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博士の正常な日常

 目の前で、女性が両手で顔を覆ってうずくまっている。

 辺りを見ると、何の変哲もないリビングの風景が広がっている。

 なら、これは夢だと判断できるな。

 それに、このあと、この女性が何を言い出すか、予想もつく。


「もう、その目で私を見ないで……」


 ……ただ、予想できたからといって、最悪な気分になることには代わりないが。

 これ以上眠っていても休息は得られそうにないし、さっさと目覚めてしまおうか。


 目をきつく閉じてから開くと、シーリングライトのついた天井と、宙に浮かぶいくつかの化学式が目に入った。発作はいつもより酷いようだが、どうやら無事に目が覚めたようだ。

 再び眠りにつこうと目を閉じてみたが、眠気を全く感じない。ならば、このまま起きることにしよう。

 手洗いを済ませて洗面所で手を洗っていると、ラックに置いたデジタル時計が目に入った。回路図や、乾電池と液晶の化学式に紛れて、「3:00」という表示が読み取れた。

 

 彼女は今、穏やかに眠れているだろうか。


 ただ、それだけが気になった。

 

 彼女が同僚達を呪った理由は、はじめから分かっていた。

 彼女に会うたび、彼女が月見野さんの失敗談に触れるたびに、仕組みの分からない赤錆色のモヤが見えていたから。その後に、負傷した奴らの患部に同じ色の和釘が刺さっていたのだから、彼女が何かをしたということに、まず間違いはないということも。

 ただ、同僚達が負傷した場所から、殺意まではないだろうとも判断できた。だから、大した怪我にはなっていなかったし、彼女の気が済むまで放っておくことにした。アイツらなら、多少の事でどうにかなる程やわではないし、いざとなたら信田部長達もいるしな。まあ、さすがに吉田の事故と、昨日日神に向けた殺意には少し焦ったが……


  このまま呪いが続いたりしたら、一条さんにだって負担がかかるの


  鬼に成るに、決まってんだろ


 不意に、信田部長と山口課長の言葉を思い出した。

 彼女が誰かを傷つけたとしても、それで気分が晴れるのなら構わないと思っていた。ただし、彼女が誰かを殺めて、そのことで苦しむことになるのなら、話は別だ。

 だから、なんとか彼女を止めようとした。

 煩わしい相手を代わりに痛めつけることも厭わないと思った。

 まあ、日神に危害を加えるのはさすがに罪悪感があるから、命に別状がない範囲で倒れてもらったが……アイツ、まだ怒ってるかもしれないな。明日、間食用の羊羹でも分けてやるか。

 ただ、昨日の一件のおかげで、俺の言葉が彼女の耳にまだ届くということが分かった。だから、当初計画していたよりも早く、俺の気持ちを伝えた。

 まあ、俺の言葉よりも月見野さんの言葉の方が、効果があるのは分かってはいるが……


 深いため息を漏らしながら、水を止めた。顔を上げると、銀鏡反応の反応式に紛れて自分の顔が写っている。


 まぶたを閉じていても、不自然に窪んでいることが分かる右目。

 まぶたを開けば、そこにあるはずの眼球は見えず、代わりに無数の毛細血管が走る粘膜が現れる。


 さすがに三十年も見続ければ慣れもするが、他人から見れば奇妙に思えるのだろう。今まで親密な関係になった女性は何人かいたが、その中にこの目を見て悲鳴を漏らさなかった人間はいなかった。


  例えば、その右目についての思い出とか


 どこかから、夕方に会った爺さんの声が聞こえた気がした。

 仕組みはよく分からないが、どうやらあの爺さんは、気分が悪くなるようなモノを見せることができるようだ。ただ、わけの分からないものなど見慣れている。

 それに、わざわざ思い出させてもらわなくても、定期的に思い出している。まあ、あまり思い出したくはないが。

 ため息が溢れると同時に、肌寒さを感じた。ここにいても仕方ないから、リビングでココアでも飲むことにするか。


 ココアを淹れて読書でもと思い、リビングに移動した。だが、本の内容以外の情報量が多過ぎて、集中できない。やはり、今日は発作が酷いようだ。なら、もう一度眠れるか試した方が、まだマシか……


「ごめんね、明……でも、これ以上、その目に見られるのは耐えられないの!」


 ……目を閉じた瞬間、悲鳴じみた泣き声を上げながら、崩れる女性の姿が鮮明に映し出された。

 どうやら、眠るのも諦めた方がよさそうだ。

 

 右目を失ったのは、六歳の十一月だった。

 その当時、研究やら講演会やらで父が家を留守にすることが多く、母が淋しそうにしている姿をよく見かけた。だから、近づいていた母の誕生日に、何か気が紛れる物を渡そうと考えた。そのとき、母がよくレコードを聴きながら、これは父との思い出がある曲だ、と教えてくれていたのを思い出した。なら、その曲のオルゴールを作って渡せば、喜んでもらえると思った。

 昔から、何かを作ることが好きだったし、手先も器用な方だった。それに、オルゴールの仕組みも知っていたから、作り上げる自信はあった。実際に、オルゴールはそこまで苦労することなく、完成した。


 ただ、品質管理の意識が足りなかったのだろう。


 試しに鳴らしてみようと、ゼンマイを軽く巻き、手を離した。すると、オルゴールはジャズの定番曲を奏で始めた。我ながらうまくいったと思いながら、しばらくの間オルゴールの音色に聴き入っていた。


 だか、オルゴールの櫛歯が一本、突然弾け飛んだ。

 次の瞬間、視界の右側が赤茶けた色に染まり、鋭い痛みが走った。


 痛みのあまり、悲鳴でも上げていたのだろう。すぐに、バタバタとした足音、部屋のドアが勢いよく開く音、母の悲鳴が耳に入った。

 それから、病院に運ばれ、点滴を打たれたところまでは覚えている。多分、全身麻酔でも打たれたのだろう。意識を取り戻したら、涙を浮かべた母の顔が、いつもより狭い視界の中に見えた。母は、俺が意識を取り戻したことに気づくと、俺にしがみつき泣き声を上げた。

 そのときは、麻酔が切れたばかりで朦朧としていたのだろう。自分の身に起こったことも忘れて、母が泣いているのは父に会えなくて淋しいからだ、と考えてしまった。


「母さん。母さんが好きな曲のオルゴールを作りました。だから、もう泣かないでください」


 ……子供が片目を失った母親にかけるには、最悪の言葉だ。

 自分が怪我の原因だ、と言われているようなものなのだから。


 俺の言葉を聞いた母親は、ごめんね、と繰り返しながら泣き続けた。


 退院すると、家では父が待っていた。久しぶりに会った父は抑揚のない声で、気を付けろよ、とだけ言って、書斎に戻っていった。素っ気なくはあったが、それから家にいることが増えたから、父なりに心配はしていたのだろう。

 一方、母は以前と変わらないように、過ごしていた。


 ただ、不自然なくらいに、終始笑顔を浮かべていた。


 もともと穏やかな人ではあったが、それを差し引いても、どこか異常な気がした。それでも、気のせいだ、と自分に言い聞かせて、俺も以前と変わらないように過ごした。幸い左目の視力は残っていたし、義眼にもすぐに慣れたから、日常生活にそれほど不自由はなかった。しいて言うのなら、若干転びやすくなったくらいか。


 ただ、そんな生活も長くは続かなかった。


 右目を失ってから二ヶ月後、父が久しぶりに泊まりがけで遠方の講演会に出掛けることになった。家には、母親と俺の二人きり。

 はじめは、何事もなく過ごしていた。ただ、その日は乾燥が酷く、義眼を入れているのが辛かった。だから、いつもは寝る前にしか外さなかったが、夕食前に義眼を外してしまった。そのあと、すぐに母親から、夕食ができた、と声をかけられ、リビングへ向かった。

 リビングに向かうと、母親が笑顔で食卓に夕食を並べていた。母は、俺に気づくと笑顔をこちらに向けようとした。


 だが、すぐにその表情は青ざめていった。


 それから、母は泣き崩れ、これ以上俺の目に見られるのは耐えられない、と口にした。そして、フラフラとした足取りで、リビングを出て行った。母の後を追いかけたかったが、足が竦んでできなかった。だから、ひとまず一人で夕食をとり、後片付けをして、自室に籠もってひたすら父が早く帰って来ることだけを願っていた。

 翌日、予定より早く帰ってきた父に、昨夜起きたことを伝えた。すると、父は無表情に、分かった、とだけ言うと、足早に母の部屋に入っていった。その後について行きたかったが、母の言葉を思い出すと、それができなかった。だから、自室に籠もって、問題集を解いていた。

 どれだけ時間が経ったかは覚えていないが、問題集を全て解き終わる頃、自室のドアがノックされた。ドアを開けると、無表情な父が立っていた。


「明、母さんは、今から少し遠くに行くことになる。いつ戻るかは、まだ分からない」


「そうですか」


 そんな会話をしたことを覚えている。

 それから、父の言葉通り、母が家に戻ってくることはなかった。発作が始まったのも、この頃だった。


 昔を思い出しているうちに、ココアはすっかりと冷めてしまっていた。それにしても、我ながら辛気くさい話だ。覚えていたところで、何もメリットは無い。なのに、ことあるごとに、そのときのことが鮮明に思い出され、しばらくの間は最悪な気分になる。


 特に、義眼を外した姿を見た女性が悲鳴を漏らしたりすれば、確実に思い出すことになる。

 

 彼女にはじめて会ったとき、何となく母と雰囲気が似た女性だと思った。だから、彼女にだけは義眼を外した姿を見られないようにしよう、と思った。まあ、俺が客先に出向く機会は少ないから、取り越し苦労だとは思ったが。

 そんな折、人事評価システムのインストール作業に、終業後の真木花を訪れた。そのとき、運悪く発作が起こり、わけの分からないモノがそこら中に蠢いているのが見えた。慣れているとは言え、あまり大量に見えるとそれなりに体に負担がかかる。だから、誰もいないことだし、少しでも体にかかる負担を減らそうと、義眼を外した。


 そこに、運悪く彼女がやってきてしまった。


 彼女は俺を見ると、大きな目を軽く見開いた。

 これは、絶対に悲鳴を上げるな。

 そう思い、最悪な気分を紛らわすための甘い物を大量に買って帰るか、などと考えていた。


「あ、あの……救急車をお呼び……いたしましょうか?」


「……え?何故そんな事態になるんですか?」


 悲鳴を上げれられなかったことに戸惑い、我ながら間抜けな質問をしてしまった。

 何故も何も、目玉を手に載せてる奴がいたら、そう言うのも仕方ないだろう。


「で、でも……その……目が……」


「……ああ、これのことですか。別に、作り物なんで、気にしなくても問題ありませんよ」


「そうですか……あ、あの、でも……」


 彼女はそう言うと、柔らかな微笑みを浮かべた。


「私まだ少し作業があるので、何かあればこちらの内線に連絡をください。すぐに対応をいたしますから」


 悲鳴を上げるどころか微笑む彼女に、頭の中が更に混乱した。


「……お気遣いどうも」


 だから、短い言葉を返すので精一杯だった。


 それから、作業を終えて自宅に帰った。

 いつもなら、眠りにつく辺りで、嫌な記憶が強制的に鮮明に思い出されるはずだった。

 だが、目に浮かぶのは、彼女の柔らかな微笑みだけだった。

 おかげで、穏やかに眠りにつくことができ、最悪な気分になることもなかった。

 それから、しばらくの間は、眠る前に鮮明に彼女の微笑みが目に浮かび、発作が酷かったり、職場で心配事があったりしても、穏やかに眠れることができた。

 ただ、目が覚めると、胸の辺りが締め付けられるような感覚がした。

 

 それを恋だと自覚したのはつい最近だが、彼女には穏やかに過ごして欲し……



「……それで、遅刻した原因を聞こうか」


「日神君、葉河瀨君も色々と疲れているみたいだから、あまり叱らないでね?」


 目の前で、日神が爽やかな笑顔を浮かべ、月見野さんが苦笑を浮かべていた。

 発作のおかげで、日神の周囲に禍々しい色のモヤが見えるが、発作が起こっていなくても激怒していることは分かる。


「えー……眠れないのでリビングでココアを飲んでいたら、いつの間にか寝ちゃってたみたいで、気づいたら始業時間の二十分前でした。ごめんなさい」


 あれから、いつの間にか眠っていたらしく、目が覚めてから慌てて支度をして会社に向かった。だが、到着したのは、始業時間を十五分過ぎた頃だった。


「昨日、明日始業前に少し話したいことがあるって伝えたら、お前は、分かった、と答えたよな?」


 日神は相変わらず禍々しい爽やかな笑顔で、軽く首を傾げた。

 これは、俺が何を言って、月見野さんがどんなフォローを入れても、最終的に叱られるヤツだよな……

 まあ、正直に全てを話せば叱られることを回避できそうだが、二人にいらん心配をかけることになりそうだし……

 ああ、そうだ。


「ごめんなさい、正義さん。あとで、羊羹を分けてあげるので、どうか許してください」


「こんな緊迫した状況で、羊羹くらいで話が収まると思ったのか!?あと、クオリティの低すぎるたまよの真似をするな!……っ」


 日神は怒鳴り声を上げながら机を叩いたあと、顔を伏せて腰をさすった。


「日神君、あんまり怒るとまた腰痛がぶり返すかもしれないから、少し落ち着いて……」


「そうですよ、正義さん。あまり、怒るとおからだに触りますよ」


 声をかけてみると、鋭い目付きで睨まれてしまった。


「うん。葉河瀨君も、ちょっとだけ煽るのをやめようね」


 別に煽っていたわけではないのだが……

 ものまねというのも、品質が大事なものなんだな……

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