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博士の純情な感情

 ガラスや陶器などの破片があちこちに散らばり、沢山の人が悲鳴やうめき声を上げている。そんな中、一条さんだけが、平然とした表情をしていた。

 傍目から見たら、今の彼女はひどく恐ろしく見えるのだろう。

 

 それでも、俺は構わないと思った。


 たとえ、彼女がこの惨状を見て心を痛めていないとしても、気にならない。

 それどころか、彼女がこの惨状を引き起こした張本人だとしても、問題ではないと思った。

 彼女の気が済むなら、それで良いと。



 だから……



「……差し伸べた手を取って欲しかったと思ったのですが、上手くいかなかったので」 


「そうですか」


 何故悲しんでいるか、という問いに答えると、彼女は抑揚のないそう口にした。その口調や、彼女の側に浮かぶ心拍数や血圧から、彼女が怒りを感じていると判断できる。そして、その怒りが俺に向けられている、ということも。

 


「さすがに、こんな状況だと、私を馬鹿にして嘲笑うどころの話ではなくなってしまいますものね?」



 彼女は目を見開きながら、口角を吊り上げて、首を傾げた。


「すみません。一体、何のことを言っているのか見当がつかないのですが?少なくとも、俺は一条さんを嘲笑うために、ここに来たわけではありません」


 俺の答えが気に入らなかったのか、彼女は目を見開いたまま、口角を更に吊り上げた。


「そうですか。まだ、私が気づいていないと、思っているのですね」


「気づいていない、というのは?」


 問い返すと、彼女は首を傾けたまま、眉間にシワを寄せた。


「とぼけないでください。月見野様に私の想いをバラしていたのでしょう?」


「……え?」


「それで、思いを告げる前に釘を刺される滑稽な姿を想像して、ほくそ笑んでいたのでしょう?」


「いや、そんなことは……」


「嘘を吐かないでください」


 戸惑う俺の言葉を彼女の冷ややかな声が遮った。

 ……誰かが、月見野さんに彼女の思いを伝えていたのか。

 おそらく、察しの良い吉田辺りが、事態を収束させるために手を回していたのだろう。だが、彼女は、月見野さんへの思いを知っているのは俺だけだ、と思っている。だから、俺が彼女の思いをバラしたと考えたわけだな。

 なんとかして、誤解を解きたいが……


「安心してください、葉河瀨さんが予想していた通り、滑稽な事態になりましたから」


 彼女は首の傾きを直して、穏やかな微笑みを浮かべた。それでも、彼女の側に浮かぶ心拍数や血圧は、怒っているときの数値を示している。



「ただ、残念でしたね。本来なら、一昨日の告白も嘘だと伝えて、私が落胆するところも見たかったので……」

「そんなこと、あるはずないだろ!?」


 ……聞き捨てならない言葉があったから、思わず大声を出してしまった。彼女の心拍数と血圧が、怒りではなく怯えに近い数値を示す。


「……失礼しました。信じていただけるかは分かりませんが、月見野さんに貴女の想いを伝えたのは俺ではありませんし、貴女の告白が失敗したことを嘲笑おうなんてことは、考えたことすらありません」


「……」


 俺の言葉に、彼女は口をつぐんで俯く。


「それに、一昨日の告白に嘘偽りはありません」


「……口では、何とでも言えますよね」


 彼女は忌ま忌ましげにこちらを睨みながら、絞り出すような声を出した。

 たとえば、彼女が俺と同じような目を持っていれば、心拍数や血圧から、嘘を吐いていないと判断できたのだろう。だが、今の状態でも、俺のような特殊な目を持ってはいないようだ。

 それなら、どうやってこの想いを証明すればいいか……

 今は考えるより先に、思いの丈をぶつける他に方法はないか。


「一条さん。俺は、貴女の事が好きです」


「……」


 俺が想いを伝えると、彼女に赤錆色のモヤがまとわりついていく。


「貴女の笑顔の側に居たいと思っていますし、貴女が悲しんでいるなら、悲しみの原因を完全に取り除きます」


「……」


 徐々に、モヤが彼女の全身を覆っていく


「貴女を煩わせるものに対しては、俺が代わりに手を下すことだって厭いません」


「……」


 すでに、彼女の姿形は全く見えなくなっている。


「貴女が誰かを傷つけたとしても、それを咎めようとは思いません」


「……」



 それでも、構わない。




「仮に、貴女がなにか恐ろしいモノになってしまったとしても、俺の気持ちは変わりませんから」




 彼女からの返事は聞こえない。

 それでも、伝えたいことは、全て伝えきった。

 これで信じてもらえないのなら、それこそ無理矢理にでも手を引いてどこかに逃げるしかないか……


「……それならば」


 次の策を考えていると、モヤの奥から彼女のか細い声が聞こえた。


「はい、なんでしょうか?」


 脅かさないように穏やかな声で聞き返すと、彼女は顔を上げ、半歩こちらに歩み寄った。そして、モヤに包まれた小さな手を俺の胸元に置いた。

 ……こんな状況だというのに、彼女に触れられ、鼓動が早くなるのを感じた。



「それならば、私が貴方を傷つけたとしても、構わないと言うのですか?」



 彼女の手の感触を楽しんでいると、どこか悲しげな彼女の声が耳に入った。


 ……ああ、なんだ。

 そんな、簡単な方法で、証明できたのか。



「ええ。それで、何か貴女の気が晴れるなら、まったくもって構いませんよ」


「そう、ですか……」



 彼女の声と共に、胸の中央に鋭い痛みを感じた。 



「……ぐっ!?」


 痛みのあまり、口からうめき声が漏れ、呼吸が乱れ、視界が回転する。



「……これでも、さっきと同じことを言うのですか?」


 側頭部に衝撃を感じるとともに、上方から彼女の声が聞こえる。どうやら、倒れ込んでしまったようだ。回転する視線をなんとか動かして声のする方に目を向ける。すると、赤黒いモヤに包まれた彼女が、こちらを覗き込むように見下ろしていた。


「……ええ」


 辛うじて返事をすることができた。なんとか笑顔を作ったつもりだが、上手くいかなかったのだろうか?モヤの奥に、どこか悲しげな彼女の顔が見える。

 呼吸する度に胸がズキズキと痛むが、なんとか彼女を安心させなくては。


「俺はへ……いきで……す。だ……からっ……貴女は……どこか……安っ……全な……」


「まだ……そんな言葉で……私を騙そうとするのですか?それなら……」


 彼女は、悲しげな声でそう言いながら、右腕を振り上げる。

 どうやら、まだ彼女の気は済んでいなかったらしい。

 俺の命がつきることで彼女の気が済むのなら、それで良いのかもしれない。


「二度とそんな口をたたけないように……きゃぁっ!?」


 諦めを感じていると、回転する視界の中に、慌てふためく彼女の姿が映った。何かが顔の辺りに纏わり付いているようだが……あれは……蛾か……?



「残念だけど、もう時間切れよ」


 

 突然の蛾の襲来に戸惑っていると、年配の女性の声が聞こえた。

 この声は確か……


「後のことは、私達に任せていただきますわね」


 記憶を辿っていると、声の主は自ら俺の視界に現れた。黒尽くめの気難しい女性、株式会社真木花の烏ノ森マネージャーがこちらを見下ろしている。


「待……て。何……をすっ……る気……だ?」


 痛みを堪えながら問いかけると、烏ノ森マネージャーはこちらを馬鹿にするような笑みを浮かべた。

 ……あいかわらず、嫌な表情だ。


「別に?部下の不始末の責任を取りにきただけですわよ?」


 これは、止めないと、きっと彼女が……


「待っ……」


「さあ、一条さん、行きましょうか」


「うわっ!?」


 痛みを堪えながら立ち上がったが、突如として立ちこめた黒いモヤに視界が覆われた。


「一条……さん!?」


 彼女の名を叫んだが、返事はない。



「お前にはほんの少しだけ期待してたのに、このザマですか」



 その代わり、クソ生意気な垂野の声が聞こえた。


「……っ一条さん!」


 垂野の声を無視し、再び彼女の名を叫んだ。すると、黒いモヤは徐々に晴れていった。だが、モヤが晴れた先に彼女の姿は無かった。


「……葉河瀨、具合はどうだ?」


 その代わり、悲しげな表情をした日神が蛾を手にして立っていた。


「……見ての通り、最悪だ」


 日神の問いに答えながら、コートのポケットを探った。すると、幸いなことに、タバコとライターが揃って入っていた。取り出して一服すると、日神が大げさなため息を吐いた。


「その状態で、タバコなんか吸って大丈夫なのか?」


「……まあ、落ち着いてはきたが、煙を吸って吐く度、胸が痛むな。それでも、この状況で吸わずにいられないだろ」


「そういうものなのか。ともかく、吸い終わったら、ひとまず病院に行くぞ」


「ああ、そうだな」


 日神の呆れた声に生返事をしながら、喫煙を続けた。

 病院に行く、か。今日の予定は、随分と変わってしまったものだ。

 本来なら、彼女とシュークリームを食べに行くはずだったのに。

 そんな機会は、もう二度とこないのかもしれない……

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