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渡し場

 今日は、一条さんと約束したランニングの日だ。

 言い出しっぺの人間が遅刻するのは申し訳ないと思って、九時集合だけど八時半に待ち合わせの公園に来てしまった。流石に、早すぎるかな……

「月見野様!おはようございます!」

「……おはようございます」

 ……というのは、僕の考え違いだったみたいだね。

 灰色のワンピースにベージュ色のコートを羽織ってバスケットを両手に持った一条さんと、チノパンツに黒い薄手のロングコートを着た葉河瀨部長が、公園の入り口に設置された案内図の前に立っていた。しかも、二人とも目の下にくっきりとクマができているね。葉河瀨部長は無精ヒゲこそ剃ってあるみたいだけど、いつものことながら酷い寝癖だし……

「……おはようございます。二人とももの凄く眠たそうですが、大丈夫ですか?」

 恐る恐る聞いてみると、一条さんが勢いよく頷き、葉河瀨部長もあくびをしながらゆっくりと頷いた。

「はい!昨夜少し所用があったため、寝不足ぎみですが全く問題ありません!」

「俺の方も、少し調べ物と考え事をしていたので寝不足ぎみですが、眠いのはいつものことですから」

 一条さんからは意気込みながら返事をし、葉河瀨部長は相変わらずあくび混じりに返事をした。ひとまず、二人にはゆっくりとしたペースで走ってもらった方が良さそうだね。多分、一条さんも葉河瀨部長と並んで走りたいだろうし。

「ところで、月見野様。着替える場所は別途あるとうかがったのですが、公園の中にあるのですか?」

 どのくらいの速度で走れば、二人の邪魔をせずに走れるかを考えていると、一条さんがゆっくりと挙手をしながら質問をしてきた。

「はい。ここから五分くらい歩いたところにあるスポーツセンターで、更衣室とロッカーを借りられますよ」

「かしこまりました。教えてくださり、ありがとうございます」

 一条さんはそう言うと、綺麗な姿勢で頭を下げた。とても綺麗な仕草だけど、やっぱりどこか張り詰めすぎている気がしてしまうんだよね。ここは一つ、場を和ませるようなことを言った方がいいかな。


「一条さんは可愛らしいから、覗きや盗撮に気をつけてくださいね」


「……え……?」


 軽く冗談を言ってみたところ、一条さんの表情が固まり動きを止めてしまった。

 えーと……ひょっとして、セクハラに該当する事案になってしまったのかな……?

 焦っていると、一条さんの顔がみるみるうちに赤くなっていく。これは、完全に怒らせてしまったね……

「も、申し訳ございません。悪気があった訳ではなく、冗だ……」

「ご安心ください。盗撮対策になる物は作って持ってきましたから」

 謝罪と弁解の言葉を遮るように、葉河瀨部長が声をあげた。あまりにも不意なことだったから、一条さんもキョトンとした表情になっている。唖然とする僕達をよそに、葉河瀨部長はコートのポケットをあさり、モルモットのマスコットが付いたキーホルダーを取り出した。

「昨日作った盗撮カメラ発見器です。背中のスイッチを入れると、半径五メートル以内に盗撮カメラが会った場合、アラームが鳴るようになっています。スイッチを切っていれば、キーホルダーとして使用できますので、どうぞ」

 葉河瀨部長はそう言うと、一条さんの前にマスコットを差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 一条さんは戸惑いながら、マスコットを受け取るとまじまじと見つめた。

「……可愛らしいですね」

 そして、掌に載せたマスコットを見て顔をほころばせた。

「それは、どうも……」

 葉河瀨部長もそう言って頭を軽く下げると、薄く微笑んだ。この二人、案外相性は悪くないのかもしれないね。これは、なんとしても二人きりになれる機会を作らなくてはいけないね。

「じゃあ、対策も済んだことですし、そろそろ行きましょうか」

 二人の仲を進展させようと意気込んでいると、葉河瀨部長が大きなあくびをしながらそう言った。

「そうだね。今の時間帯ならまだそこまで混んでないはずだから、移動しようか」

 僕の回答に葉河瀨部長は、そうですね、と言いながら軽く頷き、一条さんも、かしこまりました、と言って綺麗な角度でお辞儀をした。

 それから、一旦公園を出て大通りに沿って歩き、小さな親水公園を抜けて目的のスポーツセンターにたどり着いた。入り口で料金を支払い、更衣室に入ると他の利用客はまだ誰もいなかった。

「ところで葉河瀨君、今日はどうして一緒にくることになったの?」

 黙々と着替えるのも何か気まずい気がしたため聞いてみると、そうですね、という呟きが返ってきた。

「昨日、買い物中に偶然一条さんにお会いして、話の流れでというところですね」

 そうだったんだ。一条さん、かなりの幸運の持ち主みたいだね。

「それは、凄い偶然だね」

「ええ。まったくでしたよ」

 ランニングウェアに袖を通しながら答える葉河瀨部長の声は、いつもよりどこか弾んでいる気がする。ひょっとすると、一条さんの恋路の成就も、難しい話ではないのかもしれないね。

「ところで月見野さん。シュークリームが美味い店って、知ってたりしますか?」

 不意に、全く予想していなかった質問がやってきた。

「えーと……シュークリーム?」

 聞き返してみると、葉河瀨部長はコクリと頷いた。どうやら、聞き間違えではないようだね。

「何件か知ってるけど、急にどうしたの?」

 理由を確認してみると、葉河瀨部長は気まずそうな顔で頭を掻いた。

「あー……えーとですね、昨日一条さんとお話ししていたら、シュークリームが好きという話が出たので……」

 ……なるほど。これは、お互いに、憎からず思っていることが確定だね。

「そういうことなら、後でおすすめの喫茶店をメールするね。折角だから、二人で行ってくると良いよ」

 僕の言葉に葉河瀨部長は、そうですね、と短く呟いて顔を伏せた。この様子だと、脈ありと判断して大丈夫そうだね。二人の関係が上手くいけば、一条さんが思い詰めた表情をする時間も少なくなるかもしれない。

「がんばってね、葉河瀨君」

 笑顔で声援を送ると、葉河瀨部長は、どうも、と呟いて俯いた。

 よし、今日は何がなんでも二人が並んで走れるようにしよう。


 ……などと意気込んでいたけど、物事というのは往々にして予定通りいかないよね……

 着替えを終えて公園に戻って、準備運動をしてから三人で走り出したのは良かったんだけど……

「……一条さん。私は速めのペースで走っていますが、ご自分のペースで走って良いんですよ?」

「い……え……血反吐を吐こ……うとも、ご一……緒させてい……ただきます」

「そ、そこまでする必要はありませんからね?」

 二人の邪魔をしないように、ペースをあげて走っているのに、一条さんがずっと併走している。

 一方の葉河瀨部長は、遙か後方で息をあげながら走っている……うん、一条さんの真面目な性格と、葉河瀨部長の体力を甘く見ていた僕のミスだね。どうしよう、これ以上ペースをあげて引き離そうとしても、一条さんの性格だと無理してついて来てしまうかもしれないしな……

 そんなことを考えているうちに、公園を半周してしまった。一条さんは息をあげながらも、相変わらず併走しているし、葉河瀨部長の姿はさっきよりも小さく見えているし……うん、走るペースをあげて二人っきりにさせる計画はもう諦めよう。

「一条さん。大分息があがっているようですし、葉河瀨君とも随分はなれてしまいましたから、この辺りで少し休憩にしましょう」

 こちらの提案に、一条さんは苦しそうにしながらも笑顔を浮かべて頷いた。納得してくれたみたいで良かった。

 僕が徐々にスピードを落としていくと、一条さんもそれに合わせてゆっくりとスピードを落としていった。

「大丈夫ですか?」

「……はい……なんとか」

 一条さんは呼吸を整えながら、苦笑して頷いた。

「……やはり、月見野様と並んで走るには、まだまだ精進が足りないみたいです」

「いやいや。かなりペースをあげて走ってしまっていたので、あれだけ並んで走れるなら充分体力があると思いますよ」

 そう答えると一条さんは、ありがとうございます、とか細く呟いてから、頭を下げた。でも、一条さんがこんなに体力があるのは意外だったな。もし一条さんが弊社に来てくれたら、信田部長が川瀬社長を捕まえるときの戦力になれるかもしれないね……


「……お待たせ……いたしま……した」


 一条さんの引き抜きをひっそりと企んでいると、ヨロヨロとした足取りで葉河瀨部長がやってきた。うん、どこからどう見ても休憩が必要そうな顔色をしているね。

「……お疲れ様、葉河瀨君。少し休憩していくことになったから」

 相告げると、葉河瀨部長は消え入りそうな声で、助かります、と答えて足を止めた。

「あの、葉河瀨さん……顔色がとても不可解な事態に陥っていらっしゃいますが……ご無事ですか?」

「はい……かろうじて……肺はまだ爆……発していな……いようなので………」

 心配そうな表情で駆け寄る一条さんに、葉河瀨部長が不安が残る台詞を吐いている。「まだ」ということは、もう少ししたら爆発するのかな……

「それでもお辛そうなので、ひとまず何か水分をお持ちいたしましょうか……?」

 下らないことを考えていたところ、一条さんの言葉に現実に引き戻された。

「いえ……お気になさらず……少し休めば回復しそうですから……」

 葉河瀨部長はそう言いながら、側にあったベンチに腰を掛けた。確かに脱水の症状までは起こしていないみたいだけど、心配だね……あ、そうだ。

「葉河瀨君、駄目だよ。そう言った油断が、後々取り返しの付かない事態を呼ぶことがあるんだから。売店で飲み物を買ってくるから、そこで安静にしてて」

 そう伝えると、すみません、という力ない呟きが返ってきた。うん、意固地になられたらどうしようかと思ったけど、これなら大丈夫そうだ。

「では、一条さん」

「は、はい!」

 声を掛けると、一条さんは身を震わせてから姿勢を正した。

「大変恐れ入りますが、葉河瀨君のこと看ていてもらえますか?多分、そこまで酷い状態ではないと思いますが、少し不安が残るので」

 僕の言葉に、葉河瀨君は眠たげな目を見開き、一条さんは……

「かしこまりました!たとえ首を捩り切られるようなことになったとしても、葉河瀨さんの安全は確保いたします!」

「あ、いや……流石にそんな危機が訪れたら、ちゃんと二人で逃げて警察に通報してね……?」

 胸の辺りで手を握りしめ決意に満ちた表情をする一条さんにそう告げると、承知いたしました、という返事が来た。

「そうですね……今度、そういう危機が訪れたときに使用する護身用の何かを作りますので、今日は何かあったら素直に逃げることにしましょう……」

 葉河瀨部長……それは、個人的に作る物だよね?ご乱心シリーズの、新製品じゃないよね……?

 色々と心配になってきたけど、飲み物を買いに行くことにしよう。


 予定とは少し違ってしまったけど、一条さんと葉河瀨部長が二人きりになれる時間が少しでも確保できて良かったかな。

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