どうすれば
明日は、月見野様とお出掛けの日です。胸が高鳴って、仕方がありません!と、言いたいところなのですが……先ほどから溜息が止まりません。
ランニングにご一緒できるということで衣装ケースから運動着を引っ張り出してきたものの、結果は惨憺たるものでした。
大掃除のときなどに着ている高校時代の小豆色をしたジャージ、夏場のパジャマにしている高校時代のハーフパンツと半袖の体操服、部屋着にしている首元のくたびれたスウェット……まったくもってダメな感じですね。こんなものを着て月見野様の隣を走るわけにはいきません。仕方がありません、スポーツウェアを買いに行くことにしましょう。
身支度を済ませて家を出ると、明るすぎる日差しに目眩を覚えました。最近、夜のお詣りが続いたのが、原因なのでしょうね。でも、月見野様を困らせるような方には、痛い目に遭っていただかなくてはいけませんから。今度のお詣りも効いていると良いのですが……
そんなことを考えながら町を歩き、最寄り駅から地下鉄に乗り込みます。まだそれほど混雑していないので、座席に座ることができました。気を抜くと眠ってしまいそうなので、明日のことを考えていましょう。
月見野様と連絡先を交換し、明日は午前九時に集合、という連絡をいただきました。もっと早朝になるかと思っていたので、起きられるか不安でしたが、この位の時間なら問題ありませんね。ランニングをする時間がどのくらいになるかは分かりませんが、お昼ご飯は持っていくことにしましょう。ただ、自分だけお昼を持っていくのも、失礼な気がします。でも、月見野様へ手作りの料理を贈るなんて……考えただけでも恐れ多いですね……いっそのこと、ご本人に伺ってみましょうか……もう、どうすれば良いのでしょう……
考えているうちに、車内に目的地の一つ前の駅名を告げるアナウンスが響きました。このまま悩んでいると、乗り過ごしてしまいそうですね……ここは、覚悟を決めましょう。
鞄からスマートフォンを取り出し、意を決してメッセージ機能を開きました。指が震えて思うように操作ができませんが、頑張らないといけません。
なんとか確認のメッセージを作成しましたが、本当に送って良いのでしょうか……でも、もうすぐ目的地に到着してしまいます……もう迷っている時間はありませんね。えい。
なんとかメッセージを送り、スマートフォンを鞄にしまいました。お返事が待ち遠しくもあり、恐ろしくもある気分です。どんなお返事がいただけるかはまだ分かりませんが、スポーツウェアを買い終わったら明日のお昼ご飯の献立を考えておきましょう。
そうこうしているうちに、電車は目的地に到着し、目指していたスポーツ用品店にたどり着きました。そこまでは、何も問題無かったのですが……
「だから、なんでスキー板の種類がこんなに少ないんだ!?」
「ですから、そう仰いましても、私には分かりかねます……」
「店員のくせに、そんなことも分からないのか!?」
ご年配の男性に、店員さんと間違われてしまった上に、理不尽なクレームを受けてしまいました。
助けを求めて店のエプロンを着けた店員さんに視線を送ってみましたが、目が合ったにもかかわらず、そそくさと逃げていってしまいました。アルバイトの方かもしれませんが、その対応は勤め人としてどうなのでしょうか……
「おい!聞いているのか!?」
現実逃避気味に先ほど逃げてしまった店員さんのことを考えていると、無視されたと思ったのか、男性はますます口調を荒げだしました。それでも、日々の業務でもっと迫力のある方に叱られているので、怖いとは思わないのですが、煩わしくて困りますね……
「なんだその目は!?客を馬鹿にするな!」
「きゃ!?」
冷ややかな視線を送っていると、男性は急に大きな腕時計を付けた手を振り上げました。咄嗟に鞄で頭を保護しましたが、スマートフォンに殴られた衝撃が伝わってしまったらどうしましょう。まだ、月見野様からのお返事も来ていないのに……しかし、いつまでも殴られた衝撃が伝わって来ませんね……
恐る恐る鞄を下ろしながら目を向けてみると、年配の男性は手を振り上げたまま動きを止めていました。
よく見ると、薄手の黒いコートを着た背の高い男性に、手首を掴まれています。
「人に手を上げるのは、どうかと思いますよ」
背の高い男性はそう言うと、年配の男性の手首を掴んだまま、眠たげに小さく欠伸をしました。この方、どこかで見たことがある気が……
「放さんか!このバカ者!」
「この状態では、放せませんね。それと、もうすぐお迎えが来るみたいですから、ちゃんと帰りましょうね」
背の高い男性が年配の男性を眠たげな声で諭していると、先ほど逃げていった店員さんが、ポロシャツを着てエプロンを着けた男女数人を引き連れて現れました。
背の高い男性がわめき散らしている年配の男性を引き渡すと、エプロン姿の人々はこちらに向かって、しきりに頭を下げました。そして、年配の男性を連れてお店の奥に消えていきます……ひとまず、騒ぎは収まったようですね。
ならば、助けていただいたお礼を伝えないと。
「申し訳ございません。助けていただいて、ありがとうございました」
「いえ、お気になさらずに。それよりも、怪我ありませんでしたか?一条さん」
不意に名前を呼ばれ、心臓が止まるかと思いました。やはり、面識のある方だったのですね。
顔を上げて確認してみると、眠たげな二重まぶたに、鼻筋の通った高い鼻、少し面長の輪郭……
「あ……ひょっとして、先日、月見野様とご一緒だった……」
「ええ、株式会社おみせやさんの葉河瀨です。先日はどうも」
葉河瀨さんはそう言うと軽く会釈をして、小さく欠伸をしました。言われてみれば分かるのですが、先日お会いしたときと印象が随分と違います……
「……どうされましたか?」
思わずお顔を凝視してしまっていたらしく、葉河瀨さんは眉を少し動かして眠たげな目をこちらに向けました。
「いえ……えーと……今日は、寝癖と眼鏡とお髭がないなと……」
……ものすごく失礼な言い方に、なってしまった気がします。
慌てて頭を下げようとしましたが、葉河瀨さんは気分を害した様子も無く、そうですね、と答えました。
「昨日、同僚から、少し見た目に気を遣え、と指摘を受けましてね」
その同僚の方のお気持ちは、なんとなく分かる気がします。先日お会いしたときは、どちらかと言うと近寄り難い印象を受けましたが、今日はそんなこともありませんし。
「それはともかく、一条さんが無事で良かったです」
またしても若干失礼なことを考えてしまっていると、葉河瀨さんはそう言って軽く微笑みました。笑顔を見ると、月見野様には適いませんが、優しそうな印象を受けます……いえ、今はそんなことを考えている場合ではありません。
「おかげさまで助かりました……何かお礼を……」
ちゃんと恩をお返ししないと、失礼な人間だと思われた挙げ句に、その印象が月見野様に伝わってしまうかもしれませんからね。でも、葉河瀨さんは私の申し出に、戸惑ったような表情を浮かべて黙り込んでしましました。逆に、気を遣わせてしまったのでしょうか……
「すみません……私のようなものが、差し出がましいことを申し上げてしまって……」
「いえ、そんなことは決してありませんよ」
自己嫌悪に陥りそうになっていると、葉河瀨さんは言葉をかぶせ気味にそう言いました。何故か、どことなく早口だったような気もしますが。気分を害されていなかったなら、良かったです。でも、先日の昼食のことを思い出すと、葉河瀨さんはかなり変わった方だった気がするので、無理難題を仰ったらどうしましょう……
「あー……じゃあ、この近くに気に入っている喫茶店があるので、ケーキでも食べに行きましょうか」
良かった。無理難題ではありませんでした。
「かしこまりました。では、ご馳走させていただきます。ただ、買い物が終わってからでもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。俺もまだ買うものがありますし」
葉河瀨さんはそう言って、また小さく欠伸をしました。お休みの日も、眠そうなのは変わらないんですね。それにしても、葉河瀨さんがスポーツ用品店でお買い物というのは、なにか意外な気がしますね。
「……何か?」
三度若干失礼なことを考えていると、葉河瀨さんは不安げな表情を浮かべて首を傾げました。
「あ……すみません。そういえば、スポーツ用品店でお会いするなんて、すごい偶然だな、と思いまして……」
これなら、失礼な言い回しにはなっていませんよね?
葉河瀨さんはこちらの不安を気にする様子も無く、そうですね、と呟きました。
「最近、仕事で職場に籠もり気味だったから、少し体を動かす習慣を付けておこうと思ったので。でも、まさか一条さんに会えるとは思いませんでしたよ」
そう言う口調は、何故か嬉しそうに聞こえました。何か私に用事でもあったのでしょうか?でも、受付で対応する以外に接点もありませんでしたし……
まさか、特に用事も無いのに私に会いたかった、と言うことなのでしょうか?
……そんなわけありませんね。きっと、嬉しそうに聞こえたというのも、ただの気のせいです。
「じゃあ、私と同じですね。私も、健康のために少し運動を始めようと思って、スポーツウェアを見に来たんですよ」
「なら、良いものを探すのを手伝いましょうか?スポーツウェアの素材も、以前仕事で扱ったことがあるので、少しはお役に立てると思いますよ」
「そうだったんですか。では、ご迷惑でなければ、すみませんが、よろしくお願いいたします」
正直なところ、月見野様からお誘いが無ければスポーツウェアを見る機会なんてなかったので、非常にありがたいです。でも、スポーツウェアの素材まで扱っているなんて、おみせやさんは何屋さんなのでしょう?たしか、弊社に導入したのは、人事評価用のソフトウェアだったような気がしますが……
「じゃあ、スポーツウェアのコーナーに行きましょう」
取引先の謎について思いを巡らせていると、葉河瀨さんはそう言って早足にお店の奥に向かって歩きだしてしまいました。迷子になるほど広い店舗ではありませんが、それなりにお客さんがいるので、はぐれてしまったら、見つけるのが大変そうです。
ひとまず、おみせやさんの謎は気にしないことにして、葉河瀨さんを追いかけることにしましょう。