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博士の尋常な苦情

 壁にかけられた時計を確認すると、時刻は午前十時半になっていた。午前中に今進めている製品の設計書を作り終えておきたかった。だが、液晶ポリマーの化学式で視界が騒がしく、なかなか集中できない。今日は何があっても定時で帰らないといけないというのに、なかなかままならないな。

 焦燥感を落ち着かせるために、背もたれに身を預けて深く息を吐いた。

 このままだとらちが明かないし、タバコでも吸いにいくか。そう思った途端、執務室と廊下を繋ぐドアが開いた。


「葉河瀨部長、ただ今戻りました」

「ただ今戻りましたー!」


 現れたのは、助川と手賀沼だった。そういえば、社長が主催の打ち合わせに参加していたんだったな。 


「ああ。おかえり。打ち合わせは、どうだった?」


 俺が呼ばれなかったということは、ろくでもない内容だったということは予想がつく。ただ、一昨日も二人に対して、社長から直々に仕事の依頼があったばかりだ。無茶な仕事をふっかけられているようなら、抗議しにいかないと。


「はい。葉河瀨部長、その件について、少しご相談が」


 心配していると、助川が思い詰めた表情でこちらに近づいて来た。

 どうやら、厄介な仕事をふられたようだな。手賀沼の方も、一昨日から実験室に籠もりきりだし、一服しにいくついでに、社長のところへ抗議をしに……



「葉河瀨部長、スリーサイズを教えていただけますか?」


「……は?」



 ……行く前に、部下に注意をしないといけないな。


「助川、部下から上司への発言だからセクハラにならない、というわけではないらしいぞ」


「そんなことは承知しています! しかし、ことは一刻一秒を争うのです!」


 やんわりと注意したが、助川は臆することなく真剣な表情で詰め寄ってくる。どうやら、ふざけているわけではなさそうだが、どうしたものか……


「助川っち、落ち着きなって! 葉河瀨部長が困ってるだろ」


 手賀沼が声をかけると、助川は足を止めて目を見開いた。


「……葉河瀨部長、まことに申し訳ございませんでした」


「あー、まあ、気にするな。どうせ、社長から何か無茶なこと言われたからだろ?」


 俺が問いかけると、助川は目を伏せて頷いた。


「そうなんですよ、葉河瀨部長! だから、助川っちを叱らないであげてください」


 落ち込む助川に、手賀沼がすかさずフォローを入れた。この二人は、なんだかんだで上手くいくコンビだと思う。


「そうだな。さっきの発言は聞かなかったことにしよう」


 俺の言葉に、手賀沼は笑顔を浮かべた。


「さっすが葉河瀨部長! 心が広い! ところで、ちょっとバストのサイズを思い浮かべて、その数字を繰り……」

「繰り返して六桁の数字を作り、3、7、13の順で割っていった数字を手賀沼に伝える。そうすると、手賀沼がその数字を17で割って最初に思い浮かべた数字にたどりつく、ということをしたいんだな?」


 見え透いた魂胆を口にしてやると、手賀沼は白々しく目を反らして口笛を吹いた。


「そ、そんなこと、なーいでーすよー」


「分かりやすいごまかしをありがとう。だが、そもそも、スリーサイズなんて測ったことないから、教えようがない」


 ため息まじりに手賀沼にそう伝えると、助川がなぜか凜々しい表情を浮かべて手を握りしめた。


「かしこまりました葉河瀨部長。俺に任せていただければ、一切の誤差なく正確に計測させていただきます」


 ……まあ、何に対しても真面目に取り込むところは、助川の長所だとは思う。だが、時と場合によるだろ。


「いや、別に知りたいと思ってないので、結構で……うわっ!?」


 丁重に断ろうとしたところ、いつの間にか背後に回った手賀沼に椅子の背もたれ越しに羽交い締めにされた。


「助川っち! 今のうちに巻き尺を用意するんだ!」


「手賀沼! 恩に着る! 葉河瀨部長、少々お待ちください!」


 ……まあ、部下たちの連携がとれているのは、良いことだと思う。だが、それこそ、時と場合によるだろ。

 部下たちの連携の良さに頭を悩ませていると、助川が思い詰めた表情で巻き尺を手に近づいて来た。


「こらー、いい加減にしないと、先生、怒るぞー」


「申し訳ございません。しかし、今回ばかりは譲れないのです!」

「すみません! お説教は後でいくらでも受けるので、今は助川っちの言うことを聞いてください!」


 適当にジタバタと動いて抵抗してみたが、部下たちに解放してくれる気はないようだ。参ったな、今日は記念すべき一条さんとの初デートだから寝癖を治してきたというのに、このままでは髪の毛が乱れてしまいそうだ。

 どうしたものかと思っていると、執務室のドアが再び開いた。


「葉河瀨、少し話が……」


 現れたのは、日神だった。

 日神は俺たちに目を向けると、呆れたような表情を浮かべた。


「……この緊急事態に、何をじゃれ合っているんだ、お前らは」


「じゃれ合っているのではなく、なぜか取り押さえられてるんだ。さては、お前がさっきの打ち合わせで、うちの部下たちに何か変なこと吹き込んだんだろ?」


 言いがかりをつけてみると、日神は眉間に深いシワを寄せた。


「そんなわけあるか。助川、手賀沼、緊急の打ち合わせだから、放してやってくれ」


 日神が声をかけると、手賀沼の腕は離れ、助川も巻き尺を構えた手を下ろした。


「緊急の打ち合わせだというなら、仕方ないですね」


「葉河瀨部長! すぐに戻って来てくださいね!」


「ああ、すぐ戻るから、お前らは自分の業務に専念しててくれ」


 二人に指示をすると、かしこまりました、という息の合った返事が返ってきた。ひとまず、日神のおかげで、イザコザから抜け出すことはできたようだ。

 

 それから、化学式に塗れた廊下を進み、会議室に移動した。向かい合って席につくと、日神の側に体温や脈拍の数値が浮かび上がって見えた。やはり、今日も発作が酷いようだ。


「悪いな、葉河瀨、急に呼び出して」


「別に構わないけど、スリーサイズは教えなくてよ」


 部内であったイザコザを考慮して釘を刺してみると、瞬時に日神の眉間にシワが寄った。


「何ふざけたことを言っているんだ」


 そして、もの凄く鋭い目付きで睨まれてしまった。これは、話を脱線させると、叱られてしまう感じだな。


「……すまん。それで、何の件についての話だ?」


 今、日神から俺に話があるとすれば、昨日話があったカスタマイズ案件か、今設計書を作っている製品の件か、もしくは……



「一条さんについての件に決まっているだろ」



 ……最も聞きたくない話を持ってきてくれたわけか。


「日神、月曜からしつこいぞ。これ以上うちの社員を呪わないという言質は本人からとれたし、月見野さんから説得は成功したという話も聞いた。それに、今日は体調も良いって、話をさっき本人から聞いている」


 だから、何か問題が発生しているはずはない。

 たとえ……


「それならいいけれども、葉河瀨、今朝何か見たりしていないか?」


 ……今度は、最も聞かれたくない話をしてくれるとは。


 たしかに、始業時間の少し前に、いたるところに赤錆色のモヤが纏わりついた何かを見た。

 突然のことで驚いたが、目をこらすと、そのモヤの中にいるのが一条さんだということが分かった。

 声をかけようとしたが、彼女は俺を睨みつけ、跡形もなく消えてしまった。

 そのせいで心配になり、思わず電話をかけてしまった。

 ただ、電話から聞こえる彼女の声は、とても晴れやかなものだった。


「……なぜ、そんな質問をするんだ?」


 今朝のことを思い出しながら問い返すと、日神は目を伏せてため息を吐いた。


「はい、か、いいえ、で答えないということは、何か見たんだな」


 察しが良い同僚で、何よりだ。


「それで、俺が何かを見ていたからといって、なんだって言うんだ?」


 挑発するように尋ねてみると、日神は苛立った表情を浮かべることなく、こちらの目を見据えた。



「悪いことは言わない。一条さんと二人で、今すぐどこかに逃げろ」


「……へ?」



 予想外の言葉に、思わず気の抜けた声を出してしまった。しかし、日神はそんなことを気にする様子もなく、真顔のまま話を進めた。


「さっき、真木花から一条さんが鬼になったという連絡を受けた」


 ……信じたくはない話だが、日神がこんな悪趣味な冗談を言う理由はないか。それに、体温や脈拍の変化も見えないから、本当のことを言っているのだろう。


「怪我人の対応をしているうちに取り逃がしてしまったということで、彼女が今どこにいるかは不明だ。居場所が分かり次第、俺も彼女の退治に協力することになる。だから、その前に」


 日神なりに、気を遣ってくれたわけか。もしくは、彼女に何かする際に、俺の邪魔が入らないようにするための罠か。


「有益な情報をどうも。だが、そんなことを俺に教えて、お前にどんな利益があるんだ?」


 問いかけると、日神の体温が少し下がったのが見えた。



「別に。ただ、大切な人がいきなりいなくなるなんて目に遭う奴は、少ない方が良いと思っただけだけれども?」


 

 日神の表情からも、体温からも、脈拍からも、血圧からも、嘘を言っているという兆候は見えない。ただ、悲しんでいる時の兆候が見える……どうやら、本心で心配しているようだな。

 大切な人がいきなりいなくなる、ね……俺だって、これ以上そんな思いをしたいとは思わない。

 それに、一条さんに何かあったのなら、今すぐにでも彼女の元に向かいたい。

 だが……


「日神、気遣ってくれたのは、ありがたいと思うよ。だが、一条さんがそれを望んでいない」


 昨日の告白がどんな結末を迎えたのかは、まだ知らない。それに、彼女を想う気持ちに、嘘偽りはない。だが、彼女が想っているのが、まだ俺ではないということだけは確実だ。だから、俺が向かったとしても、彼女の救いには……


「えぇい! 面倒くさいことを言ってないでさっさと行け! ムカデをけしかけるぞ!」

 

「分かった。今すぐ対応しよう。だから、袖口から赤い触覚をチラチラ見せているお方をしまってください、お願いします」


 慌てて謝ると、日神は満足げな笑みを浮かべた。


「よし、それで良い。周りには取引先のトラブル対応に向かったと伝えておくから、行ってこい」


 そう言ってくれるのは、本当にありがたい。だが、しかし……


「ん? 葉河瀨、何か不服そうな顔しているけれども、どうした?」


「いや、社内随一の面倒くさい奴に、面倒くさいと言われて、とても釈然としない思いになっている」


 俺の答えを聞くと、日神はいつになく爽やかな笑みを浮かべた。


「よし、葉河瀨。景気づけにムカデと戯れてから行くと良い」


「えー、ただ今不適切な発言があったことを、心よりお詫びいたします。だから、袖口でガシャガシャ音を立ててるお方を落ち着かせてあげてください」


 どうやら、またしても日神を怒らせてしまったようだ。

 当然な苦情だと思ったんだがな……

 ともかく、一刻も早く一条さんの元に向かおう。

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