表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/104

博士の平常な近状

 見慣れた会議室の風景を、見慣れた数式や化学式が埋め尽くしている。

 心配ごとがある日は発作が起こりがちだったが、今日は特に酷い。


「以上が顧客から出ている要望だけれども……大丈夫か?葉河瀨」


 思わず目を閉じていると、訝しげな声が聞こえた。目を開くと、数式に紛れて、眉を顰める日神の顔が目に入った。日神の手には、顧客の要望をまとめた資料が握られている。そうだ、以前納品したソフトウェアのバージョンアップについて、打ち合わせをしているんだった。

 本当は、月見野さんに着いていきたかったが、きっと一条さんはそれを望まないだろう。

 それに、仮にも部門の長を務めているわけだから、仕事を放っておくわけにもいかない。

 目をこらしながら資料に目を通すと、機能別、優先度別に分けられた要望が記載されていた。日神が作る資料は、発作の最中でも見やすくて助かる。


「まあ、優先度が高い要望は対応可能だろうな。ただ、それ以外の細かい要望に対応するなら、一度俺も話を聞きに行った方が良さそうだな」


 質問に答えると、日神は気まずそうな表情を浮かべた。ひょっとしたら、また知らないうちに、顧客から出入り禁止を食らっていたのだろうか?


「いや、それならありがたいけれども、そういうことを聞いてるんじゃない」


「じゃあ、何を気にしていたんだ?」


 わけが分からずに問い返すと、日神は呆れたような表情を浮かべた。そして、聞こえよがしに深いため息を吐いた。


「体調は、大丈夫なのか?」


 そう尋ねる日神の表情は、実に不安げだ。やはり、日神に発作について話すのは、得策ではなかったか。

 朝一の打ち合わせで日神から、一条さんが呪いを使っていることに何故気づいたかを聞かれた。少し悩んだが、この状況で隠し事をして、一条さんに不都合なことが起こるのは避けたかった。

 だから、右目が義眼だということを伝えた。それと、普段見ている風景や、発作のことも。 


「たしかに発作は起こっているが、昼休みにでも仮眠を取れば大丈夫だろ」


「まあ、本人が大丈夫と言うのなら、良いけれども」


 投げやりに答えると、日神はどこか不服そうにそう言った。

 コイツは自分に余裕がないときでも人の心配をし出すから、厄介なことはあまり教えたくなかった。その性格のおかげで厄介ごとを一人で抱え込み、夏頃までは見ていられないくらい痛々しい姿に見えいた。まあ、今は心を許せる嫁さんにも出会えたみたいだし、あのときほど酷くはならないか。ただ、心配させたままにしておくのも、悪いか。


「そんなに心配なら、疲労した脳を癒やすための甘い物を、沢山持ってきてくれれば良いと思います」


「よし。それくらい軽口をたたけるなら問題無いな」


 日神はそう言いながら、爽やかな笑顔を浮かべた。安心してくれたなら何よりだが、少しだけ残念だ。あわよくば、大量の甘い物を手に入れられると思っていたのに……


「……仮にも部門長なら、甘い物を自分で買うくらいの、経済的余裕はあるだろ」


「えー、正義さん、酷いですー」


 苛立った表情をしていたので、嫁さんの口調を真似てみた。すると、日神は眉間にしわを寄せて、こちらを睨みつけた。


「だから、クオリティの低いたまよの真似をするな!」


 場を和ませようとしたのだが、またしても逆効果だったようだ。謝罪をすると、日神は呆れた表情を浮かべて、深いため息を吐いた。


「……ともかく、その要望に対応する場合の概算見積もりを出しておいてくれ。今日中に、たのめるか?」


「大丈夫ですよー、正義さん」


 懲りずに真似をしてみると、今度は無言で鋭い視線を向けられてしまった。これ以上からかうのは、やめておくことにしよう。

 

 日神に睨まれつつも、業務についての打ち合わせはつつがなく終わった。

 会議室を出ると、軽く目がくらんだ。廊下の暗がりが、全て数式や化学式で埋め尽くされている。


「……本当に、大丈夫なのか?」


 不意に、日神が足を止めて、不安げな表情をこちらに向けた。


「大丈夫、大丈夫。視界がいつもより理屈っぽいだけだから、気にするな」


「そんな言い回しをしたら、余計気になるだろ……」


 俺の答えに、日神は呆れた表情を浮かべて、深いため息を吐いた。


「辛いようなら、概算見積もりは明日以降でもかまわないけれども?顧客には、俺から説明するから」


 辛い、か。

 初めの頃はそんな風に思っていたのかもしれないが、もうそんな感覚も忘れてしまった。右目の視界を失ってしばらく立った頃……母親がいなくなってから、強弱はあるにせよほぼ毎日起きているからな。


「まあ、そこまでは必要ないよ。それに、社内にいれば、見えるのは数式とか化学式くらいだから」


 あの日から、仕組みが分かっている物については、その仕組みを説明する式が浮かんで見えるようになった。

 医者が言うには、失った視界を補おうとして脳が幻覚を見せている、と言うことらしい。

 幻覚と言う割には、かなり正確な式が見える。それに、とき一度読んだ本の内容や、クラシック音楽の楽譜なんかも見えたりする。だから、各種テストやコンクール等では、この発作が役に立つこともあった。

 ただ、仕組みが理解できないモノについては、場合によってはかなり気色悪い見え方もする。


「なら、良いのだけれども……その状態で、今の彼女に会っても平気なのか?」


 不意に、日神の不安げな声が耳に入った。

 なんてことを言うんだお前は、と言う言葉が口を突いて出そうになった。だが、その言葉は堪えておこう。間違い無く、こちらのことを心配しているのだから。


「もう、日神ってば心配屋さんなんだから。私達なら、大丈夫なのだわよ」


 茶化してみると、日神は脱力した表情を浮かべてため息を吐いた。


「どんなテンションをしてるんだよ、お前は」


「あら、私は平常運転なのだわよ?」


 更に茶化してみると、日神は、もういい、と呟いて、足早に営業部の執務室へ戻っていった。ふむ、突き放されてしまったようで少し淋しくはあるが、不安にさせたままよりはマシだろう。

 それにしても、今の状態で一条さんに会っても平気かどうか、か。

 一条さんの姿がどんなに恐ろしいモノに見えたとしても、逃げ出さない自信はある。

 ただ、そんな恐ろしいモノになってしまったら……


 辛い思いをするのは、一条さんなのではないのだろうか?


 ……せめて、昨夜大人しくしてくれていれば、そんな事態になるのは避けられているだろう。だが、今朝の月見野さんの話や、電話越しの彼女の様子だと……


「あ、ハカセー!丁度良いところにいた!」


 嫌なことを考えていると、不意に明るい声が耳に入った。振り向くと、カワウソ……もとい、川瀬社長が立っていた。


「お疲れ様です。何か、ご用でしょうか?」


 丁度良い、と言う言葉に若干の不安はあったが、なるべく平静を装って尋ねてみた。すると、川瀬社長は満面の笑みを浮かべ……


「あのね、スリーサイズ教えて!」


 ……どういうわけか、セクシャルなハラスメントを繰り出した。


「えーと、それを知って、何をするおつもりなのでしょうか?」


 脱力しながら尋ねると、川瀬社長は何故か得意げな表情で胸を張った。


「ふっふっふ!黙秘ー!」


 黙秘をするのに、何故そんなに得意げなのか気にはなった。だが、社長相手に細かいことを気にしたら、負けな気もする。ただ、代表取締役社長的な人物からのセクハラ行為に素直に屈するのは、仮にも中間管理職としていかがなものだろうか?


「祭!いきなりセクハラ発言をしないの!ハカセが困ってるでしょ!?」


「まーまー、部長。いきなりなのはダメだけど、必要な情報なんだから、仕方ないなりよ★」


 対応に悩んでいると、川瀬社長の後ろから聞き慣れた声が聞こえた。視線を向けると、白い毛並みのキツネと赤茶色の毛並みのタヌキ……もとい、管理部の信田部長と山口課長の姿があった。


「お疲れ様です。ところで、俺のスリーサイズが必要になるなんて、どんな状況なんですか?」


 脱力しながら尋ねると、信田部長はため息を吐き、山口課長は不敵な笑みを浮かべた。


「そうね、まずは事情を説め……」

「あのね。一条ちゃんが、山本を斃したの」


 信田部長の声を川瀬社長の声がかき消した。


 一条さんが、あの爺さんを……斃した?

 と言うことは、昨夜も……

 なら、一条さんは……


「心配しなくても、一条ちゃんはまだヒトだよ。かろうじて、だけどね」


 川瀬社長の言葉が、やけにハッキリと聞こえた。


「ハカセ、こんなところで仕事してていいなりか?まだヒトのうちに、姫っちに会いに行った方がいいなりよ?今日が、最後のチャンスなんだから」


 続いて、茶化しているのか本気で心配しているのか、判断が付かない山口課長の声が聞こえた。


「……まるで、明日には確実にヒトでなくなるような口ぶりですね?」


「だって、そうでしょ?残念だけど、今夜のお詣りが終われば、一条ちゃんはヒトじゃいられなくなるんだから」


 山口課長への問いかけに、川瀬社長が答えた。やけに冷静に、さも当然と言いたげな声で。

 殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、信田部長が悲しげな目をこちらに向けていることに気づいた。俺が視線を合わせると、信田部長は目を伏せて、首を横に振った。たしかに、ここで感情にまかせても、仕方がないか。


「……そうならないために、月見野さんが説得に行っているはずです」


 絞り出すように声を出すと、山口課長が深くため息を吐いた。


「まあ、月見野の声が届いてくれれば、それでいいんだがな」


 山口課長は低い方の声で、まるで吐き捨てるようにそう言って、俺に視線を向けた。

 まるで、お前が行け、とでも、言いたげな仕草だ。

 俺だって、今すぐにでも一条さんの側に行きたい。

 彼女を凶行に及ばせる要素がまだ残っているなら、それを取り除き、もう大丈夫だから、と声をかけたい。

 だが……


「……月見野さん以外に、一条さんを止められる人はいないじゃないですか」


 ……昨日かけた、俺の言葉は届かなかったんだ。

 なら、もう月見野さんに頼る以外の選択肢は、あり得ないだろ。


「ハカセ、山本社長に口を割らせたんだけど……」


 自暴自棄になっていると、諭すような信田部長の声が耳に入り……


「部長、それ以上は、言わなくて良いよ」


 川瀬社長の声が、それをかき消した。 


「……山本社長が、何を言ったというんですか?」


 問いかけると、川瀬社長は微笑みを浮かべて首を傾げた。


「今はまだ秘密!とにかく、スリーサイズを教えてくれる気になったら、いつでも連絡してね!明日の日付が変わるまでに分かれば、なんとかなるから!じゃあ、私はこれで!」


 社長はセクハラ的な発言を残し、軽快な足取りで社長室へ向かっていった。信田部長と山口課長も、何か言いたげな表情を浮かべながらも、管理部の執務室へ向かっていった。

 状況が芳しくない、と言うことは飲み込めた。

 だが、今は月見野さんによる説得が、上手くいっていることを祈るくらいしかできないか……

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ