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修羅場

 執務室の時計を見ると、14時30分になっていた。この時間帯は、どうも眠くなって困るね。

 そんなことを考えながら、さっきからリール付きの社員証ホルダーを意味なく伸縮させている。

 部下達が最近完成した新製品の営業のため社の内外を問わずせわしなく駆け回っているのを横目に、今月の売り上げ目標の達成状況や目標達成のための対策についての資料を作っているけど、全く考えがまとまらない。この職位になると、実務的な仕事よりもマネジメント系の仕事の方が遥かに多くなってしまうのが寂しいところだ。

 手を動かしていると考えがまとまりやすい、というような記事をどこかで読んだ気がするけど、流石に社員証ホルダーを伸ばして戻すだけではあまり効果はないみたいだね。

 そう思って社員証ホルダーを強めに引いてみると、リールの部分からカチっという音が小さく鳴り、自動で巻き戻るはずの紐が伸びたままになってしまった。

 これは……まずいよね……

 途方にくれながら、眉間にしわを寄せてパソコンのモニターを睨んでいる部下に、なんとなく視線を送ってみた。部下は視線に気づいたらしく、こちらに振り返り心配そうな表情を向けた。

「何かトラブルですか?月見野部長」

 表情が読み取り難い部下ではあるけど、声がいつもより少しだけ高くなっているから、多分かなり不安がっているね。この状態で真実を伝えたら、多分怒るだろうな……

「ごめんね、日神君。大した話じゃないんだけど、社員証ホルダーが壊れちゃって……」

 素直に伝えると、日神君は切れ長の目を少しだけ見開いた後、にこやかな表情を見せた。一見すると、安心してもらえただけのようだけど……

それは、それは。(このクソ忙しい時に、)大変ですね(何してるんですか)

「日神君、本音が漏れちゃてるよ……」

 共感の言葉を言おうとしてくれてはいたみたいだけど、真っ当すぎるお叱りを受けてしまった。日神君は上司に対しても、容赦ないからね……

 肩をすぼめて反省していると、日神君は小さく、失礼しました、と頭を下げた。

「ひとまず、管理部門に行って替えのホルダーを頂いて来るしかないのでしょうけれども……」

 そう言って、日神君は壁に掛けられたカレンダーをチラッと確認した。言わんとしていることは、大体想像が付く。

「うん……第3営業日に、こう言うことで管理部門に行くのは忍びないよね……」

 管理システムが導入されて、ある程度の負荷は減ったみたいだけど、それでも短期間のうちに会社の数字に関する情報を取りまとめているのだから、負担は大きいんだよね……

 思わずため息を吐いてしまうと、日神君は再び心配そうな表情を浮かべた。そして、薬指に白金の指輪が光る左手で、気まずそうに頬を掻いた。

「私が代理で行ってまいりましょうか?彼女らに叱られるのは、慣れていますし」

 ほんの少しだけ口角を下げながら告げる言葉に、今まで背負わせてしまっていた事を思い出す。

「……凄く些細なことだとしても、そうやって損な役回りを買って出ることはないよ。私だって長年この会社にいるし、しかもこんな有様なんだから、君よりは彼女達の叱責に慣れているつもりだよ?」

 紐の伸びきった社員証ホルダーを見せながらおどけて見せると、日神君は困ったような笑顔を見せた。

「では、お願いいたします。くれぐれも、お気をつけてください」

「あはは、向かい執務室に行くだけなのに、大げさすぎるよ」

 心配しすぎる日神君を残して、狭い廊下を挟んだ向かいの執務室に向かった。

 廊下に出て、丸い小窓のついたドアを恐る恐る開けてみると、管理部のメンバー達がパソコンのモニターに向かって目を凝らしていた。日神君には、大げさすぎる、と言ったけど、確かにこれは声をかけづらいよね……でも、そうも言っていられないか。

「失礼します。お忙しいところ、ちょっとごめんね」

 意を決して中に入り声をかけてみると、責任者の信田(しのだ) かずら部長が顔をあげた。いつもは長い髪をきっちりとまとめ上げコンタクトレンズをしているけど、今日は前髪をおろして後ろ髪をひとつに結び、目にはフレームの細い楕円形の眼鏡をかけている。彼女は帰りが遅い日が続くと、この格好になるんだよね……

「お疲れさま、月見野君。どうかしたの?」

 信田部長は、特に怒った様子もなくそう聞いた。

「やっほー、つきみん。今日はどんなトラブル?」

 信田部長の問いに続くように、縦に巻いた長い栗色の髪をハーフアップにした人物が顔をあげた。まつ毛を強調したお化粧をしていることもあいまって、僕が若い頃に流行った少女漫画の登場人物のようだけど、この会社の人事労務の手続きを一手に担っている山口 (けい)課長だ。

「いやいや、トラブルって訳じゃないですよ」

 ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭きながら答えると、山口課長は楽しそうに長いまつ毛で縁取られた目を細めた。

「なら良かったなりよ★じゃあ、まややん、この時期に特に用事もなく遊びに来てくれたつきみんに、お茶漬けでも作ってあげなさい★」

 ……いつもと変わらない口調だから激怒まではしてないみたいだけど、忙しい時期に大した用もないのに来たって言ったらそう言われるよね。

「課長、そういう言い方は良くないですよ。すみません、月見野部長、ご用件は何でしょうか?」

 山口課長にまややんと呼ばれた、黒髪のショートボブの女性がこちらに向かって頭を下げた。

「ごめんね、三輪さん。さっき社員証ホルダーをいじってたら、リールの部分が壊れちゃって……」

 ポケットから社員証ホルダーを取り出し、伸びきった紐を見せてみると、三輪さんはにこやかな笑顔を見せた。良かった、そんなに怒ってないみたいだ。

かしこまりました。(この忙しいときに、)すぐに換えを用意いた(何してるんですか)します」

「三輪さん……本音が漏れちゃてるよ……」

 三輪さんは片手で口を押さえてから、申し訳ございません、と言って頭を下げてから立ち上がり、消耗品がしまってあるラックに向かっていった。僕達のやり取りを見た信田部長は小さくため息を漏らし、山口課長は声をあげて笑った。

「あははは★実につきみんらしいなりね!」

「月見野君、悪気がなかったのは認めるけど、もうちょっと注意してちょうだい?」

「本当に面目ない」

 肩を落として反省していると、三輪さんが気まずそうな表情で消耗品ラックのもとから戻ってきた。彼女の手にはなにも握られていない。

「月見野部長、誠に申し訳ございません。先月は新製品関連のお客様の信用調査とか、契約書の作成およびチェックとかのイレギュラー処理が重なってしまったため、まだ文房具等の消耗品を補充していなくて……」

 三輪さんはそう言うと、申し訳なさそうに下を向いた。今までは社内の消耗品や備品については三輪さんに聞けばすぐに対応してもらえてたけど、新しいことが始まると会社全体が忙しくなるから仕方ないよね。

「そもそも僕が急に壊しちゃったのが悪いんだから、気にしないで三輪さん。こちらこそごめんね」

「いえいえいえ!どうか頭をあげてください!」

 素直に頭を下げると、焦り気味の三輪さんの声が聞こえた。

「そうなりよ★つきみんのスキンヘッドが目に入りやすい位置にあると、眩しくて仕方ないなり!」

「アンタはいちいち茶化すようなことを言わないの!」

 山口課長のおどけた発言に叱責の言葉を発してから、信田部長は小さくため息を漏らした。

「でも、こっちの部門も人手が足りなくなってきたのは事実なのよね……」

「よっし、つきみん!社員証ホルダー壊しちゃったお詫びとして、そっちの早川ちゃんをうちの部によこすなり!」

 山口課長は僕に向かって人差し指を向けると、ちょっとしたトラブルのために最近まで管理部に異動していた部下の名前を口にした。流石に冗談だとは思うし、信田部長も止めてくれるよね……

「あら、アンタにしては珍しく、名案を思いつくじゃないの」

 信田部長は僕の期待を見事に裏切り、感心した表情を山口課長に向けた。

「いやいやいや!流石にうちの部も、今早川君に抜けられると厳しいよ!」

「それに、部下二人が婚約している部署というのは、お二人としてもやりづらいのではないでしょうか?」

 必死に拒否をする僕の言葉に、早川君の婚約者でもある三輪さんが小さく挙手をしながら続いてくれた。信田部長はニヤリと笑みを浮かべて、冗談よ、と呟いた後に視線を遠くに向けた。

「でも冗談はともかく、早いうちに人員を増やさないといけないわよね……できれば、管理部門に慣れている子がいいけど……」

「以前勤めていた会社に、心当たりが一人居るには居るのですが……」

 信田部長の言葉に、三輪さんが再び小さく挙手をしながら言葉を濁し気味に提案をした。

 三輪さんの勤めていた会社は何かと因縁があるため、言葉が濁る気持ちはよく分かる。しかも、その心当たりという子の上司になっているであろう人物を、個人的にもよく知っているから、引き抜きなんてことになったら非常に面倒なことになることも分かる。でも、今日の予定だと、その会社を訪問しないといけないんだよね……

 思わず小さくため息を漏らしてしまうと、信田部長と山口課長が心配そうにこちらを見つめてきた。

「月見野君、大丈夫?もめ事が起こりそうなら、社長の首根っこをつかんで連れてきて同行させるけど?」

「なんなら、アタシがつきみんに変装して殴り込んで来るなりか?」

 二人は僕のスケジュールを把握しているらしく、なんとも心強い言葉をかけてくれた。こう言ってもらえることは、実にありがたいことだよね。

「あははは、ありがとうございます。でも、修羅場には慣れているんで大丈夫ですよ。それに……」

 あの会社との因縁については僕が決着をつけないといけない、と言おうとした矢先に、執務室のドアがノックもなしに開いた。そこから、少し寝癖のついた髪の毛をして眠たげな目に縁のない丸眼鏡をかけた細身の男性、製品開発部の葉河瀨(はかせ) (あきら)部長が、軽いあくびをしながら現れた。彼はかすかにタバコの香りを漂わせながら、請求書が乱雑に詰め込まれたクリアファイルを手にこちらに近づいてきた。

「失礼します。通信費とか諸々の経費の請求書を持ってきました」

 彼は眠たげな声でそう言いながら、クリアファイルを三輪さんに手渡した。

「お疲れさまです。葉河瀨部長、念のためそろっているか確認するので、少しだけお待ちいただけますか?」

「ん、構わないよ。先月は、俺の机に入れっぱなしだったっていう前科もあるし」

 相変わらず眠たげな葉河瀨部長に三輪さんは一礼して、パソコンの画面と照らし合わせながら請求書の枚数を確認しだした。

「ハカセは時々抜けてるからねー★」

「まあメインの業務の方はそれなりに真面目にやってるんで、その辺は許してくださいよ。一応は部下達にも、イレギュラーなもんがないかを確認してきましたから」

 山口課長のからかいに特に気分を害した様子もなく、葉河瀨部長は大きなあくびをした。他部門の管理職を前にここまで正直に眠気を隠さないのは、いっそのことすがすがしくすらあるけど、これから件の会社に同行すると考えると少し不安でもあるんだよね……

 そんな不安を知ってか知らずか、葉河瀨部長は僕の手元に視線を送ると、眠たげな二重まぶたを少しだけ大きく開いた。

「あれ、月見野さん。それ、壊れちゃったんですか?」

「あ、うん。ちょっと強く引っ張り過ぎちゃったみたいで」

 そう言って紐の伸びきった社員証ホルダーを見せると、葉河瀨部長は顎に骨張った手を当てて興味深そうにそれを見つめた。

「外出までまだ時間もありますし、なんなら直しときましょうか?」

「え?直せるの?」

「はい。仕組みは大体分かりますから、そんな難しくはないと思いますよ。ちょっと見せてください」

 こともなげにそう言いながら手を差し出す葉河瀨部長に社員証ホルダーを差し出すと、ふぅん、という呟きが返ってきた。

「どう?直せそうかな?」

「ああ、これくらいなら簡単ですよ。ただ対価と言ってはなんですが、あんまり刺々しい態度をすんな、と日神に伝えてやってください」

「あ、あはは、善処するよ」

 冗談か本気か分かりかねる発言に苦笑を返すと、是非お願いします、という眠たげな声が返ってきた。

 年が近いうえに、場合によっては真っ向に意見が対立する部門どうしだからか、葉河瀨部長と日神君はどうも折り合いが悪いみたいなんだよね……

 今後の会社を担っていくであろう中堅社員の不仲に少しだけ悩んでいると、執務室のドアが勢いよく開いた。

「ハカセー!ここに居るって聞いたんだけど、ちょっと直してほしいものが……げっ!?」

 全員が視線を向けた先には、ツイードの茶色いスカートスーツを着て、長い髪を一本の三つ編みに編んだ背の低い女性が、焦った顔をして立ちすくんでいた。一見すると少女のようだけど、我が社の経営者川瀬(かわせ) (まつり)社長だ。

 川瀬社長は無表情になった信田部長の顔を見上げると、バツが悪そうに首を傾げた。

「えーと……、部長が何でここに?」

「第三営業日に管理部長が執務室に居ない方が、色々と問題があると思いますが?それよりも、今日はどんなご用件でしょうか?」

 信田部長の鋭い視線と声に、請求書を確認している三輪さん以外の全員が息を飲んでいると、川瀬社長は黒目がちの円らな目をせわしなく動かしながら、小さな手で頬を掻いた。

「べ、べ、別に、社長室の花瓶なんて、割ってないよ?」

 とぼけた表情でそういう川瀬社長に、信田部長が満面の笑みを向けた……これは、早めに退散した方が良いよね。

 苦笑いをしながら手を振って退室を促す山口課長に一礼して、葉河?部長とうなずき合ってから、川瀬社長が立っているドアとは別のドアに忍び足で向かった。出入り口が二つあってくれて、本当に助かったよ……

 執務室を後にすると、背後から信田部長の叱責の声と、川瀬社長の泣き声と、三輪さんの、確認作業中は静かにしてください!、という声が響いてきた。

 今日は一波乱があると思っていたけど、まさか外出前に波乱に出くわすとは思わなかったよ……

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