お会いできれば
午前中の業務は、寝不足と胸のざわつきのせいで、上手く集中できませんでした。幸いにも、来客は少なかったですし、突発的な書類作成や銀行振り込みもなかったので、なんとか滞りなく業務をこなせましたが……
そんなことを考えていると、隣の席から深いため息が聞こえました。
一時間ほど前に、張り詰めた空気の烏ノ森マネージャーと、不機嫌そうな顔の垂野君が執務室に帰ってきました。二人の間に漂うただならぬ空気を感じて、それまで業務連絡やちょっとした私語なども聞こえていた執務室は静まり返り……今はキーボードを叩く音と空調の音くらいしか聞こえません。他に聞こえるのは、垂野君の聞こえよがしなため息ばかりです。
月曜日の午前中からこうだと、気分がいつも以上に滅入ります……でも、あと五分でお昼休みですし、午後一には月見野様達がいらっしゃるので、いつまでも滅入っているわけにはいきませんね。
気を取り直して、午後からの予定を再確認しているうちに、パソコンの画面表示された時計が十二時丁度になりました。いつもはお弁当を持ってくることが多いですが、今日は用意できませんでした。週末に連続でお出かけするのは楽しかったのですが、体力が削られるのがなんてんですね……
「あれ?一条先輩、今日は外でお昼なんですか?」
軽くため息を吐きながら立ち上がると、垂野君がこちらに顔を向けて話しかけてきました。
「……はい。まあ、気分転換もかねて」
短く答えると、垂野君はニヤニヤとした表情を浮かべました。
「そうなんですか。一条先輩でも気分転換が必要なんて、意外ですね」
何故この子は、私に逐一つっかかって来るのでしょうか?
まあ、いつものことなので、気にしても仕方ないですね。
「そうですね。では、私はこれで」
そう答えて、鞄を手にして席を後にしました。垂野君はまだ何か言いたそうな顔をしていましたが、構っていても仕方ありません。
今夜は、あの子に釘を打たないといけませんから、この時間に休んでおかないと。
フラつきながらも社屋を出て、最寄り駅の近くにある喫茶店に入りました。混雑はしていますが、座ることはできそうですね。
サンドイッチとアイスティーを注文して、窓際のカウンターに腰をかけました。そういえば、先週の金曜日はこの席で偶然月見野様にお会いしたんでしたっけ……
今日も、午後一で弊社にいらっしゃるご予定ですから、お会いできれば幸せなのですが……
「……あの、隣の席、よろしいですか?」
夢見がちなことを考えながらアイスティーのストローを噛んでいると、背後から聞き覚えのある声がしました。慌てて振り返ると、黒い薄手のコートを羽織ったスーツ姿の葉河瀨さんが困ったように微笑んでいました。手には、スコーンとココアの載ったお盆を手にしています。お昼ご飯とはいえ、そのメニューは甘すぎるのではないのでしょうか?
……いえ、そんなことを考えている場合ではないですね。
「お世話になっております!よろしければ、どうぞ」
頭を下げて答えると、葉河瀨さんは微笑んだまま、どうも、と言って頭を下げました。
でも、どうしましょう……ストローを噛んでいるところを見られてしまいました……
「すみません。喫煙席が満席だったので……?どうしましたか?」
非常にお行儀の悪いところを見られてしまいうな垂れていると、葉河瀨さんは腰をかけながら、不思議そうな表情を浮かべました。
「……すみません。お見苦しい姿をお見せしてしまって……」
そう告げると、葉河瀨さんは一瞬キョトンとした表情を浮かべてから、薄く微笑みました。
「そんなことないですよ。むしろ、甘噛みしているモルモットみたいで、かわ……」
葉河瀨さんはそこまで言うと、急に咳払いをして眼鏡の位置を直しました。
「……ともかく、手持ち無沙汰の時にしてしまうクセは、誰にでもありますから」
「あ……ありがとうございます……」
慰めの言葉に頭を下げると、葉河瀨さんは苦笑しながら、いえいえ、呟きました。でも、モルモットについて言いかけたような気がしましたが……深く、追求しない方が良いのでしょうか……?
「ちなみに俺は、カプセルの入ったタバコのフィルターを部下の分まで潰して回って、叱られることが多々あります」
「そ……そうですか……」
……こちらの話も、あまり深く追求しない方がいいのでしょうね。でも、部門の責任者にそんなことをされたら、部下の方も大変ですよね……
おみせやさんの製品開発部の方々に対してお節介なことを考えながらサンドイッチを口にすると、葉河瀨さんはココアを一口飲んで薄く微笑みました。
「ところで、昨日かなりハイペースで走られてましたが、怪我とかはありませんでしたか?」
「……あ、はい。おかげさまで、大丈夫です。少しだけ、筋肉痛ではありますが」
サンドイッチを飲み込んでから答えると、葉河瀨さんは安心した様子で、そうですか、と呟きました。そして、スコーンをかじり、ココアを更に一口飲みました。見ているだけで、口の中が甘くなる気がします……
それこそ余計なお世話なのでしょうが、やっぱり、葉河瀨さんの食生活が少し心配になりますね。
「……何か?」
お節介なことを考えていると、葉河瀨さんは怪訝な顔をして首を傾げました。
「あ……いえ、葉河瀨さんは筋肉痛、大丈夫だったのかなと思いまして……」
えーと……これはこれで、お節介になってしまった気もします……
でも、葉河瀨さんは特に気分を介した様子もなく、そうですね、と呟いてスコーンを再び口にしました。
「今も多少は痛みますが、ピークは明日ぐらいでしょうね」
「そうですか……」
確か、普段激しい運動をする機会がないと、筋肉痛が遅く来るんですよね……
月見野様は、普段から運動を心がけているようでしたから大丈夫でしょうけど、少し心配です。もしも、弊社にいらっしゃった時に筋肉痛を発症してしまったら、烏ノ森マネージャーが何と言い出すか……あれ、そういえば?
「葉河瀨さん、今日は月見野様はご一緒ではないのですか?」
急に声をかけてしまったため、葉河瀨さんはスコーンが喉につかえたのか、慌てた様子でココアを飲みました。これは、申し訳ないことをしてしまいました……
「……失礼しました。月見野は、急用ができたため少し遅れるか、場合によってはそちらに伺えないかもしれません」
「……そうですか」
昨日は予想よりもお話しできなかったので、今日は少しでもお会いできればと思ったのですが……少しだけ、残念です。
「……ところで、昨日お話しした、シュークリームの件ですが、店はここからあまり離れていない所がいいですよね?」
「……!?あ、はい。そうですね」
肩を落としているところに、声をかけられてサンドイッチが喉に詰まるかと思いましたが、なんとか飲み込むことができました。今週は、葉河瀨さんの相談に乗るという大役もありますからね。今日のお詣りも成功させて、心配事が何もない状態で臨まなくてはいけません。
「お力になれるよう、しっかりと予習をしておきますので、よろしくお願いいたします」
「……何かが、すれ違っているようではありますが、こちらこそ」
葉河瀨さんは苦笑しながらそう言うと、軽く頭を下げました。ただ、笑顔がまた、どこか淋しげな様子だったので、少し心配です。意中の方と、何かあったのでしょうか……
その後、シュークリームの話などを交えたり、葉河瀨さんが喫煙席に一服しに行かれたりしながら食事を終えました。一人でゆっくりしようと考えていましたが、誰かとお話しするということも、気分転換になるのですね。
「葉河瀨さん。今日は一緒にいてくださって、ありがとうございました」
お礼の言葉を口にすると、葉河瀨さんはココアのカップを手にしたまま動きを止めてしまいました……
確かに、いきなりお礼を言われたら焦りますよね……
「す、すみません。少し心配事があって気が滅入っていたのですが、葉河瀨さんとお話ししていたら、気が楽になったので、お礼をと思いまして……」
事情を説明すると、葉河瀨さんはハッとした表情を浮かべてから、薄く微笑みました。
「ああ、そうだったんですか。一条さんのお役に立てたなら、何よりです。ただ……」
葉河瀨さんはそこまで口にすると、ココアを一口飲んでから一呼吸置きました。
「……あまり、お一人で抱え込まないでくださいね?例えば、弊社の誰かが何か失礼をしたということであれば、ご連絡いただければ、俺が何かしときますから」
そう言う葉河瀨さんの顔は、笑顔でしたがどこかぎこちない印象を受けました。そう言ってくださるのは、とても僥倖なのですが……
垂野君のことは、月見野様達の身に何かが起きる前に私が止めないと。
そう考えていると、葉河瀨さんの眠たげな目が、一瞬だけ見開かれました。
いけません。日々、つっかかってこられているせいか、垂野君のこととなると少し表情が硬くなってしまうみたいですね。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、今回は弊社の中での心配事なので、葉河瀨さんのお手を煩わせることはありませんよ」
笑顔で答えたところ、そうですか、という呟きと共に、葉河瀨さんは軽く目を伏せました。少し、素っ気ない対応になってしまったのでしょうか……
でも、昨日あんなにお世話になった葉河瀨さんを巻き込むわけにはいきませんからね。
その後、昼休みも終わりに近づいたので、喫茶店を出て弊社のビルへと向かいました。幸いなことに、信号待ちの時間もそれほどなく、十二時五十分に受付にたどりつきました。
そこまでは良かったのですが……
「……一条さん。何故鞄を持って、葉河瀨部長と一緒に受付にいるのかしら?」
偶然、受付の前を通りかかった烏ノ森マネージャーに、発見されてしまいました……
これは、あれですよね。お客様が早めにいらっしゃることも考えて、十分前には電話の前で待機するのが望ましいのに、何を十分前ピッタリな上にお客様と同時に戻ってきているの、というお叱りが来るやつですよね……
いえ、おっしゃりたいことはごもっともなので、お叱りを受けても仕方ありません。
「まことに申し訳ございま……」
「ああ、申し訳ございません。それは、全面的に私のせいですね」
謝罪の言葉は、葉河瀨さんの声によって遮られました。途端に、烏ノ森マネージャーがギロリとした目を葉河瀨さんに向けます。
「……と、おっしゃいますのは?」
「道に迷っていたところで一条さんに偶然お会いして、御社まで案内していただきました。途中、私が喫煙所に寄り道しなければ、一条さんはもう少し早く戻ることができたと思います。ですので、彼女にとやかくおっしゃるのは、筋違いも甚だしいことかと思いますよ」
睨みつけるように問いかける烏ノ森マネージャーに怯むことなく、葉河瀨さんは淡々とした口調で答えました。
……別に道に迷っていらっしゃる様子ではなかったので、私をかばってくださっているのでしょう。このままでは、烏ノ森マネージャーの怒りの矛先が、葉河瀨さんに向かってしまいます……
事実を申し上げたいのですが……葉河瀨さん、口を挟むのがはばかられるくらいに、怖い表情をなさっていますね……
対応に悩んでいると、烏ノ森マネージャーは軽く目を伏せて、小さくため息を吐きました。
「でしたら、この件について私から申し上げることは何もございません」
どうやら、烏ノ森マネージャーはひとまず納得してくださったようです。
イザコザが発生しなかったのは何よりなのですが、葉河瀨さんには改めてお礼とお詫びをしなくてはいけませんね。
「ところで、本日は御社の月見野部長はいらっしゃらないのですか?予定では、お二人でいらっしゃると伺っておりましたが?」
烏ノ森マネージャーが表情をいくらか和らげて尋ねると、葉河瀨さんの表情も元に戻りました。
「そうですね。急なことで申し訳ございませんが、月見野の部下が交通事故に遭ったため、その対応で少し遅れるそうです」
……月見野様の部下の方が交通事故?
それって……吉田さんなのでしょうか……?
確かに、少しだけ痛い目に遭えばと思ってお詣りをしましたが……
まさか、交通事故だなんて……
私は、そんなつもりじゃ……
「一条さん!?」
グルグルと回る視界の中に、葉河瀨さんの焦った表情がうつりました。
端の方には、青ざめた表情の烏ノ森マネージャーが見える気がします。
「……っ一条さん!?お客様の前で何を倒れているのよ!?」
「部下が倒れたってのに、その言い方はないだろ!?さっさと、救急車を!」
大丈夫ですよ葉河瀨さん……ヒステリックに聞こえますが、これでも心配しているときの声ですから……
そう伝えたかったのですが……唇が動かせそうにありません……




