近場
壁に掛けられた時計を確認すると、時刻は11時になっていた。さっきから管理部からいただいた今月の売上金額の数字を見ているけど、今月は特に大きな問題はなさそうだ。特出して成績が伸びた部署もないけど、大幅に目標を下回っている部署もないし……これならば、新製品の納品が終わって検収が上がれば、今期の目標は達成できるね。あとは、件のお客さまとの因縁に決着をつけられれば、安心して年を越せるんだけど……
昨日の訪問を思い出し、思わず溜息が漏れてしまった。
「大丈夫ですか?月見野部長」
溜息に気づいた部下が、コーヒーを手に心配そうに声をかけてきた。少しあどけなさが残る大きな二重の目が特徴的な背の高いスポーツ刈りの男性、早川 健君だ。
「あ、ごめんね早川君。大したことじゃないから、大丈夫だよ」
苦笑しながらごまかしてはみたけど、早川君は納得してくれなかったみたいで、コーヒーを自分の机に置くと僕の席までやってきた。
「でも、昨日は例のお客さまのところに行ってましたよね?」
「そうだね……」
言葉を濁すと、早川君は不安そうな目でこちらを見つめてきた。
確かに、元々は早川君が担当していたお客さまだったからね。諸事情により担当が日神君に変わり、最終的に僕が担当になったとしても気になるのは仕方ないか。
「……当初の予定通り、うちの会社としては、取引を縮小する方向で動いているよ。ただ、先方はあまり納得なさっていないみたいだけどね」
僕の答えに、早川君は、そうですか、と呟いて軽く目を伏せた。
自分が担当していた案件がこんなことになったのだから、落ち込むのも無理はないよね……でも。
「ほら、今回はあまり良いご縁じゃなかったってことだから、早川君が気にすることじゃないよ。それよりも、新製品の案件もそろそろまとまりそうなんでしょ?」
「あ……はい!」
新製品の話題に切り替えたところ、早川君は視線を上げて返事をした。表情からは、不安の色が消えている。
「なら、そっちに全力を向けないとね。早川君なら、きっと上手く行くからさ」
「ありがとうございます!全身全霊で頑張ります!」
早川君は良い笑顔でそう言うと、勢いよく一礼した。元気になってくれたみたいで、良かったよ。彼のように仕事に対するモチベーションも高くて結果も出している子が、過去のイザコザにいつまでも引っ張られるのは悲しいからね。部下たちのためにも、今回の件は僕がしっかりしないと……
決意を新たにしていると、早川君の胸ポケットから業務用スマートフォンの着信音が鳴り響いた。早川君は一礼してからスマートフォンを取り出し、素早く応答する。
「お世話になっております。株式会社おみせやさんの早川です。……え!?……それは申し訳ございません……はい、ではそのように……ありがとうございます」
そして、しきりに頭を下げながら会話をしている。顔色から判断すると、そんなに酷いトラブルではないと思うけど、大丈夫かな……
心配しながら見つめていると、通話を切った早川君はこちらに向かって苦笑をした。
「すみません。昨日、お客さまのところにペンケースを忘れてきてしまったみたいで」
……大した話じゃなくて良かった。でも、注意はしておかないとね。
「早川君、僕も人のことはあまり言えないけど、お客さまのところに行くときは気をつけようね?」
「申し訳ありません。以後、気をつけます」
早川君はそう言って、素直に頭を下げた。
「預かっていただいてるそうなので、これから取りに行ってきます」
「でも早川君、今日はこれから外出でしょ?昨日のお客さまだと、逆方向になっちゃうんじゃない?」
そう尋ねると、早川君はしまった、と言いたげな表情を浮かべた。うん、早川君は表情が分かりやすくて良いね。
「じゃあ今日は特段予定もないし、近場のお客さまだから、お昼に行くついでに受け取りに行って来るよ」
「え!?でも、それじゃ悪いですよ!」
「気にしないで。会議用の資料作りも一段落したし、たまには顔を出しておきたいからね」
笑顔でそう伝えると、早川君は、ありがとうございます、と言って深々と頭を下げた。デスクワークの息抜きに丁度良いかな、とちょっとだけ思ったことは内緒にしておこう。
「じゃあ、ちょっと行って来るから。あ、この件は日神君には内緒にしとこうね」
「はい!」
そんなやりとりをしていると、執務室のドアがガチャリと開いた。現れたのは、仕立ての良い細身のスーツを身に纏い、よく磨かれたポインテッドシューズを履いた、切れ長な一重の目と通った鼻筋が特徴的な人物……間違いなく、営業部第三課課長の日神君だね。
タイミングがよすぎる登場に、早川君と二人で呆然としながら眺めていると、日神君は怪訝そうな目をこちらに向けた。
「……何か?」
「べ、別になんでもないっすよ!ね、月見野部長!」
「う、うん!全然大した話じゃないよ!」
二人してしどろもどろになりながら答えてみたけど、日神君は疑わしそうな視線を逸らしてくれない。まあ、確かに怪しすぎる反応だったもんね……
「……すみません。さっきお客さまから、昨日俺が忘れ物をした、っていう連絡がありました……」
「ごめんね……デスクワークの息抜きを兼ねて、僕が取りに行くという話をしてたんだ……」
早川君と二人で観念して正直に話すと、日神君は穏やかな笑顔になる。良かった、そんなに気にしないでくれた……
「では、外出までの時間で、今回の件について原因と今後の対応策についてのミーティングをいたしましょうか」
……うん。日神君ならば、そう言うよね。
ひとまず、肩を落としている早川君と一緒に打ち合わせ卓に向かうとしようか。
日神君から昨日の社員証ホルダーの件も含めたお説教を受けた後、早川君と一緒に会社を出た。そして、向かう方向が逆だからと最寄駅で別れ、一人ホームで電車を待っている。
何気なく向かいのホームに目を向けると、薄手のコートを羽織った人の姿がチラホラと目につく。今年は夏が終わったら急に寒くなってきたから、僕もそろそろコートを出さないとね。でも、どこにしまってたかな……
「あれ?月見野さん、これからお出かけですか?」
コートのしまい場所を必死に思い出していると、後ろから声をかけられた。振り返ると、黒い薄手のコートに身を包んだ葉河瀨部長の姿があった。
「お疲れ様、葉河瀨君。ちょっと野暮用でね、葉河瀨君もこれから外出?」
「お疲れ様です。俺の方は午後半休を貰ったんで、本屋でも寄って帰ろうかなと」
葉河瀨部長は眠たげな目でそう言うと、小さくあくびをして盛大に寝癖のついた後頭部を掻いた。最近、新製品関係とか例のお客さん関係の仕事で、帰りが遅かったみたいだから仕方ないか。
「あ、良かったら昼メシ一緒にどうですか?ちょっと、ご相談したいこともあるんで」
「構わないけど、葉河瀨君が僕に相談事?」
意外な申し出に驚いていると、葉河瀨部長はまた小さくあくびをしてから、大したことではないですよ、と眠たげに答えた。でも、そう言われると、余計に気になってしまうよね。今期のご乱心シリーズは、クリア味噌汁で終わってくれたと思ってたんだけど、また何か思いついちゃったのかな……
そんな邪推をしているうちに電車がホームに着き、二人して乗り込んだ。通勤時間帯は乗車率がとてつもないことになっているけど、お昼の時間帯ということもあり二人とも座ることができた。天気の話などをしているうちに目的の駅に着き、お昼の場所を探し始めたんだけど……
「やっぱり、この時間帯だとどこも混んでるよね」
老舗の百貨店が軒を連ねる都内有数の商業地区ということもあって、どの飲食店もそこそこ人が並んでいる。
「まあ、仕方ないですよ。月見野さんのお時間が大丈夫なら、適当に並んどきましょうか」
「うん。お客さまには13時半頃って伝えてあるし、そうしようか」
そう答えると、葉河瀨部長はあくびをしながら頷いた。でも、混雑した店内で相談事というのは、大丈夫なんだろうか。
そんな心配をしながら、昼間は定食が有名な居酒屋まで来てみると、列の最後尾に並ぶ、緩やかなウエーブをした栗色の髪を一つに結び、丈の短いベージュのコートを着たスーツ姿の華奢な女性が目に入った。あの子は確か……
「一条さん?」
声をかけてみると、一条さんは悲しそうに伏せていた顔を上げて、長い睫毛をした大きな目を更に見開いた。
「つ、月見野様!?お、世話、になっ、ております!!」
一条さんは途切れ途切れになりながらそう言って、勢いよく頭を下げた。何か悪いことをしちゃったかな……でも、一条さんっていつもどこか思いつめたような表情をしてるから、放って置けないんだよね。
「こちらこそ、いつもお世話になっております。今日は外出だったんですか?」
「は、はい。烏ノ森から、本日いらっしゃるお客さまにお渡しするお土産の品を買ってくるように言われまして……」
慌てながら答える一条さんの手には、どら焼きが有名な和菓子店の紙袋が握られている。
「ああ、そこのどら焼き、美味いですよね」
隣に立つ葉河瀨部長があくび混じりにそう言うと、一条さんは苦笑しながら軽く頷いた。
「はい……でも、少し重いのが難点で……」
一条さんの言葉通り、彼女の華奢な手は指先まで赤くなっている。烏ノ森マネージャーも、重いものを持ってもらうならもうちょっと人選を考えてあげれば良いのに。
「それでしたら、順番が来るまでお持ちしますよ?」
「え……いえいえいえ!大丈夫です!このくらいなら問題ありません!」
僕の提案に、一条さんは大げさに首を横に振った。昨日も体調が優れなかったみたいだから提案してみたけど、ちょっとお節介だったかな。
反省していると、それに、という呟きが一条さんの口から漏れた。
「簡単なおつかいでさえも一人でできないなんてことが知られたら、烏ノ森に叱られてしまいますから」
見られる可能性がほぼない場所でもそんな言葉が出るということは、常日頃から色々と言われているのだろう。
彼女の言葉は、いつの頃からか人を責めるものばかりに変わってしまったからね……
「俺なら、そんなくだらないことで叱るような上司がいる会社、とっとと辞めて転職しますけどね」
烏ノ森マネージャーのことを考えていると、葉河瀨部長があくびをしながら一条さんに近づいて、手にしていた紙袋を取り上げた。
「あの……」
しばらく呆然としていた一条さんが声をかけると、葉河瀨部長は眠たげに瞬きをしてから本日何度目か分からないあくびをした。
「この駅なら御社からも離れてますし、見られる可能性は低いでしょ。そんな不毛なこと心配するよりも、重さに耐えられなくなって落としてしまう可能性の方が高いんだから、そっちの対策した方が良いですよ」
「そうですね……ありがとうございます……」
素っ気なく告げる葉河瀨部長に、一条さんは深々と頭を下げた。行動は親切なんだけど、もう少し言葉を考えた方が良いような気がするかな。一条さん、気を悪くしてなければいいけど……
「いらっしゃいませ、そちらは3名様でよろしいでしょうか?」
「えーと……」
葉河瀨部長の言動にハラハラしていると、店員さんが現れて一条さんに人数を確認しだした。一条さんは言葉を濁しながら、僕たちに視線を向けている。
「……ご迷惑でなければ……ご一緒にいかがですか?」
「そうですね……」
一条さんとご一緒するのは僕としては問題ないんだけど、葉河瀨部長の相談事というのは大丈夫かな?
「別に、俺は構いませんよ」
僕の視線に気づいた葉河瀨部長は、またしても素っ気なくそう言った。
「じゃあ、ご一緒させていただこうかな」
「ありがとうございます!」
僕が答えると、一条さんは満面の笑みで頭を下げた。うん、少しでも気分が晴れてくれたみたいなら良かった。今の烏ノ森マネージャーが上司なら、一条さんの毎日は厳しいものだろうからね……
そんなことを考えているうちに行列は進み、なんとも珍しい組み合わせでのお昼が始まることになった。