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降り場

 京子と結婚してから、仕事が驚くほど順調になった。

 個人別の売上金額は毎月トップになり、社長から直々にお褒めの言葉をいただくこと増えた。

 ……まあ、社長は誰に対してもざっくばらんな態度をとっているから、それ以前もよく直接話してはいたんだけどね。でも、当時は嬉しかったかな。

 ただ、仕事にかまけて、京子をないがしろにしているんじゃないか、という不安は常々持っていた。幸いにも、当時の上司は、優先できるときは家庭を優先しろ、という考えの人だったから、外出や接待がない日なんかは定時で上がらせてもらっていた。信田部長と山口課長にも、急用がないなら早く帰りなさい、とよく叱られていたっけ。

 そんな日々の中、予定していた接待がお客様の都合で急遽キャンセルになる、ということが起こった。今日はついていると思いながら、軽い足取りで帰路についた。

 家に帰ると、玄関には京子の靴の他に、女性ものの靴が一足置かれていた。

 京子の友人でも来ているのだろうかと思っていると、台所の方から話し声が聞こえた。ただいま、と声をかけながら玄関を上がると、話し声はピタリと止まった。そして、台所の扉がゆっくりと開く。


「あら、お帰りなさい、和順さん」


 姿を現したのは、僕の母だった。突然のことに呆然としていると、母の後ろから京子が困惑した表情を浮かべて顔を出した。京子は軽く頭を下げると、お帰りなさい、と消え入りそうな声を出した。その声の大きさが、母には気に入らなかったようだ。


「京子さん、一家の主が帰ってきたというのに、その態度は何なんですか?」


 母が厳しい表情で問いかけると、京子はうな垂れるように頭を下げて、すみません、と呟いた。母は昔から、挨拶やその他諸々の礼儀に厳しい人だったけど、妻をいきなり叱られるというのはあまり良い気分がしなかった。


「母さん。京子は母さんがいるから、緊張して声が小さくなってるんだよ。それよりも、何の用?」


 怒鳴りつけそうになったけど、京子の手前、やんわりと注意するだけにとどめて、話をそらすことにした。すると、母は笑顔を浮かべて口を開いた。


「和順さん、最近帰りが遅いじゃないですか。私が様子を見に来ても、留守のことが多いですし」


 母の言葉に、一瞬理解が追いつかなかった。

 様子を見に来ても留守のことが多いと言うってことは、今までも度々家に来ていたということだよね……

 

「平日は仕方のないことなのかもしれませんが、お休みの日まで留守のことが多いじゃないですか。なら、お家の居心地が悪からじゃないかと心配になって、京子さんに家事の基本を教えに来ていたんですよ」


 そう言った母の顔は、自分は良いことをしている、という自信に満ちあふれているようだった。

 その発言と表情に、怒りを通り越して気持ち悪さを感じた。


「仕事が忙しいってだけで、京子に問題なんて全くないよ。それに、僕たちも子供じゃないんだし、一々心配してもらわなくても大丈夫だから」


 僕の言葉に、母はあからさまに残念そうな表情を浮かべた。


「そう、それなら良いのです……ああ、そうだ。子供と言えば、二人とも、子供はまだなのですか?私もお父様ももういい歳なのですから、早く跡取りの顔が見たいと思っているのですが」


 母の発言に、京子の肩がビクッと震えた。

 自分の親ながら、デリカシーのない発言に頭が痛くなった。


「そういう話は、今度そっちに行ったときにするから。それよりも、今日はもう遅いんだから、帰った方がいいよ。今からタクシー呼ぶから」


 話をはぐらかしながら退場を願うと、母はまたしてもあからさまに残念そうな表情を浮かべて、そう、と返事をした。それから、すぐにタクシーを呼び、半ば追い返すように母を帰宅させた。


「……」


「……」


 母が帰った後、僕と京子は暫く無言で向かい合っていた。


「京子……ごめんね、今まで母が迷惑をかけてたみたいで……」


 恐る恐る声をかけると、京子は悲しそうに目を伏せながらも、ゆっくりと首を横に振った。


「別に、いいんですよ。お母様だって、和順さんと私のためを思っていたのでしょうから……」


「でも、あの話だと、結構な頻度で家に来ていたんでしょ?それに、家事の基本を教えるとか言ってたけど、何か嫌なことを言われなかった?」


 僕が問いかけると、京子は返事をする代わりに、口をきつく結んで顔を伏せた。その仕草から、相当厳しいことを言われていた、というのはすぐに分かった。

 それなら、これ以上母が京子に近づかないように、対策をしないといけない。



「……和順さんは、今、幸せですか?」



 絶縁も視野にいれて対策を考えていると、不意に京子が顔を上げて尋ねてきた。

 あまりにも唐突な質問に面食らってしまったけど、京子の真剣な表情を見て、これはすぐに答えないといけないと思った。


「うん。今のところ仕事も順調だし、京子が一緒にいてくれるから、幸せなんだと思うよ」


 僕が答えると、京子は安心したように微笑んだ。


「そうですか……なら、今のままで構いません」


「え!?でも、頻繁に家に来られて小言を言われるんじゃ、京子も辛いでしょ?」


 慌てて尋ねると、京子はゆっくりと首を横に振った。


「大丈夫ですよ。たしかに、厳しいご指導もありますが……先ほど言ったように、お母様も和順さんと私のことを思ってしていたのでしょうし、勉強になることもたくさんありますから」


 京子はそう答えると、どこか悲しそうに微笑んだ。


「そう……でも、流石に家に来る頻度は落とすように、僕から連絡するから」


 僕の言葉に、京子は、ありがとうございます、と言って微笑んだ。

 

 その後の日々も、相変わらず仕事は順調だった。

 母には、家にはあまり来ないように、と連絡をいれたけど、京子に確認をすると週に一度は訪問があるということだった。


「でも、以前より頻度は減りましたから」


 そんな言葉を、京子が苦笑を浮かべながら言ったことを覚えている。

 本人が納得しているのならそれ以上踏み込めないけど、気がかりなことには変わらなかった。

 いっそのこと、連絡もせずに引っ越しをしてしまおうかと思っていた矢先、京子から子供を授かったという報告を受けた。

 そのときは、凄く嬉しかったな。

 会社の面々にも報告すると、みんな自分のことのように喜んでくれた。いつも人のことをからかう山口課長も、茶化すことなく本当に嬉しそうに、おめでとう、と言ってくれた。それに、社長なんか、私が名付け親になる、って言い出して、信田部長に叱られていたっけ……


 ただ、そんな嬉しさも長くは続かなかった。


 母に対して思うところは多々あったけど、流石に報告しないわけにもいかないということで、京子と二人で実家に赴くことになった。

 報告をすると、母は満面の笑みを浮かべ、いつも厳しい顔をしている父の表情もほころんでいた。


「京子さん、本当におめでとう!」


 涙を浮かべながら喜ぶ母に対して、京子も穏やかに微笑んだ。


「はい、ありがとうございます」


 二人のやり取りを見て、母も京子のことを憎んでいるわけじゃなく、京子もそれを分かっているということが伝わった。これなら、案外上手くやっていけるのかもしれない。

 そんな甘いことを考えていた矢先、母がハンカチで涙を拭いてから、笑顔で首を軽く傾げた。


「ところで、赤ちゃんは男の子なの?」


「あ……えーと……すみません。まだ、初期段階なので、性別までは分からないんです」


 京子が戸惑いながら答えると、母は笑みを更に深めた。




「そうなの。なら、女の子だったら、すぐに堕ろしてくださいね」




 母の言葉に、耳を疑った。

 この人は何を言っているのだろう、と思っていると、母は笑顔のまま更に言葉を続けた。


「まずは跡取りを生まないといけませんからね。女の子は、その次でも大丈夫でしょ?京子さんはまだ若いのですから、すぐに次の子を産めるでしょうし」


 母の表情は、またしても、自分は正しいことを言っている、という自信に満ちあふれていた。

 母の隣に座る父に顔を向けても、その言葉が正しいというように、笑顔で頷いている。

 二人の様子に、吐き気がこみ上げてきた。

 そして、京子は……


「……」


 目を伏せ、口を噤み、肩をかすかに震わせていた。

 元々色白だった顔からは血の気が引き、真っ青になっている。


「……ふざけたことを抜かさないでください。京子、帰ろうか」


 震える京子の手を取って立ち上がると、母と父は目を見開いた。


「和順さん!急にどうしたのですか!?」


「めでたい場で急に席を立つとは何事だ!?」


 状況が飲み込めていない二人に対して、心底腹が立った。

 だから、卓袱台を掴んで、二人の頭上すれすれを通るように投げつけてやった。すると、二人は短く悲鳴を上げて身を屈めた。


「金輪際、僕たちに関わらないでください。跡取りが欲しいなら、門下生の誰かと養子縁組みでもすることですね」


 捨て台詞を吐いて、京子の手を引きながら部屋を後にした。後ろから何かわめき声が聞こえた気がするけど、内容はよく覚えていない。

 それから、タクシーを拾い、家路を急いだ。車内にいる間、京子はずっと真っ青な顔でうつむいていた。


「大丈夫だよ、京子。君のことも、お腹の子のことも、絶対に守るから」


 かすかに震える肩を抱きながらそう伝えると、ありがとうございます、という消え入りそうな声が耳に入った。

 

 たとえ何があったとしても、この肩を絶対に離さない。


 そんな青臭いことを考えながら、目に涙をためた京子の顔を見つめていた。



「あー。すみません。渋滞にはまってしまったみたいですね」


 不意に、タクシー運転手の声が耳に入った。

 ハッとして隣を見ても、京子の姿はそこになかった。どうやら、居眠りをして昔の夢を見ていたみたいだね……


「そうですか。それは、参りましたね」


 苦笑をしながら運転手に声をかけると、まったくですね、という相槌が返ってきた。

 お客様のところをなんとか抜け出したところまでは良かったけど、駅に辿り着くと車両故障で電車が軒並み運行停止になっていた。復旧までどのくらいの時間がかかるか分からなかったから、駅を後にしてタクシーを拾い会社に向かうことにした。それで、急いでいるから高速を使って欲しい、と伝えたわけなんだけど……


「平日のこの時間帯に、大規模な渋滞っていうのは珍しいですね」


 落胆しながら声をかけると、運転手もため息まじりに、そうですね、と相槌を打った。


「どうも、この先で事故があったみたいですね。どうします?次のインターで降りて、下道を使いますか?」


「そうですね……どちらが、早く着きそうですか?」


「まあ、渋滞がいつ解消するか読めないですが、下道の方が少し早いと思いますよ」


 じゃあそれで、と伝えると、運転手は、分かりました、と返事をして、カーナビゲーションを操作した。

 上手くいけば間に合うと思ったけど、日神君主催の打ち合わせに参加するのは難しそうだね……

 なら、せめて一条さんとの話し合いには、遅れないようにしないと。

 京子との約束を、今度こそ守るためにも。

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