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蝸牛角上の争い

 朝が来たと思って目を開けると、部屋の中に違和感があった。


 壁に貼られたカタツムリの絵。


 ベッドの枕元に置かれたカタツムリ型の目覚まし時計。


 勉強机に置かれた紙粘土細工のカタツムリ。


 タンスの上には、カタツムリのぬいぐるみと写真立て。


 これは、私が幼いときに過ごしていた部屋だ。

 

 ということは、夢を見ているんだ。

 最近、この夢を見ていなかったから安心していたのにな……


 一人で落胆していると、子供部屋のドアがノックされた。

 返事をすると、ドアはカチャリと開いた。

 そこから、一人の少女が現れる。

 

 後ろで一つに結わかれた長い黒髪。

 

 灰色のセーラー服。


 少し悲しそうな表情をした綺麗な顔と、右目の目元にある青黒い痣。

 

 そこに立っていたのは間違い無く、ずっと昔に亡くなったはずの私の姉だった。

 姉はベッドの側までやって来ると身をかがめて、寝ている私の額に、そっと手を当てた。


「舞、まだちょっと熱っぽいから、今日も学校はお休みかな?」


 姉の問いかけに、私は無言で頷く。

 

「学校にはあとで連絡をしておくから、ゆっくり休んでてね」


 姉は私の額を撫でながら目を細めて、優しく声を掛けた。

 この日は、前の日の夜に熱を出して、一日ベッドで寝込んでいた。

 たしか、この後また少し眠って、目が覚めたら用意されていたおかゆを温めて食べて、それから両親と姉を一人で待つことになるんだったかな。

 そんなことを思い出していると、姉は腕時計に目をやってかがめていた身を起こした。


「じゃあ、私はそろそろ出かけるから、舞は良い子でお留守番しててね」


 姉はそう言うと、ベッドの側から立ち去ろうとした。

 思わず、私は姉のスカートの裾を掴んだ。

 すると、姉は脚を止めて、困ったように笑いながら再び身をかがめた。


「大丈夫だよ。コンクール用の絵も完成したし、今日は早く帰って来るから」


 姉は、本心からそう言っているのだろう。

 

 でも、その言葉は嘘になってしまうことをもう知っている。

 

 この日、姉は帰ってこなかった。

 次の日になっても、その次の日になっても。

 それからしばらく経てば、何故か姉の葬儀が行われてしまう。

 だから、このスカートの裾を放したくなかった。


 無言でスカートにしがみついていると、姉は私の頭をそっと撫でた。


「一人にして、ごめんね。でも、もう行かないといけないから」


 悲しげな姉の声に、必死で首を横に振る。

 無駄なことだと分かっているけど、姉を引き留めたい。

 それが無理ならば、せめて一緒に……

 

「……舞は、私がいなくても、もう大丈夫でしょ?」


 姉は諭すような声でそう言って、軽く首を傾げた。


「だから、まだ、私について来ちゃだめだよ」


 姉にしがみつこうとして跳び起きると、部屋の様子はすっかり変わっていた。


 壁に貼られたカタツムリの写真と、全国でんでん虫を愛でる会作成のカタツムリのカレンダー。


 化粧道具が並べられた鏡台。


 スーツの掛かったハンガーラック。


 間違い無く、現在の私の部屋だ。 

 夢から覚めたのは良かったけど、なんで今更あのときの夢を見るかな……

 軽くため息を吐いていると、部屋のドアがノックする音が聞こえた。

 伸びをしてからベッドを降りてドアを開けると、エプロン姿の夫が和やかな表情で立っていた。


「おはよう、舞。朝ご飯ができたから、起こしに来たよ」


「おはよう、優也ゆうや。うん、ありがとう。今から行くね」


 返事をすると、夫は不安そうな表情で私の顔を見つめた。笑顔でいたつもりだけど、何か違和感があったみたいだ。夫も、日々カタツムリの世話をしているから、洞察力が鋭いんだよね……


「体調悪そうだけど、大丈夫?辛そうなら、今日は仕事お休みしたら?」


「うん、ちょっと怖い夢を見ただけだから、大丈夫だよ。それに、今日はお客様のところに直行だから」


 心配する夫に向かってそう答えると、頭を撫でられた。撫でてくれるのは嬉しいけど、坊主頭を撫でて手のひらが痛くならないのか不安になる。


「それなら、ご飯を食べて元気出さないとね。じゃあ、用意して待ってるから」


 夫はそう言うと、リビングに向かって行った。

 夫の後を追って歩き、カタツムリ達の水槽に囲まれたリビングに入る。朝ご飯を並べてもらっている間に、水槽の中に霧吹きをしておこう。この時期は乾燥するから、湿度を保ってあげないと。


「舞、ご飯の用意ができたよ」


 全ての水槽に霧吹きを終え、朝ご飯用の野菜を取り替えたところで、夫から声が掛かった。霧吹きをしまって、一度手を洗ってから食卓に着くと、バランスのとれた朝食が目の前に並んでいた。


「いつもありがとう。いただきます」


「いえいえ、どうぞ召し上がれ」


 手を合わせて頭を下げてから、食事を始める。夫は私よりも出勤時間が遅いので、朝食の担当をしてくれているから、いつも助かるな。


「まい、ちょっと良い?」


 そんなことを考えていると、夫が心配そうな表情で声を掛けてきた。


「うん、どうしたの?」


「えーと、さっき言ってた怖い夢って言うのは……ひょっとして、お姉さんのこと?」


 気まずそうな夫の質問に、思わず箸を止めてしまった。


「……うん」


 頷くと、夫は不安げな表情でこちらを見つめてきた。


「そっか……だったら、ちょっと心配だな。舞がお姉さんの夢を見るときって、会社とか愛でる会とかの人間関係でトラブルがあるときが多いでしょ?」


「たしかにそうだったけど、愛でる会の方は、今のところ新規加入者の減少以外に大きな問題もないし……会社の方も、上司とのイザコザは夏にけりがついたから、特に大きな問題は……」


 ない、と言おうとしたけど、言葉が止まってしまった。

 そういえば、昨日、新たなトラブルの火種になりそうなことに、図らずも首を突っ込んでしまったんだっけ……

 思わず大きなため息を吐くと、夫もおろおろとした表情で箸を止めてしまった。


「ごめん、ごめん。そんなに深刻な話じゃないから、心配しなくても大丈夫だよ」


 自分に言い聞かせるようにそう言うと、夫はホッとした表情を浮かべた。

 取引先の女性が自分の部の責任者に片思いをし、仕事柄連携を取らないといけない製品開発部の責任者が片思いをし、自分の部の責任者は彼女が製品開発部の責任者に片思いしていると勘違いし、彼女は製品開発部の責任者が他の女性に片思いをしていると勘違いしている……

 

 深刻な話じゃない。

 

 全然、深刻な話じゃない。

 

 でも……


 ややこしすぎる。


 もしも月見野部長と葉河瀨部長がギクシャクしたりしたら、私達の仕事にも絶対影響が出るだろうし……


 思わず再び盛大なため息を吐いていると、夫が苦笑いを浮かべた。


「まあ、深刻な話じゃないんなら、舞がそこまで気負わなくても良いんじゃないかな?」


「うん……そうだね」


 夫の慰めの言葉に力なく返事をしてから、再び箸を進めた。


 食事を終えて身支度を調え、夫に見送られながら家を出た。家から近いお客様への訪問だったため、遅刻をすることなく予定通りにたどり着くことができた。それに、全国でんでん虫を愛でる会で長くお世話になっている方だったこともあって、話がこじれることもなく新製品の説明をすることができた。感触も悪くなかったから、正式な受注までこぎ着けられるように頑張らないと!



 「……貴女さえ、現れなければ」


 意気込みながら、お客様の所から最寄り駅までの道を歩いていると、不意に背後から誰かの声がした。

 驚いて立ち止まり振り返っても、背後には誰もいなかった。

 

 空耳……なのかな?

 でも、それにしてはハッキリ聞こえたような……

 それに、さっきの声、どこかで聞いたことが……


 そんなことを考えていると、背後から急ブレーキ、クラクション、衝突音が聞こえた。


 音の方を見ると、自動車が蛇行しながら対向車やガードレールにぶつかって、こちらに向かってきている。


 ……これって、多分もう避けようがないんじゃ……

 


  ひき逃げに遭ったらしく俺が駆け寄ったときにはもう手遅れだった


 

 不意に、夏に日神課長から教えていただいた、姉の最後についての言葉を思い出した。

 姉妹揃って交通事故なんて、お父さんとお母さん、また泣き通しになるんだろうな……

 日神課長もご結婚なさって、ようやく吹っ切れたのに、また塞ぎ込むかもしれないし……

 それに、優也ともっと一緒にいたかったのにな……


「危ない!」

 

 変に冷静になりながら目を閉じると、女性の声とともに予想していた方向と別の方向から衝撃を受けて吹き飛んだ。その直後に、先ほど立っていた場所から轟音が響いて、油の臭いが立ちこめる。

 尻餅をついてしまって尾てい骨の辺り痛みを感じるけど、それ以外の痛みはないみたいだから生きていると思うけど……

 恐る恐る目を開けると、目の前には灰色の着物を着た姉が、心配そうな表情を浮かべてしゃがんでいた。


 ……宣言撤回、ご臨終してしまったみたいだ。

 

 痛みがそんなになかったのは良かったけど、せめて優也とカタツムリ達にはもう一目でもいいから会いたかったな……それに、来月開催される「全国でんでん虫を愛でる会」主催の「第十六回でんでん虫プレゼンテーションコンテスト」で、うちの子達の可愛らしさを存分にプレゼンしたかったのに……


「……あの、大丈夫ですか?舞さん」


 後悔の念に駆られていると、姉は眉を顰めながら首を傾げた。

 何か、呼びかけがやけによそよそしいような……

 目を擦ってからよく見直すと、姉だと思った顔は上司の奥様のものだった。姉とよく似ているけれど、目元にあるはずの青黒い痣がない。


「たまよ……さん?」


「はい。おっしゃる通りです。夫が、いつもお世話になっております」


 呼びかけてみると、たまよさんは微笑みを浮かべてからペコリと頭を下げた。


「それよりも、お怪我はありませんか?」


「あ……はい!おかげさまで、助かりました!ありがとうございま……痛っ!?」


 いつまでも倒れ込んでいる訳にはいかないので立ち上がろうと地面についた手に力を入れたら、鋭い痛みが両手に走った。確認してみると、両手のひらに盛大な擦り傷ができていた。尻餅をついたときにできてしまったのかも……

 手のひらの擦り傷はたまよさんの目にも映ったようで、彼女は睫毛の長い大きな目を見開いて驚いた。


「大変!えーと、ちょっとだけ待ってくださいね!」


 たまよさんはそう言うと、肩から提げた和柄のポシェットを開き、中身を探り出した。そして、ダイオウグソクムシの形をしたポーチを取り出して、ニッコリと微笑んだ。


「正義さんから、お買い物の途中で怪我をしたときのための手当セットを持たされているので、今手当しますね」


 ……日神課長、過保護にも程があるでしょうに。

 それに、奥様にダイオウグソクムシの形をしたポーチを渡すのもどうかと……

 でも、おかげで応急手当をしていただけるんだから、脱力している場合じゃないか。


「ありがとうございます!助かります!」


「いえいえ、お気になさらないでください」


 たまよさんはそう言いながら、ポーチから大きな文字で「しみない!」と書かれた子供用の消毒液を取り出した。

 やっぱり、日神課長は過保護だと思う……

 

 そんなことを考えていると、背筋の辺りにざわざわとした気配を感じた。


「なんだ……大した怪我にならなかったのですね……」


 不意に聞こえた声に向かって、慌てて振り返る。でも、そこにはやっぱり誰もいなかった。


「……?舞さん、どうされましたか?」


「あ、いえ……なんでも、ないです」


 キョトンとした表情で首を傾げるたまよさんに向かって答えると、そうですか、という呟きが返って来た。

 多分、聞き違いや空耳なんだと思うけど、さっきの声は一条さんに似ていた気がする……

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