竜の呼び声
窓から、月が見えた。
半分だけの月は、そろそろ去りたげに西の空にいた。もう夜明けが近いのだろう。
時間はどうして止まってくれないのか。
一つの寝所の中、ノアノアの裸の腕に抱かれてペールはぼんやりと目を閉じた。
一カ月ほど前、マラエで抱き合ってしまってから、ずっと後悔していた。だからこそノアノアを避けてきた。なのについ、傷付いた子供のようなノアノアの顔を見たばかりに、あれほど強固だった決心は簡単に揺らぎ、砕けてしまった。
気付けば、二人抱き合って、互いの中に溺れていた。
もう、今度こそこんなことは終わりにしなければいけない。
これ以上、ノアノアに罪を犯させてはいけない。
これを最後にしなければ、もう神はお許しにならない。
心の中でペールは繰り返した。分かっているのに、どうしてこのノアノアの温もりに逆らえないのだろう。
ペールはノアノアの長い髪を撫でた。彼は眠ったまま気付かない。癖のあるつややかな髪は海の底でたゆたう玉藻のようだ。誘惑のように絡みつく、美しい海草だ。
君と離れたくない。そう言葉にできればどんなに楽だろう。
ノアノアの髪を愛しげに撫でながら、ほんの一時、ペールは夢の中に落ちた。
現われたるは 七つ門
立ちはだかりし 門番は
女神の宝 奪いたり
ああ、あの歌だ。
ペールは夢の中で思った。また、あの歌が聞こえる。
また、夢がやってくる。
掠れた、甘い声の少年が歌っている。
砂が顔に当たる。気付くと、ペールは見たこともない砂漠の中にいた。
見渡す限り、何も無い砂の丘。乾いた熱い風が顔を叩く。同じ暑さでも、濃厚な湿度を帯びたこの島とは真逆の空気。どこにも生命の気配を感じさせない、乾いた、残酷な風。
夢を見ている、と自分でも分かっている。体がふわふわと浮いている気がする。
ふと振り返ると、見知らぬ少年が立っていた。
ノアノアよりも若い。十五、十六くらいだろうか。彫刻のように整った顔立ちの、日に焼けた異国の少年だ。柔らかく波打つ麦の穂色の髪、秀でた眉、強い光を帯びた瞳は、深い緑。緑とも青ともつかぬ不思議な瞳の色は、どこかで見たはずだ。
ああ、あの石だ。
ペールは思い出した。「王の涙」とかいう、ビンセントが持ってきた石。
あの石は、あの緑の石は、君の瞳だったのか。
少年はコクリと頷いた。
名は?
(ジョシュア)
聞いたこともない名だった。と、急にジョシュアは悲しげな顔になり、呟いた。
(あの歌の、続きが欲しいんだ)
あの歌?
(そう、あの歌。女神が夫を生贄にして蘇るあの歌。そんなんじゃなく、幸せな結末が欲しい)
幸せな結末?
ペールに焦れるように、ジョシュアは歌い始める。
やはり、あの歌だ。
最初の門で失うは 王の冠なりにけり
第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り
第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り
第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り
…輝く星の胸飾り…
…輝く星の、胸飾り…
その一節だけが、繰り返される。
だが、甘やかだったジョシュアの声は次第に低く、歪んでいき、ついには地獄からの呻き声のようになった。
そして、目の前のジョシュアの体が、昆虫の殻のように裂け、その中からどす黒いものが現れる。
どす黒い「何か」は、どんどん大きくなっていき、巨大な岩になった。いや、岩ではなかった。はるか上の方に、赤く光るものが二つ見える。目だ。その下には大きく裂けた口があり、炎のような舌がチロチロと見える。
死霊?
ペールはノアノアの言葉を思い出した。死霊を見たのか、とあの時彼は問うた。
だが、違う。この黒い石は、両脇に大きな翼を持っているではないか。
竜だ!
ペールは言葉を失った。逃げようとしたが、足が動かない。
竜の目が、ひたとペールに注がれる。
雷のような音。咄嗟にペールは目と耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。
轟音が、さらに大きくなった。竜の嗤い声だった。
ペールはそれに気付くと、ようやく目を開け、顔を上げた。
竜がこちらを見ている。
(恐ろしいか?)
地鳴りのような声。嘲るように喋っているのは竜だった。
(恐ろしかろうよ)
主よ、主よ。ペールはガタガタ震えながら、必死で胸の十字架を探した。だが、なぜかいつも下げている十字架が見付からない。
夢だ。夢なのだ。夢のはずだ。
ペールは震えた。
目の前の竜が怖いのではない。雷の記憶が呼び起こす、あの血まみれの修羅場が再び目の前に来るのが恐ろしいのだ。神を求めて泣き叫んだ記憶。そして、あの時叫んだ言葉は…。
ペールの怯えを、竜は楽しんでいる。再び雷鳴のように嗤う。
(分かっているぞ。わらわの次なる宝を差し出すのは、どうやらおぬしらしいな)
宝?
(王の冠、太陽と月の耳飾り、真珠の首飾り。それらは、許されぬ恋情と血とともに聖なる火にくべられ、わらわに捧げられた。次はおぬしの番だぞ)
主よ、主よ、私の目を覚まさせてください。
ペールは必死で十字を切った。だが竜は嘲り笑うばかりだ。
(聞こえぬふりをしても無駄だ。おぬしは、輝く星の胸飾りを捧げよ。それだけで良い。ともに捧げる恋情ならば、もうその胸から溢れているからな)
聞こえぬ!聞こえぬ!悪魔の声なぞ!
祈るペールの姿を、竜はただ嗤う。
(楽しみにしておるぞ)
雷鳴のような声を発すると、真っ黒な竜は嵐のような羽ばたきを残して、はるか天空へと去っていった。
鳥のはばたく音に、ペールはわれに返った。
そこは砂漠ではなく、自分の部屋の寝所の中だった。傍らには、微かな寝息を立てているノアノア。窓を見上げると、月はもう見えなくなり、微かに明るくなり始めている。もうすぐ日が昇るはずだ。
すべては、夢だったのだ。
ペールはホッとして大きく息をついた。そして、ノアノアに気付かれぬよう、そっと体を起こした。上着をはおり、聖堂を通って外へ出る。
霧が出ていた。そのためか、まだ空気はひんやりとして、鳥の声も幾分控えめだ。井戸から水を汲み、顔を洗おうとして、ペールはハッとした。
誰かが見ている。
「誰ですか!」
虫の声が一瞬途切れ、そして再び鳴き出す。周囲を見渡すが、それ以外に何の答えも無い。何かが動く気配も無い。ペールは入念に周囲を見渡し、そしてギョッとした。
あの竜だ!竜がいる!
霧の中、はるか彼方に竜の影が見える。赤い二つの目がこちらを見ている。すべてを見透かすような、冷酷な目が。
途端に、あの竜の言葉が頭の中に蘇ってきた。
(恋情ならばもう、その胸から溢れておるからな)
(恋情ならば…)
「立ち去れ!悪魔!」
ペールは十字架を握り締め、はるか彼方の竜に向かってかざした。
「ペール、どうした?」
振り返ると、戸口にノアノアがいた。「何かあったのか?」
「ノアノア、竜が!」
「竜?」
ノアノアは目を擦ると、ペールの指差す方を見た。
「ペール、あれは…」
ノアノアが困ったような顔で言い終わる前に、霧が晴れていった。そして、ペールはその正体を知った。
そこにあったのは、いつもよく見る古城のような形の岩だ。それが、たまたま竜のように見えていただけなのだ。赤い目と思しきものも見当らない。
ペールは失笑した。自分が情けない。
「すみません、つまらないことで大騒ぎをしてしまいました。寝ぼけていたようです」
「いや…」
一緒に笑ってくれるかと思いきや、ノアノアは難しい顔を崩さなかった。「あれはあまり見ない方がいい。あれは一見岩だけど、もしかしたら呪いのティキ(人型の像)になったのかもしれない」
「呪いのティキ?」
「うん。死霊は時々、岩や木の中に入ってティキになることがある。そんなティキは大抵良くないものだから、目を合わせない方がいい」
ノアノアがあまりに神妙な顔で言うものだから、ペールは笑って頭を振った。
「大丈夫、呪いのティキなど怖くありません。私は神のしもべですから。我らの主、我らの父が守ってくれます」
「いや、ペールは僕が守る」
ノアノアはペールを抱き寄せ、安心させるように頭をポン、と叩いた。
「一人前のことを言って…」
ペールは一瞬、跳ね除けようとしたが、諦め、大人しくノアノアの裸の胸に顔を埋めた。竜のあの赤い目を思い出すと、正直まだ怖かったから。
ノアノアの胸は温かい。ティアレのすずやかな香りとともに、ノアノアの甘い匂いがする。昨夜の汗のためか、潮の香りにも似ている。このままずっと抱き締められたい。世界の終わる日まで。体の奥が、再び熱くなっていく。
その時、すぐ側で鳥が飛び出してきた。羽ばたく音に、あの、竜の羽ばたきと声が重なる。
(恋情ならばもう、その胸から溢れておるからな)
ふと、ペールの背中に冷たいものが走った。
もしかしたら、誰かに、もう気付かれているのだろうか。ノアノアへの、この許されぬ想いを。
ペールは、ノアノアの体を離した。
「どうした、ペール?」
「悔い改めるなら…」
「何を?」
ペールは一つ唾を飲み込むと、ノアノアの頬を両手で包み、子供に諭すように言った。
「過ちは悔い改めるなら、本当に心から悔いるなら、神様も許してくださいます。君はもう、こんなことは忘れて、これからは、きちんと生きていくのです」
「マラエで踊るな、ということ?」
「いえ、…ああ、それも、良くはないけれど、それだけではなくて」
「…俺たちのことか?」
「君はこれから、魚を捕り、日々の糧を得、伴侶を得、子孫を得、そしていつか、安らかに土に帰る。それが主の御心に適う生き方です。そうすべきなのです。いいですね、できますね?…私がいなくても」
ノアノアはあからさまにムッとする。
「何を言ってるんだ、ペール。俺はペールを一生かけて守るんだ。ペールがいなきゃ、俺は…」
「いいえ。ノアノア、お聞きなさい。私はフランス本土に帰ります。代わりに新しい神父をよこすよう、連絡します」
ノアノアの顔色が変わった。
「帰るって、言ったのか?ペール、冗談だろ?嘘だろ?」
ペールは首を振る。
「嘘なんかじゃありません」
「教会の本部が帰ってこいって言ったのか?」
ペールは再び首を振る。
「なら、やっぱり俺?俺のせいなの?」
ノアノアは幼い子供に戻ったかのようにペールにすがりついた。
ペールは答えられない。目を、彼から背ける。だがノアノアは続ける。
「俺、ペールの言う通りにするよ。ペールが嫌だって言うなら、もうマラエにも行かないし、もう踊らない。ペールの神様にお祈りもちゃんとする。だから、ペール、帰るなんて言わないで!」
だが、ペールは無言で首を振る。
「俺のこと、嫌いになったの?この島が嫌になったの?俺が無理矢理マラエに連れていったから?だからなの?」
ノアノアの目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。年よりもずっと幼い、見捨てられた子供のような顔になる。
「そんな顔をされては…私は…」
ペールは胸をつかれ、ノアノアの涙を指で拭った。
今すぐに抱き締めたい。そんな想いがこみ上げてくる。けれど、その衝動に身を任せてはいけないと、ペールは唇を噛んだ。「ごめんなさい、ノアノア。君のせいじゃないんです。私が帰らなければいけないのは、私の罪のせいです」
「ペールの罪?」
「そう、私の罪です。もう私には神父の資格なんてない。それだけの罪を犯したのですから」
ペールはノアノアの頬を両手で覆い、その涙に濡れた睫にそっと口づけた。
「自分の家に戻りなさい、ノアノア。新しい神父が来るまでは、ここには来てはいけません」
「ペール…」
「帰りなさい、今すぐに!」
ペールはそう言うと、ノアノアを振り払って教会の中に駆け込み、重い扉を閉め、鍵を下ろした。
「ペール!ペール!」
ノアノアはしばらく扉を叩き続けた。だが、何度叩いても応えは無い。次第に太陽は東から昇り始め、辺りは薔薇色に染まり始める。
もう少ししたら、誰かが祈りのために教会に来るかもしれない。二人でいるところを見られたらまずいだろうということは、若いノアノアにも分かった。
ノアノアは諦めて、教会を立ち去り、海へと向かっていった。
厚い木の扉の内側では、ペールが耳を塞いだまま座り込んでいた。自分を呼ぶノアノアの声も、立ち去る足音も聞こえないように。
それから、どれくらいの時間が経ったのか。ペールはゆっくりと手を耳から離し、周囲を見た。霧はすっかり晴れ、島は朝の若々しい光に覆われていた。けたたましい鳥たちの声が窓から飛び込んでくる。
ノアノアの声はもう聞こえない。家に戻ったか、漁に出かけたのだろう。
ペールは、ノアノアが残していった、スコールで濡れたズボンを手に取った。もうほぼ乾いてはいたが、顔を押し付けると、雨の匂いに混じって花のように甘い残り香が漂う。ノアノアの香りだ。
ペールには分かっていた。もし、このままこの島にいては、いつか周囲に知られてしまう。もう抗えないのだ。あの、甘い香りがする、神のような肉体の青年に。
もし、抗えたとしても、ノアノアがこれから誰かを伴侶に選び、ともに生きていく姿を見るのは、耐えられない。身が引きちぎられるようだ。まして神父として結婚の祝福などは、できるわけもない。
それなら、去らなければ。
誰かに分かってしまえば、自分だけでなくノアノアにまで罪は及んでしまう。
思い切らなければ。
ペールは、ノアノアの服に顔を埋めた。愛しい香りを思い切り吸い込みながら。