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糸切り歯

 高速道路を降りて下道を走り、なんとか会社の最寄り駅まで辿り着くことができた。打ち合わせの開始時間には間に合わなかったけど、今から会社に戻れば一条さんと話をする時間はできそうかな。

 そんなことを考えながらタクシーを降りると、胸のポケットで携帯電話が震えるのを感じた。確認してみると、一条さんからの連絡が届いていた。


  月見野様

  お世話になっております。一条です。

  打ち合わせが予定よりも早く終わったため、最寄り駅まで移動いたします。


 メールの内容は意外なものだった。

 今の状況を考えると、打ち合わせが長引くことはあっても、早く終わることはないと思っていたんだけどな……

 

「あ、月見野様」


「……お疲れ様です」


 訝しんでいると、突然声をかけられた。

 顔を上げると、困惑した表情の一条さんと、無表情な葉河瀨部長が目に入った。


「お疲れ様です。一条さん。打ち合わせは、早めに終わったそうですね」


 笑顔で声をかけると、一条さんはアタフタしながら頭を下げた。


「は、はい。急に予定が変更になってしまって、申し訳ございません」


「いえいえ。お気になさらないでください。今日は、元々急ぎの用もありませんでしたから」


 そう答えると、一条さんは、そうですか、と口にした。なんだか、いつもよりも声が弱々しい気がする。一条さんは活発なタイプではないけど……顔色も悪いし少しフラついているから、心配になるね。


「一条さん、かなり体調が悪そうですが、大丈夫ですか?」


「あ、はい。大丈夫で……」

「心配ならば、こんな所で話をしていないで、早く帰らせてもらえませんか」


 一条さんが答えようとすると、葉河瀨部長が抑揚のない声で言葉を遮った。そして、不機嫌そうな目で、僕を見つめている。いつもなら、眠たいのか苛立っているのか判断が難しいけど、今日は僕への敵意がひしひしと感じられる。

 たしかに、体調が悪いところに無理をさせるのは申し訳ないけど、今の一条さんをこのままにしておくわけにはいかない。


「一条さん、体調が悪いところ、すみません。ただ、少しだけでもお話をしたいのですが、いいですか?」


「例の呪いがどうの、という件についてですか?なら、先ほどの打ち合わせで、こちらの社員にはこれ以上何もしない、という言質をいただきましたから」


 僕の質問に答えたのは、一条さんではなく葉河瀨部長だった。葉河瀨部長はあからさまに不機嫌な表情を浮かべ、一条さんは困惑した表情を浮かべている。これは、凄く困ったね……でも、ここで引き下がるわけにはいかない。


「うん。その件が一段落してくれたのはよかったんだけど、でも少し話しておきたいことがあるから」


 怯むことなく伝えると、葉河瀨部長は少したじろいだ表情を浮かべた。

 このまま突き進んでしまったら、辛い目に遭うのは一条さんだ。そんなことは、葉河瀨部長だって望んでいないはず。

 真っ直ぐに見つめていると、葉河瀨部長は軽く目を伏せて、手を握りしめた。


「それでも……」

「あの、葉河瀨さん……私なら、大丈夫ですから」


 葉河瀨部長の言葉を遮ったのは、困惑した一条さんの声だった。


「少しふらふらはしていますが、今すぐにでも倒れてしまいそうなわけではありませんし」


 一条さんはそう言いながら、葉河瀨部長に向かって苦笑を浮かべた。葉河瀨部長は淋しげな表情を浮かべると、小さくため息を吐いた。


「一条さんが、そう言うのなら……」


 よかった、納得してくれたみたいだね。


「一条さん、ありがとうございます」


「あ、いえ……元はといえば、全て私のせいですから……」


 一条さんはそう言うと、悲しそうに目を伏せた。

 参ったな、別に一条さんを責めるつもりはなかったんだけど……ただ、まだ自分がしてしまったことに、後悔する気持ちが残っていたのは、不幸中の幸いかな。

 これなら、まだ引き返すことはできるはずだ。


「ひとまず、どこか落ち着ける場所に……」


 移動しましょう。

 そう言いかけた途端、周囲の空気が重苦しいものに変化した。慌ててあたりを見渡すと、僕たち以外の人の姿が消え去っていた。

 昨日、垂野君に遭遇したときと似た状況だけど、あのとは比べものにならないほど嫌な気配を感じる。


「これはこれは、月見野部長ではありませんか。ご無沙汰しております」


 不意に、背後からペタペタという足音と共に、しわがれた男性の声が聞こえた。振り返ると、着物を着込み杖をついた老人の姿が目に入った。老人は、微笑みながらこちらに向かってくる。

 たしかに、京子は、がこちらに向かうのを阻止する、とは言ってくれた。でも……


「お久しぶりです。山本社長」


 愛想笑いを浮かべて挨拶をすると、老人は微笑みながら軽く会釈をした。


「おやおや、こんな年寄りを覚えていてくださるなんて、月見野部長はお優しいですな」


「いやいや。取引先の代表を忘れたりはしないですよ」



 真木花株式会社の代表取締役社長、山本やまもと 万乗ばんじょう

 真木花を束ねる最高責任者。

 一見すると好々爺に見えるし、物腰も柔らかいけど、黒い噂が絶えない人物だ。

 京子の話だと、川瀬社長の命を狙っている、ということだったけど、まさか本人が直接現れるとは思わなかった。しかも、山本社長からは、隠すことなく殺気が放たれている。


「本日は、弊社に何かご用ですか?」


「いやいや。ちょっと、人を探していたんですが、このあたりにいる気がしましてね……」


 山本社長はそこで言葉を止めると、一条さんに視線を向けた。


「一条君」


「は、はい!」


 山本社長に声をかけられた一条さんは、緊張した表情で姿勢を正した。


「烏ノ森君から体調不良でお休みだと聞いて、心配したよ。でも、思ったより元気そうでよかった」


「はい……ご迷惑をおかけしました」


 一条さんがおずおずと頭を下げると、山本社長は笑みを深めた。


「いやいや。一条君も、毎日色々と大変だろうからね。それより、少し話したいことがあるんだけど、いいかな?」


 山本社長はそう言うと、軽く首を傾げた。

 まずいな……

 山本社長が一条さんを利用しようとしているのは、京子から聞いた。それなら、山本社長が一条さんを連れて行くのをなんとしても阻止しないといけない。単純な体力や格闘技の腕なら、僕の方が上だろうけど……山本社長からは、得体の知れない恐ろしさがにじみ出ている。



「失礼ですが、一条さんは体調が優れないので、日を改めてください」



 逡巡していると、抑揚のない声が耳に届いた。声の方に顔を向けると、葉河瀨部長が眠たげな目で山本社長を睨みつけている。山本社長は軽く目を開くと、再び微笑みを浮かべて葉河瀨部長の顔を見上げた。


「いえいえ。そんなに時間は取らせませんから。ね、一条君?」


 山本社長はそう言うと、再び一条さんに笑顔を向けた。対する一条さんは、戸惑った表情を浮かべている。


「少しの時間であれ……」

「体調が悪い人間を、アンタみたいな気色の悪いモノの側に連れて行かれるわけにはいきません」


 葉河瀨部長の抑揚のない声が、一条さんの言葉を遮った。その言葉を受けて、山本社長がピクリと眉を動かす。


「へえ。なかなか、威勢がいいではないですか。そういった若者は、嫌いじゃありませんよ。なにせ……」


 そして、鋭い犬歯が見えるほど口の端を吊り上げて笑った。



「……恐ろしい目に遭わせてやったときに見せる表情が、実に愉快ですから」


 

 その言葉と共に、あたりの空気が一層重くなる。

 葉河瀨部長は軽く目を開くと、あたりを見渡し煩わしそうにため息を吐いた。そして、不安げな表情を浮かべている一条さんの肩を、そっと抱き寄せた。

 これは、二人の距離は少しずつ縮まっているみたいだね……なんてことを考えている場合じゃないか。

 本来なら、葉河瀨部長が積極的になれたことを喜びたいところなんだけど、今は状況が状況だからね……


「おや?案外、驚かないんですね」


 若干呑気なことを考えていると、山本社長が挑発的な笑みを浮かべて首を傾げた。


「ええ。まあ、こういう類のモノは、見慣れてますから」


 山本社長の言葉に、葉河瀨部長が呆れた表情で答える。


「そうですか。それなら、貴方が心底恐ろしいと思ったものが見えたらどうなるのでしょうね?」


 山本社長はそう言うと、ゆっくりと杖を持ち上げた。そして、杖先を葉河瀨部長の顔に向けた。


「例えば、その右目についての思い出とか」


 山本社長の言葉に、葉河瀨部長が眉を顰めた。

 葉河瀨部長の、右目?

 時折、目薬をさしているところを見かけるけど、何かあるんだろうか?

 ……いや、今はそこを気にしている場合じゃないか。

 事情はよく分からないけれど、このまま山本社長の好きなようにさせておくわけには、いかなそうだね。 

 僕が勝てる相手だとは思えないけど、二人を逃がす時間を稼ぐことぐらいはできるはずだ。

 咄嗟に打撃の構えを取ると、山本社長がこちらに顔を向けた。


「おやおや、もう少しあちらの男性と遊びたかったのですが、月見野部長が相手をしてくださるのですか?」


 山本社長は、心底楽しそうにそう言った。でも、口元には笑顔を浮かべているけど、目付きは驚くほど鋭い。睨まれているだけなのに、冷や汗が止まらなくなるほどだ。


「そうですね。あまり、楽しんでいただけないかもしれませんが」


「月見野様!?」


 なんとか平静を装って答えると、不安げな一条さんの声が耳に入った。


「すみません、一条さん。今日は、葉河瀨君に送ってもらってください。お話は、また明日ということで」


 できる限り落ち着いた口調で伝えてみたけど、一条さんの表情は不安げなままだった。たしかに、この状況で不安になるなっていうのも、難しい話だよね。


「まあ。月見野部長が、何事もなく明日を迎えられ……」

「はい!その話、そこまで!」


 山本社長が脅迫じみた言葉を口にすると、どこからともなく女の子の声が響いた。

 その場にいた全員が、一斉に声のする方向に顔を向けた。

 そこには……


「お久しぶりです。山本社長」


 無表情な信田部長と……


「よ、山ン本。元気してたなりか?」


 笑顔を浮かべた山口課長と……


「山本!何か文句があるなら、私の所に直接来いって、いつも言ってるでしょ!」


 ……頬を膨らませた川瀬社長の姿があった。

 えーと、援軍が来てくれたのは心強いんだけど……

 命を狙われている本人が、直接出てきちゃって、大丈夫なのかな?

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