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花咲くマラエ  作者: 秋主雅歌
7/14

竜の呼び声

 窓から、月が見えた。

 半分だけの月は、そろそろ去りたげに西の空にいた。もう夜明けが近いのだろう。

 時間はどうして止まってくれないのか。

 一つの寝所の中、ノアノアの裸の腕に抱かれてペールはぼんやりと目を閉じた。

 一カ月ほど前、マラエで抱き合ってしまってから、ずっと後悔していた。だからこそノアノアを避けてきた。なのについ、傷付いた子供のようなノアノアの顔を見たばかりに、あれほど強固だった決心は簡単に揺らぎ、砕けてしまった。

 気付けば、二人抱き合って、互いの中に溺れていた。


 もう、今度こそこんなことは終わりにしなければいけない。

 これ以上、ノアノアに罪を犯させてはいけない。

 これを最後にしなければ、もう神はお許しにならない。

 心の中でペールは繰り返した。分かっているのに、どうしてこのノアノアの温もりに逆らえないのだろう。

 ペールはノアノアの長い髪を撫でた。彼は眠ったまま気付かない。癖のあるつややかな髪は海の底でたゆたう玉藻のようだ。誘惑のように絡みつく、美しい海草だ。

 君と離れたくない。そう言葉にできればどんなに楽だろう。 

 ノアノアの髪を愛しげに撫でながら、ほんの一時、ペールは夢の中に落ちた。


  現われたるは 七つ門

  立ちはだかりし 門番は

  女神の宝 奪いたり


 ああ、あの歌だ。


 ペールは夢の中で思った。また、あの歌が聞こえる。

 また、夢がやってくる。

 掠れた、甘い声の少年が歌っている。

 砂が顔に当たる。気付くと、ペールは見たこともない砂漠の中にいた。

 見渡す限り、何も無い砂の丘。乾いた熱い風が顔を叩く。同じ暑さでも、濃厚な湿度を帯びたこの島とは真逆の空気。どこにも生命の気配を感じさせない、乾いた、残酷な風。

 夢を見ている、と自分でも分かっている。体がふわふわと浮いている気がする。

 ふと振り返ると、見知らぬ少年が立っていた。

 ノアノアよりも若い。十五、十六くらいだろうか。彫刻のように整った顔立ちの、日に焼けた異国の少年だ。柔らかく波打つ麦の穂色の髪、秀でた眉、強い光を帯びた瞳は、深い緑。緑とも青ともつかぬ不思議な瞳の色は、どこかで見たはずだ。

 ああ、あの石だ。

 ペールは思い出した。「王の涙」とかいう、ビンセントが持ってきた石。

 あの石は、あの緑の石は、君の瞳だったのか。

 少年はコクリと頷いた。

 名は?

(ジョシュア)

 聞いたこともない名だった。と、急にジョシュアは悲しげな顔になり、呟いた。

(あの歌の、続きが欲しいんだ)

 あの歌?

(そう、あの歌。女神が夫を生贄にして蘇るあの歌。そんなんじゃなく、幸せな結末が欲しい)

 幸せな結末?


 ペールに焦れるように、ジョシュアは歌い始める。

 やはり、あの歌だ。


 最初の門で失うは 王の冠なりにけり

 第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り

 第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り

 第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り


 …輝く星の胸飾り…

 …輝く星の、胸飾り…


 その一節だけが、繰り返される。

 だが、甘やかだったジョシュアの声は次第に低く、歪んでいき、ついには地獄からの呻き声のようになった。

 そして、目の前のジョシュアの体が、昆虫の殻のように裂け、その中からどす黒いものが現れる。

 どす黒い「何か」は、どんどん大きくなっていき、巨大な岩になった。いや、岩ではなかった。はるか上の方に、赤く光るものが二つ見える。目だ。その下には大きく裂けた口があり、炎のような舌がチロチロと見える。

 死霊?

 ペールはノアノアの言葉を思い出した。死霊を見たのか、とあの時彼は問うた。

 だが、違う。この黒い石は、両脇に大きな翼を持っているではないか。

 竜だ!

 ペールは言葉を失った。逃げようとしたが、足が動かない。

 竜の目が、ひたとペールに注がれる。

 雷のような音。咄嗟にペールは目と耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。

 轟音が、さらに大きくなった。竜の嗤い声だった。

 ペールはそれに気付くと、ようやく目を開け、顔を上げた。

 竜がこちらを見ている。

(恐ろしいか?)

 地鳴りのような声。嘲るように喋っているのは竜だった。

(恐ろしかろうよ)

 主よ、主よ。ペールはガタガタ震えながら、必死で胸の十字架を探した。だが、なぜかいつも下げている十字架が見付からない。

 夢だ。夢なのだ。夢のはずだ。

 ペールは震えた。

 目の前の竜が怖いのではない。雷の記憶が呼び起こす、あの血まみれの修羅場が再び目の前に来るのが恐ろしいのだ。神を求めて泣き叫んだ記憶。そして、あの時叫んだ言葉は…。

 ペールの怯えを、竜は楽しんでいる。再び雷鳴のように嗤う。

(分かっているぞ。わらわの次なる宝を差し出すのは、どうやらおぬしらしいな)

 宝?

(王の冠、太陽と月の耳飾り、真珠の首飾り。それらは、許されぬ恋情と血とともに聖なる火にくべられ、わらわに捧げられた。次はおぬしの番だぞ)

 主よ、主よ、私の目を覚まさせてください。

 ペールは必死で十字を切った。だが竜は嘲り笑うばかりだ。

(聞こえぬふりをしても無駄だ。おぬしは、輝く星の胸飾りを捧げよ。それだけで良い。ともに捧げる恋情ならば、もうその胸から溢れているからな)

 聞こえぬ!聞こえぬ!悪魔の声なぞ!

 祈るペールの姿を、竜はただ嗤う。

(楽しみにしておるぞ)

 雷鳴のような声を発すると、真っ黒な竜は嵐のような羽ばたきを残して、はるか天空へと去っていった。


 鳥のはばたく音に、ペールはわれに返った。

 そこは砂漠ではなく、自分の部屋の寝所の中だった。傍らには、微かな寝息を立てているノアノア。窓を見上げると、月はもう見えなくなり、微かに明るくなり始めている。もうすぐ日が昇るはずだ。

 すべては、夢だったのだ。

 ペールはホッとして大きく息をついた。そして、ノアノアに気付かれぬよう、そっと体を起こした。上着をはおり、聖堂を通って外へ出る。

 霧が出ていた。そのためか、まだ空気はひんやりとして、鳥の声も幾分控えめだ。井戸から水を汲み、顔を洗おうとして、ペールはハッとした。

 誰かが見ている。

「誰ですか!」

 虫の声が一瞬途切れ、そして再び鳴き出す。周囲を見渡すが、それ以外に何の答えも無い。何かが動く気配も無い。ペールは入念に周囲を見渡し、そしてギョッとした。

 あの竜だ!竜がいる!

 霧の中、はるか彼方に竜の影が見える。赤い二つの目がこちらを見ている。すべてを見透かすような、冷酷な目が。

 途端に、あの竜の言葉が頭の中に蘇ってきた。

(恋情ならばもう、その胸から溢れておるからな)

(恋情ならば…)

「立ち去れ!悪魔!」 

 ペールは十字架を握り締め、はるか彼方の竜に向かってかざした。

「ペール、どうした?」

 振り返ると、戸口にノアノアがいた。「何かあったのか?」

「ノアノア、竜が!」

「竜?」

 ノアノアは目を擦ると、ペールの指差す方を見た。

「ペール、あれは…」

 ノアノアが困ったような顔で言い終わる前に、霧が晴れていった。そして、ペールはその正体を知った。

 そこにあったのは、いつもよく見る古城のような形の岩だ。それが、たまたま竜のように見えていただけなのだ。赤い目と思しきものも見当らない。

 ペールは失笑した。自分が情けない。

「すみません、つまらないことで大騒ぎをしてしまいました。寝ぼけていたようです」

「いや…」

 一緒に笑ってくれるかと思いきや、ノアノアは難しい顔を崩さなかった。「あれはあまり見ない方がいい。あれは一見岩だけど、もしかしたら呪いのティキ(人型の像)になったのかもしれない」

「呪いのティキ?」

「うん。死霊は時々、岩や木の中に入ってティキになることがある。そんなティキは大抵良くないものだから、目を合わせない方がいい」

 ノアノアがあまりに神妙な顔で言うものだから、ペールは笑って頭を振った。

「大丈夫、呪いのティキなど怖くありません。私は神のしもべですから。我らの主、我らの父が守ってくれます」

「いや、ペールは僕が守る」

 ノアノアはペールを抱き寄せ、安心させるように頭をポン、と叩いた。

「一人前のことを言って…」

 ペールは一瞬、跳ね除けようとしたが、諦め、大人しくノアノアの裸の胸に顔を埋めた。竜のあの赤い目を思い出すと、正直まだ怖かったから。

 ノアノアの胸は温かい。ティアレのすずやかな香りとともに、ノアノアの甘い匂いがする。昨夜の汗のためか、潮の香りにも似ている。このままずっと抱き締められたい。世界の終わる日まで。体の奥が、再び熱くなっていく。

 その時、すぐ側で鳥が飛び出してきた。羽ばたく音に、あの、竜の羽ばたきと声が重なる。

(恋情ならばもう、その胸から溢れておるからな)

 ふと、ペールの背中に冷たいものが走った。

 もしかしたら、誰かに、もう気付かれているのだろうか。ノアノアへの、この許されぬ想いを。

 ペールは、ノアノアの体を離した。

「どうした、ペール?」

「悔い改めるなら…」

「何を?」

 ペールは一つ唾を飲み込むと、ノアノアの頬を両手で包み、子供に諭すように言った。

「過ちは悔い改めるなら、本当に心から悔いるなら、神様も許してくださいます。君はもう、こんなことは忘れて、これからは、きちんと生きていくのです」

「マラエで踊るな、ということ?」

「いえ、…ああ、それも、良くはないけれど、それだけではなくて」

「…俺たちのことか?」

「君はこれから、魚を捕り、日々の糧を得、伴侶を得、子孫を得、そしていつか、安らかに土に帰る。それが主の御心に適う生き方です。そうすべきなのです。いいですね、できますね?…私がいなくても」

 ノアノアはあからさまにムッとする。

「何を言ってるんだ、ペール。俺はペールを一生かけて守るんだ。ペールがいなきゃ、俺は…」

「いいえ。ノアノア、お聞きなさい。私はフランス本土に帰ります。代わりに新しい神父をよこすよう、連絡します」

 ノアノアの顔色が変わった。

「帰るって、言ったのか?ペール、冗談だろ?嘘だろ?」

 ペールは首を振る。

「嘘なんかじゃありません」

「教会の本部が帰ってこいって言ったのか?」

 ペールは再び首を振る。

「なら、やっぱり俺?俺のせいなの?」

 ノアノアは幼い子供に戻ったかのようにペールにすがりついた。

 ペールは答えられない。目を、彼から背ける。だがノアノアは続ける。

「俺、ペールの言う通りにするよ。ペールが嫌だって言うなら、もうマラエにも行かないし、もう踊らない。ペールの神様にお祈りもちゃんとする。だから、ペール、帰るなんて言わないで!」

 だが、ペールは無言で首を振る。

「俺のこと、嫌いになったの?この島が嫌になったの?俺が無理矢理マラエに連れていったから?だからなの?」

 ノアノアの目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。年よりもずっと幼い、見捨てられた子供のような顔になる。

「そんな顔をされては…私は…」

 ペールは胸をつかれ、ノアノアの涙を指で拭った。

 今すぐに抱き締めたい。そんな想いがこみ上げてくる。けれど、その衝動に身を任せてはいけないと、ペールは唇を噛んだ。「ごめんなさい、ノアノア。君のせいじゃないんです。私が帰らなければいけないのは、私の罪のせいです」

「ペールの罪?」

「そう、私の罪です。もう私には神父の資格なんてない。それだけの罪を犯したのですから」

 ペールはノアノアの頬を両手で覆い、その涙に濡れた睫にそっと口づけた。

「自分の家に戻りなさい、ノアノア。新しい神父が来るまでは、ここには来てはいけません」

「ペール…」

「帰りなさい、今すぐに!」

 ペールはそう言うと、ノアノアを振り払って教会の中に駆け込み、重い扉を閉め、鍵を下ろした。

「ペール!ペール!」

 ノアノアはしばらく扉を叩き続けた。だが、何度叩いても応えは無い。次第に太陽は東から昇り始め、辺りは薔薇色に染まり始める。

 もう少ししたら、誰かが祈りのために教会に来るかもしれない。二人でいるところを見られたらまずいだろうということは、若いノアノアにも分かった。

 ノアノアは諦めて、教会を立ち去り、海へと向かっていった。

 厚い木の扉の内側では、ペールが耳を塞いだまま座り込んでいた。自分を呼ぶノアノアの声も、立ち去る足音も聞こえないように。


 それから、どれくらいの時間が経ったのか。ペールはゆっくりと手を耳から離し、周囲を見た。霧はすっかり晴れ、島は朝の若々しい光に覆われていた。けたたましい鳥たちの声が窓から飛び込んでくる。

 ノアノアの声はもう聞こえない。家に戻ったか、漁に出かけたのだろう。

 ペールは、ノアノアが残していった、スコールで濡れたズボンを手に取った。もうほぼ乾いてはいたが、顔を押し付けると、雨の匂いに混じって花のように甘い残り香が漂う。ノアノアの香りだ。

 ペールには分かっていた。もし、このままこの島にいては、いつか周囲に知られてしまう。もう抗えないのだ。あの、甘い香りがする、神のような肉体の青年に。

 もし、抗えたとしても、ノアノアがこれから誰かを伴侶に選び、ともに生きていく姿を見るのは、耐えられない。身が引きちぎられるようだ。まして神父として結婚の祝福などは、できるわけもない。

 それなら、去らなければ。

 誰かに分かってしまえば、自分だけでなくノアノアにまで罪は及んでしまう。

 思い切らなければ。

 ペールは、ノアノアの服に顔を埋めた。愛しい香りを思い切り吸い込みながら。



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