目をやると、明らみ始めた空を丹色の何かが飛び去って行ったように見えた。
何か良くないモノの仕業なのかもしれないが、ギックリ腰という地味に物凄く困る嫌がらせは、やめてもらいたいものだ……