立場
今日は始業前に日神君と二人で、葉河瀨部長から一条さんの件について少し話を聞く予定だったんだけど……
「大体、約束した時間を守るというのは、ビジネスにおいて基本中の基本だろ!?」
「超ごめんなさい。反省してまーす」
「本当に反省する気があるのか!?」
……葉河瀨部長が遅刻をして日神君がお説教をする、というイザコザが始まってしまった。たしかに、約束の時間に遅れるのはよくないけど、葉河瀨部長も一昨日から色々あったみたいだし、多少は仕方ないんじゃないかな。そんなことを考えながら、日神君に視線を送った。すると、日神君はこちらの視線に気づき、バツの悪そうな表情を浮かべて咳払いをした。
「まあ、起きてしまったことをこれ以上追及しても仕方ない。今度から気をつけろよ、特に客先相手のときは」
「はーい。気を付けまーす」
葉河瀨部長が抑揚のない声で返事をすると、日神君は疲れた表情を浮かべて軽く溜め息を吐いた。これで、話を進められそうだね。
「じゃあ、早速なんだけど葉河瀨君、昨日僕たちと別れたあと、一条さんは……」
どんな様子だった?
そう尋ねようとした瞬間、胸のポケットにしまった携帯電話から、大音量で着信音が鳴ってしまった。当然、二人の視線が僕に向かうことになった。
「会議中に、着信音を切らないのは、マナー違反だと思います」
葉河瀨部長が抑揚のない声でそう言うと、日神君が眉を顰めて深い溜め息を吐いた。
「葉河瀨、遅刻してきた奴がそのセリフを吐くな。たしかに、いきなり、寛永通宝を投げつけて事件を解決する時代劇の主題歌が流れて、気は抜けたけれども」
そうか、日神君もあの時代劇を知ってたのか。再放送か何かを観ていたのかな?
……なんて、ことを気にしている場合じゃないよね。二人に謝りつつ折りたたみ式の携帯電話を開くと、京子の名前が表示されていた。
要件はきっと……一条さんの件か、昨日社長が口にしていた件だよね。
「ごめんね。ちょっと、急ぎの用かもしれないから、打ち合わせは二人で進めていてくれるかな?」
僕の言葉に、二人はほぼ同時に頷いた。
どうも二人には二人なりの信頼関係があるみたいだから、僕が一緒にいるよりも話がうまく進むのかもしれない。二人に頭を下げて会議室を出ると、着信音は途切れてしまった。でも、すぐに折り返せば、きっと連絡はつくはず。
着信履歴から、京子の電話番号を選択し着信ボタンを押す。
「はい。烏ノ森です」
予想通り、数コールのうちに京子は電話に出てくれた。
「お世話になっております。月見野です。今、連絡くれた?」
「お世話になっております。ええ、今少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
スピーカー越しに聞こえる京子の声は、どこか張り詰めている気がした。この様子だと、一条さんに何かあったのかもしれない。
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
宥めるように京子に尋ねると、スピーカーの向こうで小さく息を吸い込む音が聞こえた。
「一条さんと連絡がつかないんだけど、昨日、一体何があったの?」
耳に入ったのは、予想以上に不吉な言葉だった。
一条さんと連絡がつかない?
たしかに、昨日は体調が悪そうにしていたけど……
葉河瀨部長の話だと、彼女はもう、こちらの社員を呪うつもりはないと言っていたはず。
なら、昨夜は早めに休めていたんじゃ……
「和順さん?」
考えを巡らせていると、不安げな京子の声が耳に届いた。ここで言葉に詰まっているわけにはいかないか。
「ああ、ごめんね。昨日だけど、本当は一条さんを説得したかったんだけど……急に山本社長がこちらにやってきて、話がうやむやになっちゃって、今日改めて話をしにいくことになったんだ」
「……山本社長が?」
怪訝そうな声で問い返す京子に、うん、と返事をした。すると、スピーカーから、深い溜め息が聞こえた。
「……そう。なら、川瀬社長のお話は、全く荒唐無稽というわけではないのね」
「川瀬社長の話?」
昨日、連絡を取りたい、って言っていた件だと思うけど、一体どんな話をしたんだろう?
「……単刀直入に言うと、私への仕事の依頼よ。技術者としてのね」
「そんな!?まさか、その話を受けたわけじゃないよね!?」
予想していなかった言葉に、思わず大声を上げてしまった。
京子の技術については、嫌と言うほど内容を知っている。
真木花に入ることを止められなかった僕が、とやかく言えた義理ではないのも分かっている。
でも、必要以上に、京子にあの力を使って欲しくはない。
「服務規程で副業は禁止されているから、今すぐに引き受けると言うことはないわよ」
「そうか、それな……」
それなら、よかった。
そう言おうとした言葉は、深い溜め息によってかき消されてしまった。
「ただ、今日明日で服務規程がどうこう言っていられない状況になるでしょうから、結局は受けることになりそうね」
言う京子の声は、諦念に満ちているように聞こえた。それと、とても悲しそうにも。
なら、すぐにでもできる限りの手は打たないと。
「その依頼というのは、僕が一条さんの説得に成功すれば、なかったことになるのかな?」
「……可能性はゼロじゃないとだけ、言っておくわ」
少しの間を置いて、京子は僕の質問に答えてくれた。
「なら、今から一条さんのところに行って、話をしてくるよ。連絡がつかないまま、一人にしておくわけにもいかないからね」
「別に私がとやかく言えることではないから、止めないけど……和順さん、あの子の住所は知っているの?」
「あ……」
京子の問いかけに、我に返った。
そうだ、一条さんの連絡先は知っているけど、住所までは知らなかったね……
「意気込んでいるところ悪いのだけど、さすがに立場上、本人に無許可で住所を教えるわけにはいかないわよ?」
「うん……そうだよね……」
冷ややかな京子の声に同意すると、スピーカーからまたしても深い溜め息が聞こえた。
せめて、最寄り駅が分かれば、連絡がつき次第会いにいくこともできるんだけど……
ああ、そうだ!
「えーと、葉河瀨君に一条さんの家の最寄り駅を聞いて、ひとまずそこまで向かってみるよ」
「葉河瀨部長に?」
僕の言葉に、京子は怪訝そうな声を上げた。
「うん。昨日、体調が悪い一条さんを最寄り駅まで送ってもらったから、聞いてみようと思って」
「そう」
スピーカーからは、何故か不服そうな声が聞こえた。
そういえば、一昨日も葉河瀨部長と京子が言葉を交わしたときに、少しとげとげしい雰囲気があったけど……二人は折り合いが悪いのだろうか?
いや、たしかに最近の京子は、誰に対しても薄らと棘のある言い回しを使ってはいるんだけど……
「……何か?」
京子に対して少し失礼なことを考えてしまっていると、スピーカーから迫力のある低い声が聞こえた。
「い、いや。何でもないよ、ただ、何か不満そうな声だったな、って思って」
失礼なことを考えていたことをごまかしながら答えると、そう、という短い声が聞こえた。そして、息を吸い込む音が続き……
「だって、あの方、取引先に長髪で来たり、ネクタイが曲がったまま来たり、寝癖のまま来たり、無精ヒゲの処理をしないまま来たりするのよ!?そんな身だしなみもままならない方に、あの子を安心して任せておけるないじゃない!?」
……とても感情的な声で、社員に対してお叱りの言葉をいただいてしまった。
うん、たしかに……葉河瀨部長の身だしなみへの無関心さは、弊社の課題ではあるよね……
でも、思いもよらぬところで、京子の本音が聞けたのは、少し嬉しかったかな。
「……何を笑っているのよ?」
「あはは、ごめん、ごめん。なんだかんだで、やっぱり京子も一条さんを心配してたんだなって思ったら、ちょっと安心してさ」
そう言うと、スピーカーから不機嫌そうな、ふん、という声が聞こえた。
「……葉河瀨部長の身だしなみのことは、一旦置いておきましょう。ともかく、私は社を離れるわけにいかないから、あの子のこと頼んだわよ」
「ああ。分かっているよ」
僕が答えると、スピーカーから、それでは、という声が響いた。そして、通話の切れる音が聞こえ、耳に届くのは微かなノイズだけになった。こちらも終話ボタンを押して、携帯電話を折りたたみ、胸ポケットにしまう。
川瀬社長と山本社長の因縁。
川瀬社長が製品開発部の二人に依頼した仕事。
連絡のつかない一条さん。
京子への技術者としての仕事の依頼。
不安要素は多いけど、戸惑って足を止めているわけにはいかない。
まずは、葉河瀨部長に一条さんの家の最寄り駅を聞かないとね。
両手で頬を軽く叩いて気合いを入れてから、会議室に向かって足を進めた。そして、ドアノブを捻って扉を開くと……
「何故それで、ココアに砂糖を大さじ五杯入れる事態になるんだ!?」
「仕方ないじゃないかー。他の人より、ちょっとだけ特殊な脳の使い方してるんだからー」
「そうなのかもしれないけれども、そんなことしてたら、体を壊すだろ!?」
「計算上、摂取した分のカロリーは確実に消費してるから、別に平気ですー」
……日神君と葉河瀨部長が、予想外の話題でイザコザしていた。
ココアに砂糖を大さじ五杯って……あ、そうか、無糖のココアに対してなら……いや、それでも入れすぎだよね……
入り口で脱力していると、二人はこちらに気づいて軽く頭を下げた。
「失礼いたしました、月見野部長」
「すみません、月見野さん。日神が俺の食生活に文句をつけてきたので、軽く口論をしていました」
葉河瀨部長が抑揚のない声で事情を軽く説明すると、日神君が鋭い視線を向けた。
……うん、よく分からないけど、深刻なイザコザではなさそうだね。
「とりあえず、葉河瀨君はもう少しだけ、食生活にも気を遣ってね?」
諭すように声をかけると、葉河瀨部長は肩を落とし、日神君は勝ち誇ったような表情を浮かべた。
この二人も、気が合うのか気が合わないのか、よく分からないところがあるね……いや、今はそのことを気にかけている場合じゃないか。
「ところで、葉河瀨君。一条さんに至急会いにいかないといけなくなったから、最寄り駅を教えてもらえるかな?」
僕の問いかけに、葉河瀨部長は眠たげだった目を見開いた。
「一条さんに、何かあったんですか?」
葉河瀨部長は不安が隠し切れない声で、そう尋ねた。
これは、一条さんと連絡がつかない、なんて伝えたら、取り乱してしまいそうだね……
「ううん、そう言うわけじゃないから安心して。ただ、今日も体調がちょっと悪くてお休みしてるみたいだから、僕の方から会いにいこうと思って」
僕が答えると、葉河瀨部長の顔から、血の気が引いていった。
これだと、言葉を濁した意味はなかったかな……
「……分かりました。今、ここからの乗り換え方法などを、お送りします」
後悔していると、葉河瀨部長は冷静な口調でそう言った。そして、ポケットからスマートフォンを取りだし、素早い指の動きで操作を始めた。
それから、すぐに僕の携帯電話から、メールの着信音が鳴り響いた。
「一条さんのこと、よろしくお願いします」
メールを確認していると、葉河瀨部長の声が耳に届いた。
顔を向けると、葉河瀨部長は最敬礼で頭を下げていた。
「うん。きっと大丈夫だから、そんなに思い詰めないでね?」
宥めるように声をかけると、葉河瀨部長は、そうですか、と言いながらゆっくりと頭を上げた。落ち着いてはいるようだけど、顔色は青いままだ。
たしかに、意中の相手が体に負担がかかることをしていた挙げ句、体調が悪いって聞いたら心配にもなるよね。
「葉河瀨君、もしも時間の都合がつくようだったら、一緒に来る?」
僕の問いかけに、葉河瀨部長は目を伏せて、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、遠慮しておきます。昨日、一条さんも、月見野さんと二人でお話をしたい、と言っていたので」
「そうか。なら、僕一人で行ってくるね」
葉河瀨部長の口から再び、よろしくお願いします、という、言葉が漏れた。
連絡がつくかどうかはまだ分からないけど、ひとまず最寄り駅に急ぐことにしよう。




