たられば
デスクトップの右端に目をやると、時刻は15時45分になっていました。終業時間まであと2時間強ですが、書類の処理が終わりそうにもありません。分かっていることとはいえ、今日も残業が決定です……
「一条さん、ちょっと良い!?」
感傷に浸っていると、後ろからヒステリックな金切り声が聞こえてきました。声の方を向くと、眉間にシワを寄せた女性が苛立った様子でこちらを睨みつけながら、腕を組んで立っています。黒いハイネックのトップスに黒いロングスカート、足元は黒い厚手のタイツにヒールの高い黒い靴……迫力満点です。
「はい、何でしょうか烏ノ森マネージャー?」
立ち上がって尋ねると、彼女は緩やかなウエーブをかけた長い黒髪をかきあげて、聞こえよがしにため息をつきました。この会社だけ、バブル時代で時間が止まっているのでしょうか?
「応接室のカレンダー、先月のままだったんだけど?」
「あ……すみません……今月はちょっと忙しくて……」
謝って言い訳はしてみたものの、それが彼女の気に障ってしまったらしく、睨みつける目つきがさらに険しくなります。そして、ヒステリックな金切り声で、また何かを喚き始めました。怖い顔をしていなければ、年齢を感じさせない美人なのに……
「ちょっと、聞いているの!?」
「はい……申しわけございません……今後は気をつけます」
うつむきながらそう答えると、彼女はまた盛大にため息を吐いてから、そう、と吐き捨てるように呟きました。
ひとまず、気が済んでくれたみたいで良かったです。あまり怒鳴り声が続き過ぎると、周りの皆さんにも迷惑になりますから。
「ともかく、今回は私が替えておいたけど、今後は注意しなさい。まったく、誰でもできる仕事くらいちゃんとやって欲しいわ」
吐き捨てるようにそう言うと、烏ノ森マネージャーは自席に戻って行きました。周りの席からはため息や、軽い舌打ちが聞こえます。
今月忙しかったのは、烏ノ森マネージャーを含めたこの部署の皆さんが、経費の領収書を急きょ提出されたり、2ヶ月前に届いた請求書を支払日ギリギリで提出してきたり、勤務表を正確につけていなかったりしたせいなのですが、ここに私をフォローしてくれる方はいないようです……
仕方ありませんよね、皆さんご自分の仕事に忙しいですし、私の仕事など取るに足らないと思っていらっしゃるのでしょうから。
少し前までは、頼りになる優しい先輩もいましたし、何より、烏ノ森マネージャーの上司にあたる方がこの部署の責任者だったのですが、お二人とも退職なさってしまいました。もしも、先輩達が退職なさる時に私も一緒に退職していたら……
そんな後悔をしていると、内線電話の音が鳴り響きました。番号の表示を見ると、受付からになっています。
「受付でございます」
落ち込んでいることに気づかれないよう、明るい口調で対応すると、受話器から落ち着きのある低い声が聞こえてきました。
「株式会社おみせやさんの月見野 和順と申します。本日、16時から烏ノ森マネージャーとのお約束で参りました」
「かしこまりました。ただいま参りますので、お待ちください」
「かしこまりました」
受付の受話器が置かれたことを確認してこちらも受話器を置き、烏ノ森マネージャーの方を向くと、先ほどよりも苛立ちの治った様子でこちらを見つめています。
「烏ノ森マネージャー、月見野様がいらっしゃいました」
「そう。じゃあ応接室に案内して、お茶をお出ししてちょうだい。発注先だからといって、くれぐれも失礼の無いようにね」
「かしこまりました」
一言余計な気もしましたが、慣れているのでそれほど気にせず返事をしました。ともかくあの方を待たせてしまっては申し訳ないので、受付に急ぎましょう。
受付の扉を開けると、薄手のコートを手に持った月見野様と、見慣れないもう一名の方が受付電話の前に佇んでいました。
「お世話になっております。ご案内いたしますので、こちらに」
そう告げるとお二方も、お世話になっております、と一礼してから顔をあげました。精悍な顔立ちに浮かぶ柔和な笑顔が、本日も素敵です。
はじめてお会いした時から、精悍な顔立ちと穏やかな物腰が素敵な方だと思い、ずっとお慕いしているのですが、年齢が離れ過ぎていますし私なんか眼中にないですよね。そもそも、こんなに素敵な方なのですから、ご結婚はなさっているでしょうし。それに、この会社以外にも多くの会社を訪問されているのでしょうから、私のことなど認識なさっているはずもありません……
「ただいまお茶をお持ちいたしますので、おかけになってお待ちください」
ため息をこらえながら応接室にご案内をして、一礼をしました。顔を上げると、精悍な顔立ちに柔和な笑みが浮かんでいます。
「かしこまりました。いつもありがとうございます」
……多分社交辞令なのでしょうが、意外な言葉をいただいてしまい、思わず動きが止まってしまいました。どうしましょう、早く退出しないと、月見野様にご迷惑をおかけしてしまうのに……
「あの、ご気分が優れないのですか?」
こちらの混乱が伝わってしまったらしく、月見野様は心配そうにこちらを見つめています。いえ、迷惑がっていらっしゃるのかも知れませんが……
「……申しわけございません。覚えられてしまうほど、毎回失礼をいたしていたようで……申しわけございません」
混乱をしながらもなんとか答えて頭をさげると、そんなことないですよ、という優しい声が聞こえました。顔をあげると、月見野様は安心したように微笑んでいました。
「いつも一条さんが丁寧に対応してくださっているので、緊張が解れて助かっていますよ」
「……ありがとうございます……それでは、失礼いたします」
月見野様に一礼して、涙がにじんでいるのがバレないように、素早く応接室を出ました。
名前を覚えていてくださったことと、まず間違いなく社交辞令なのでしょうが、私の仕事を認めてくださったことに胸のあたりが苦しくなります。
こんな方がそばにいてくれれば、きっと毎日がほんの少しだけ穏やかになるのに……でも、高望みはいけませんよね……
お茶出しを済ませ、通常の業務に戻り、諸々の作業をしているうちに、気がつけば終電間際になっていました。第三営業日なら仕方ないとは思いましたが、販売管理、給与計算、経理、総務周りの処理を一人で行うのは流石に厳しいと思います……
そんなことを考えながら、電車に揺られて自宅に着きました。当然ですが、日付は変わっています。いつもなら、淀んだ気持ちでシャワーを浴びて、倒れるように眠りにつきますが、今日はほんの少しだけ穏やかな気持ちです。
いつか、月見野様に気持ちをお伝えすることができたら……いえ、そのような恐れ多いことを考えてはいけませんね。特に取り柄もなく、これといった特技もなく、外見も整えてはいますが……月見野様ならもっと美しい女性がたくさん思いを寄せていらっしゃるでしょうし。せめて、私が何かお役にたてることがあれば良いのですが、今の私にできることといえば、会社にいらっしゃった時に笑顔で対応するくらいです……このまま考え事をしていると、折角ほんの少しだけでも穏やかになった気持ちが台無しになってしまいます。早くシャワーを浴びて寝てしまいましょう。
シャワーを終え髪の毛を乾かし、ベッドの横に置いた鏡台の前に座ってみると、目の下にくっきりとクマができていました。このくらいであれば、お化粧でごまかせていたはずですが、こんな状態で月見野様の前に出てしまったかと思うと、悲しくなってしまいます。
でも、悲しんでいても仕方ありません。確か試供品でいただいたクマに効く目元用のパックがあったはず。
鏡台の引き出しを探してみましたが、出てくるのは
ごく一般的な藁の束
何の変哲も無い五寸釘のケース
柘植の櫛と持ち手の無い手鏡
普通のロウソク
どのご家庭にもあるような、丑の刻参りセットくらいでした。そんなに頻繁に使うものでも無いのに、消耗品である藁と釘が実家から定期的に送られて来るのが目下の悩みです。送ってもらえるのは助かりますが、頻度を抑えてもらえるように、今度相談してみましょう。
探し物が脇道に反れているうちに、だんだんと眠気の方が優ってきました。パックは諦めて、今日はもう寝てしまいましょう。明日も早く出て遅く帰らないといけないのですから。
ベッドに潜り込み電気を消して目を閉じると、月見野様にかけていただいた言葉がまだ聞こえる気がします。私などに優しい言葉をかけてくださるなんて、なんて慈悲深い方なのでしょうか。
せめて、私に稀有な才能でもあればあの方のお役にたてるのですが……
これ以上悩んでいたら夜が明けてしまいそうなので、今日はもう睡魔に身を任せてしまいましょう。