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 そうと決まれば

 身支度を済ませて家を出ましたが、やはり昨日までの不調が嘘のように、体が軽いです。いつもより遅い時間のためか、道も駅も電車の中も空いていましたし、とても快適です。そのうえ、天気まで良いのですから、出社するだけだというのに、心が弾みます。

 それにしても、こんな晴れやかな気持ちで、最寄り駅から会社までの道を進むのは初めてかもしれません。今までは、いつも重苦しい気持ちで胸が一杯でしたから。

 

 遠巻きに嫌みを言う同僚達。


 一々つっかかってくる後輩。


 ことあるごとにヒステリックに叱りつける上司。


 三輪先輩がいて、垂野君がいなかった頃はまだ少しマシでしたが、今は気が重くなる要素ばかりですからね。まあ、この状況が変わっているわけではないのですが、全ては取るに足らないことに思えます。

 上機嫌に足を進めているうちに、会社に辿りつきました。自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り込み、執務室に向かいます。

 ときおり、すれ違った人が私を見て顔をしかめましたが、何故でしょうか?

 いえ、そんな些細なことを気にしていても、仕方ないですよね。


 それから、すがすがしい気分のまま、受付まで辿りつきました。そして、花瓶に飾られたピンク色の大輪の花が綺麗だな、なんて眺めていたのですが……


「一条先輩!?」


 ……運悪く、ドアから出てきた垂野君と鉢合わせてしまいました。

 それでも、気分はそれほど悪くなっていません。いつもなら、彼の顔を見ただけで、頭痛がするはずなんですが。体調が万全のときは、心にも余裕ができるものなんですね……


「その状態で、なんで普通に出社してるんですか!?」


 感慨深く思っていると、垂野君は私に近づいて喚き出しました。うるさくてかないませんが、無視するのも可哀想ですよね。


「なんでもなにも、体調が良くなったら出社するのは当たり前ですよね?」


 私が答えると、垂野君は深くため息を吐きました。


「だったら、体調が悪くなったことにして、ささっと帰ってください!烏ノ森マネージャーには、僕から話をつけますから!」


 ……出社して早々に帰れだなんて、この子は一体何様なのでしょうか?

 いえ、苛立っていても仕方ないですね。それよりも、こんなところで足を止めていないで、早く執務室に向かわないと。

 垂野君を置いていこうと考えていると、またしてもドアが開きました。


「垂野、うるさいぞ。何を受付で喚いているん……」


 そこから現れたのは、長い髪を一つにまとめたスーツ姿の女性……たしか、臥篭チーフですね。お客様のところに常駐していることが多いのですが、今日は出社される日だったのですね。


「垂野、これはどういうことだ?」


 臥篭チーフは、私の顔を見つめながら垂野君に話しかけました。どうしたのでしょうか?垂野君に話があるのなら、垂野君の方を見れば良いと思うのですが……いえ、私には関係のないことですね。今のうちに、執務室に入りましょう。


「それは、昨日の技術者サービス部門全体会議で、烏ノ森マネージャーから説明のあった……」


「ああ、これがか」


 ……いくら役職持ちの方だからといって、人を()()呼ばわりするのはいかがなものでしょうか?

 ……気にしていても仕方ありませんね。それよりも、早くしないと烏ノ森マネージャーに叱られてしまいます。


「待て。どこに行くつもりだ?」


 足を進めようとしたところ、臥篭チーフに制止されてしまいました。どこへもなにも……


「出社したら、執務室へ行くのは当たり前ではないでしょうか?」


「……っ!?」


 私が答えると、臥篭チーフは何故か怯えたような表情を浮かべました。一体どうしたのでしょうか?いつまでも、ここで足を止めているわけにいかないのですが……


「……貴様を自由にさせておくわけにはいかない」


 臥篭チーフはそう言うと、胸ポケットからお札を取り出しました。たしか、臥篭チーフは鳥を扱う技術者だったと思いましたが……元になった技術も習得していたのですね。


「……一条先輩!逃げてください!」


 感心していると、垂野君が臥篭チーフに飛びかかりました。そして、お札を持つ手にしがみついています。


「垂野!自分が何をしているのか分かっているのか!?放せ!」


「放せません!一条先輩、さっさと行ってください!」


 えーと……二人は何をイザコザとしているのでしょうか?

 逃げろと言われても、烏ノ森マネージャーには、出社する、と連絡してしまいましたし……



「こんなモノを野放しにするつもりか!?」



 ……これの次は、物扱いですか。

 折角、朝から良い気分だったのに、臥篭チーフのおかげで、台無しになってしまいました。

 まあ、仕方ないですよね。ご立派な役職を持った方からしたら、末端の私なんて取るに足らない物なのでしょう。ただ、もう少し言葉を控えては欲しいところではありますが。


「一条先輩!何をグズグズしてるんですか!?早く逃げてください!」


 ああ、垂野君の甲高い声が耳障りです。


「ええい!放せと言っているだろ!」


 臥篭チーフの高圧的な声も耳障りです。

 

「嫌です!業務命令でも、それは聞きません!」


 立ち入り禁止の区画を作るくらいしかできないくせに。


「業務命令だけではない!このまま野放しにしたら、至る所で由々しき事態が多発するぞ!」


 鳥と戯れることくらいしかできないくせに。


「それでも……だって!僕は、一条先輩の先輩のことが……」



  一条さんが、俺の意中の人だからですよ



 垂野君の叫び声に、何故か葉河瀨さんの声が重なりました。

 ……何故、今あの言葉を思い出すのでしょうか?

 あんな嘘つきの言葉を……


 ……ああ、もう。



「……煩わしいですね」



 私が呟くと、垂野君と臥篭チーフの騒がしい声が止まりました。


「貴様、今何と……ぐぁぁっ!?」

「一条先ぱ……ぎゃぁっ!?」


 それから、二人は汚らしい悲鳴を上げ、床にうずくまりました。

 まったく、蛍光灯と花瓶がはじけて、あちこちに破片が刺さったくらいで、大げさですね。

 呆れていると、ドアの向こうからバタバタと足音が聞こえて来ました。


「貴方達!一体何を……」


 それから、ドアが開くと共に、焦った表情の烏ノ森マネージャーが現れました。

 烏ノ森マネージャーはうずくまる二人を見ると、言葉を止めてしまいました。そんなに、驚くほどのことではないと思うのですが……


「……一条さん、これはどういうことなの?」


 どういうこと、と聞かれましても……


「私にもよく分からないのですが、二人のことを、煩わしいな、と思ったら、こうなりました」


「……そう」


 私が答えると、烏ノ森マネージャーはしゃがみ込んで、臥篭チーフの背中に手をかざしました。


「……一条さん、私はこの二人の手当をするから、貴方はこの場を離れなさい」


 烏ノ森マネージャーの言葉に、臥篭チーフの方が微かに震えました。そして、うめき声を上げながら、納得がいかない、と言いたげな目を烏ノ森マネージャーに向けています。

 ただ、それは、こちらも同じなんですよね。折角、気分良く出社したというのに、変な因縁をつけられたあげく、帰れと言われるなんて……

 いえ、たしかに、烏ノ森マネージャーの言うとおり、いつまでもここにいても仕方なさそうですね。なんだか、また煩わしい目に遭いそうですから。ここは、直属の上司のお言葉に、甘えることにしましょう。

 

「かしこまりました。それでは、私はお先に失礼いたします」


「ええ、そうしなさい。それと……」


 烏ノ森マネージャーはそこで言葉を止めると、深く息を吸い込みました。


「どこか、遠くへ行きなさい。できる限り、でいいから」


 遠くへ行け、ですか。

 無能な部下の顔なんて見たくない、ということなのでしょうか?

 ……でも、今まで見たことのないくらい、優しい表情をなさっていますね。

 よく分かりませんが、あまり気にしないことにしましょう。

 

「分かりました。善処いたします」


「そうしなさい」


 烏ノ森マネージャーの返事に頭を下げて、受付を後にしました。

 出来るだけ遠くへ行け、とのことでしたが、どうしましょうか。

 約束がなければ、気晴らしにふらりと旅行するのも良かったかもしれませんが……

 そうだ、約束が終わってから、どこかに行くことにしましょう。


 葉河瀨さんなら、あの二人よりも簡単に終わるでしょうし。

 

 十八時前後ならば、新幹線の終電よりもずっと早い時間帯ですしね。

 さあ、そうと決まれば、旅行の情報誌を探しに本屋さんにいってみましょう。

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