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花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
9/14

愛されぬ者

 「やっぱりここにいたのか、ノアノア」

 燃えるような夕焼けが丘の上の教会を照らしていた。その扉の手前、芳香を放つティアレの木の下に佇むノアノアに、ビンセントが声を掛けた。「君を探していたんだ。ちょっと話がしたくて。入らないのか?」

「ペールが会ってくれない」

 ノアノアは憮然として答えた。

「喧嘩でもしたのか?」

「…俺が悪いんだ」

「大きなヘイヴァで踊るんだって?だからあいつは怒ってるんじゃないのか?」

 ノアノアは答えず、珍しく大きな溜め息をついた。そのまま木の根元に座り込む。

「どうした?元気が無いな。君らしくもない」

 ビンセントも彼の横に座った。「見るか?君を描いたんだ」

 そう言って、ビンセントはスケッチブックを手渡した。ノアノアは興味無さげに開くが、そこには彼の精悍な横顔や逞しい腕、海を歩く姿などが数十枚も描かれていた。

「うまいもんだな、画家先生。でも、俺なんかをこんなに描くなんて、紙がもったいないよ」

「何を言ってる」

 ビンセントはノアノアの形の良い鼻を摘んだ。そして熱っぽい目を彼に真っ直ぐに向けて言う。「よく聞いてくれ、ノアノア。君ほど美しい人を、俺は初めて見たんだ。君は海であり、島であり、星であり、月であり、太陽であり、鳥であり、魚だ。ああ、もっともっと君を描きたい。俺はきっと君を描くために生まれたんだ。ヘイヴァで踊る君を、ぜひ描きたい。きっと世界中の王のように美しかろうよ」

「でも、ペールは俺が踊るのを嫌がってる」

「宣教師というのは、くだらんことにこだわる人間だからな」

「ペールは違うよ」

「違わないさ。君の美しさが分からないのだから。君の愛を簡単に捨てられるのだから」

 ノアノアの大きな目がすうっと薄められた。

「画家先生は、…知ってるのか?」

 ノアノアが立ち上がった。闇のような黒い目は再び見開かれ、値踏みするようにビンセントを睨む。

「そんなことは、見てりゃ分かるさ」

 ビンセントも目を逸らすことなく、立ち上がった。ノアノアも背が高いが、ビンセントの方がさらに若干高い。ビンセントはノアノアの顎を指で掴んだ。ビンセントの薄い灰色の瞳が、絶命前の夕陽を映し、赤く狂気のように燃え上がる。「俺なら、踊る君を見たいと思う。音楽に身を任せ、快楽に溺れる君が見たい。それが君の本質なのだから。それが神への最大の捧げものだ」

「ペールは、そうは思わない」

 ノアノアの目が、迷うように揺れる。

「だから、ヤツは尻尾を巻いてフランスに帰るんだ」

「それも、…知ってるのか」

「ヤツが帰国するってのは、フランス人街ではちょっとした噂になってるよ。まあ、十年もいたんだ、よくやったと皆思ってるさ。とうの昔に代わってもおかしくないからな」

「やっぱり、ペールは帰るんだ…」

「代わりが来るのはもう少し先らしいがな」

「そうか…」

 ノアノアの声が、さらに小さくなっていく。ビンセントは、目の前の青年が急に幼い子供になったかのように感じた。

「なあ、ノアノア、君を本当に分かっているのは、俺だ。俺なら、…俺なら、君と愛を交わせるのなら、その場で死んでもいいと思う」

「愛?」

 ノアノアが不思議そうにビンセントを見上げる。ビンセントはもう一方の手で、ノアノアの艶やかな黒髪を撫でた。

「そうだ。ノアノア、俺に楽園の夜を見せてはくれないか?」

 ビンセントは、ノアノアの唇に自分の唇を寄せた。

 だが、その唇が触れる直前に、ノアノアは突然に笑い出した。そして、ビンセントの指を払いのける。

「画家先生、何寝ぼけてるんだよ。よく見ろよ」

「君が男性だということなら、それは関係ない」

「そうじゃなくて、俺は、あんたには愛はやれないよ」

 ノアノアの屈託無い言葉に、ビンセントの顔が歪む。

「…それは、俺が若くないからか?…俺がもし、あと二十歳若かったら、君と釣り合うくらい若かったら、そして、俺があの神父のように…美しければ、君は愛してくれるか?」

「そんなこと、関係ないよ」

「それでは…」

「俺がほしいのはペールだ。あんたじゃない。それだけだ」

 残酷なほどきっぱりとノアノアは言い放った。「他に用が無いなら、俺は帰る」

 ビンセントは声を出すことすら、できなかった。

 ノアノアはそんなビンセントを一瞥した後、悠然と去って行った。

 一人になったビンセントは大きな溜め息をついた。ティアレの匂いがむせ返り、体にまといつくようだ。断ち切れない欲望のように。

 分かっている。分かっているのだ。なのに、どうして納得ができないのだろう。

 

 ビンセントは顔を上げると、意を決して教会へ向かった。

 思い切り乱暴に教会の扉を開けると、十字架の前で跪いていたペールが驚いて顔を上げ、立ち上がった。

「ビンセントさん、あなたでしたか」

 ペールはどこかがっかりしたような、弱々しい笑みを浮かべた。ペールが心の奥底で、強引に閉ざした扉を開けて押し入ってきて欲しい人は、当然ながら彼ではない。

 数日見ぬ間に、なぜか神父はかなり痩せたようだった。目元には隈ができ、頬はいつにも増して青白い。それが逆に、ガラス細工のような美しさをさらに際立たせている。

 ビンセントは無性に腹が立ってきた。ビンセントがいくら望んでも得られぬ美しさを持ちながら、その価値に気付きもしない傲慢さに。

「ノアノアじゃなくて、残念だったな」

 ビンセントは片頬を歪めて笑うと、ペールは真っ赤になって顔を伏せた。構わずにビンセントは続ける。

「ノアノアは、素晴らしい。あの輝くような肉体を見ていると、描かずにはいられない。見るか?俺の素描を。ノアノアだけで俺のスケッチブックは次から次へと埋まってしまう」

「…そうですか」

「あの体を見ていると、女のように組み敷かれたくなるような誘惑に駆られるな」

「ビンセントさん!」

 ペールがギロリと睨む。「か、神の御前で何てことを言うのです!」

「おや、神父様だって、そう思ってるだろ」

「…!」

 ペールの目が驚きで見開かれる。ビンセントはペールの目の前に顔を寄せて続けた。

「俺はね、神父様、あんたの教会に最もふさわしい絵を描いて差し上げようと思ってる。こんな偽りの聖母子像じゃなくてね、題材は、そう。林檎の実を食べたアダムとイヴだ。二人の顔はノアノアとあんたにしよう。だってもう、実を食べてしまったのだろう?」

 ペールの顔が、蒼白になった。そのまま椅子に崩れるように座り込む。手が小刻みに震えだす。その、細い肩もうなじもあまりに頼りなく、ビンセントは蛇のようにこの獲物をいたぶりたい気持ちになった。

「誰も気付かないとでも?神父様、欲望を誤魔化すには、あんたはあまりに経験不足だ。子供だよ。ちゃーんと、あんたの顔に書いてあるよ。もう抱かれちまったんだろ、あの腕に。あの胸の下で、甘い声も出しちゃったんだろ?」

 バシ、と音がした。ペールがビンセントの頬を打ったのだ。

「…何という、恥知らずな!」

 だがビンセントは薄ら笑いを崩さない。

「そうさ。俺は恥を重ねて生きてきた。生きてることさえ、恥だ」

 ビンセントはペールの首を掴んだ。細い、折れそうに細い首。きっと、もとは真っ白な肌だったはずだ。日に焼けて赤くなったこの首にノアノアは口づけたのだろう。何度も、何度も。顔を埋めて。そう考えると、腹の底から、どす黒いものが湧いてきた。

「…ビ、ビンセ…」

「なぜ、その体は、あんたみたいな、頭の悪いくだらん奴のものなんだ?俺なら、俺なら…。あんたの体を俺によこせ。その体さえあれば、俺は神に愛される!」

「な、何を馬鹿な…」

「俺があんただったら!」

 ほんの少し力を込めれば、折れてしまいそうな細い首。ビンセントの指に力が入る。手の中で、ペールが大きく震えた。

「…か、神様…」

 その声に、ビンセントはハッと我に返り、手を緩めた。

 支えを失ったペールは床に倒れこみ、そのまま咳き込んだ。

「…お、俺は…」

 突然押し寄せた殺意に、ビンセントはペールと自分の手を見比べた。喧嘩も、詐欺まがいのこともしてきたが、まだ人を殺してはいない。なのに今一瞬、壁を越えてしまいそうだった自分に驚愕した。

 呆然と立ち尽くすビンセントに向かって、ペールは呟く。

「…すみません」

「…なぜ、あんたがあやまる?」

「あなたが言うように、私は罪を犯したのですから」

 ペールは深い青の瞳を見開き、ビンセントを真っすぐに見詰めた。「すべて私の弱さのせいなのです。ノアノアは何一つ悪くない。私が悪魔に魅入られた」

 静謐な、強い眼差しに今度はビンセントが気圧される。

「あ…、あんただって…、やっぱり俺と同じってことじゃないか」

「はい。だからもう私には神の道を説く資格などない。だから私は、この島を去るのです。来月のフランス行きの船で」

「…そんな噂があるな」

「本当です。だから、あなたに最後のお願いがあります。この島で出会った友人の一人の願いとして、どうかお聞き入れください」

「だ、誰が友人だと?」

 ビンセントは強がった。だが、ペールはもはや腹をくくっていた。強い目はもう動じない。

「今後一切、ノアノアに近付かないでいただきたい」

「…何だと?」

「ノアノアは私の宝。私の希望。私はこの先、どんな地獄を歩もうとも、ノアノアが幸せに笑っていると思うだけで、それだけで生きていけるのです。彼を、あなたの手で汚れさせないでください」

 ビンセントは真っ赤になった。手が震える。怒りが腹の底からこみ上げてくる。

「…俺は、それほどに汚れた存在か?」

「あなただけじゃない。私も同じです。同じ、罪人です」

 ビンセントは目を閉じた。いいや、同じじゃない。俺は、俺は。

 …一人だ。

「…馬鹿にするな…」

 ビンセントの震える唇が、やっと言葉を紡ぎ出した。「馬鹿にするな!二人して、俺を何だと思ってるんだ!」

「ビンセントさん、お願いです。私の最後の頼みです!」

「うるさい!うるさい、うるさい、うるさい!!!!」

 ビンセントはくるりと踵を返すと、扉を荒々しく閉めて教会を出て行った。


 外はすっかり闇で覆われていた。

 大またで歩きながら、ビンセントは涙が溢れてくるのを止められなかった。

(愛された者には、分かるまい。ただ一夜、一夜でいい。体だけでなく、魂から愛されたい。それだけでいい。なのに、俺は。夢も愛もすべて破れ、この体は夢の残骸と、届かない思いでいっぱいだ。一度でも、愛された者には分かるまい!)

「馬鹿にするな!俺を、俺を馬鹿にするな!!!」

 怒りと嫉妬が胸から血のように吹き出てくる。すべて消えてしまえばいい。ペールも、そして自分の愛を受け取らぬノアノアも。


 ビンセントは今度はフランスから派遣された、現地の提督トゥアールの執務館へと向かった。

 トゥアールは恰幅の良い五十代ほどの男で、人当たりの良さそうな外見をしていたが、時折目が鋭く光った。

 彼は人払いをした後、フランスから来たみすぼらしい自称・画家を不相応なほど丁重にもてなした。彼は知っていたからだ。島の「犬」たち…彼の命令でいかようにでも動く現地の人間…からの情報で、この「画家」とやらが、王弟イエテの館にしきりに出入りしていることを。

 そのトゥアールに向かって、ビンセントは告げたのだ。

「来月のヘイヴァは、ただのヘイヴァではない。島の男たちは、あんたを捕らえ、人質にしてフランスに反旗を翻すつもりだ」

 その首謀者は新たなる王……、ノアノアだ、と。


 トゥアールの供する酒を浴びるように飲み、館を出るころには夜も明けようとしていた。

 ビンセントは高揚感の中にいた。

 戦いを告げるように、明けの明星が目の前で瞬いている。その星に向かって、ビンセントは叫んだ。

「俺を、なめるな!見くびるな!思い知れ!この、馬鹿どもが!」

(どうして、俺だけがこんな目に遭うのだ。どうして、俺だけが愛されぬのだ。今に見ているがいい)

 その時、目の前を大きな黒い影が通り過ぎた気がした。

 それはまるで伝説の竜のようだった。ビンセントが目を瞬いている間に、影は明星の方へと飛び去っていった。



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